目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第6話

 リリちゃんは妖精だ。

 女神クリュムネメージスが、恵みの森と共にこの地に遣わした妖精……。

 我らが女神を魔女呼ばわりする神殿の愚か者共や、人でなしの王家に勘付かれでもしたら、リリちゃんに危険が及ぶ可能性が非常に高い。

 なので、正体を知っている者は村人の中でも少数だ。

 しかし、オレは知っている。


 「……っくう!」


 バアル・ナウリットが、突然、胸を押さえて、ガクリ…と、地面に膝をつく。

 二十歳はたちにもなる青年の、何やら深く感銘を受けたであろう大袈裟な仕草に、しかし周囲は「またか」と一瞥いちべつし、それぞれの作業に戻る。

 明日には天気が崩れるらしい。追肥や雑草抜きに水捌みずはけの確認など、やる事は山のようにある。

 バアルのいつもの発作になど、付き合っている暇はないのだ。


 バアルは半年前、村長の家に避難していた8家族のうちの一人であった。当時、村長の家で面倒を見ていたのは子供ばかり。皆、大人が出稼ぎの為、家を不在にしている家庭の子らだ。

 自身の弟を含む、6歳から11歳の子供たちの守り役として村に残されていたバアルは、死を待つばかりだった猛吹雪の早朝、ただならぬ気配に目を覚まし、事実を知ったのだ。

 ヴァルター・ジェバイリタに抱きかかえられ、運び込まれた、理莉の姿がバアルの脳裏に蘇る。


 雪に濡れたの長い黒髪……

 意識を失い、伏せられた瞳を縁取る、漆黒の美しい睫毛まつげ……

 ちょこんした鼻が愛らしくも、整った顔立ちに…

 見たことのない、短い丈の装束から覗く、色白で華奢な手足……

 なんと、艶めかしくも、可憐な姿……


「ぐぬぅ……っ!」

 ゴンッ……‼︎‼︎


 額を地面に打ち付け、更にうずくまると、バアルは次第に小刻みに震え始めた。

 砂のついた眉間に皺を寄せ、胸元の手が怒りに拳を握りしめる。


 ――その妖精さんを虐める極悪人が、数日前から村に居座っている!


 村の重鎮達に抗議するも、幼なじみだから心配はいらないと、逆に諭される始末。その上、その男のする事に手出し無用とは、全くもってどうかしている。


 ――リリちゃんを悪の手から守る為に、村人すら欺いているのではなかったのかっ⁉︎


 事実、理莉は表向き村長の客人ということになっていた。王都で働いている村長の孫娘、つまりオルバーの母親から"勤め先のお嬢さんを田舎で静養をさせたい"という理由で預かっている設定だ。

 数ヶ月もの間、村長の家にひた隠して春を待ち、更に新緑の時期を過ぎ、森に青葉が茂り始めて、ようやく王都から馬車を走らせ、偽装までしたのだ。

 今、女神の森と理莉を関連付ける者など、この村には誰一人としていない。……あの吹雪の朝を知る者以外は。……しかし。


 ――真実を知らぬ愚か者の言動とはいえ、幼なじみだろうが、何だろうが、リリちゃんは虐げられて良い存在では断じてないのだ!

 ――なのに何故、知っている者らの決定事項が、手出し無用なのだ!


 バアルの瞳から、悔し涙が一筋、頬を伝う。

 村の重鎮達の判断が、バアルにはどうしても納得できなかった。


「きゃあぁあーーっ!やだやだっ!もおヤダ!海斗くんのなんか、大ッ嫌い――!」

「……んだと?コラ!誰の為だと思ってんだっ!さっさと降りてこい!この…バカ理莉がっ!」


 バアルが服の袖で涙を拭い、声の方を見る。

 トナックだったかトラックだったか……、車輪のついた四角い物体に、朝から散々追いかけ回されていた理莉が、なんとか避難に成功したらしい。


 決して高くはない木だが、辛うじて人の手が届かないところに、理莉が必死にしがみついていた。

 追い打ちをかけるように、海斗が木の幹を蹴って揺さぶっている。


「さっさと…(ガン!)降りてっ(ガッ!)……こいっ!(ガンッッ‼︎)」

「いっ、嫌っ!お、おっ、落ちる!落ちちゃう!怖っ、怖いっ…ヤダ!もおっ!海斗くんの人でなしっー!」


 "人でなし"など、なんて妖精さんは優しいんだ!

 こんな奴、そもそも人ですらないわっ!


 ――悪魔めっ……!


 もし、海斗が悪魔だとするならば、同郷の幼なじみである理莉も悪魔なのではなかろうか。しかし、そんな論理的思考は今のバアルには欠片ほどなかった。


 恋は盲目。

 正にその通りであった。


 ••✼••


「……もお、無理……」

「だ、大丈夫?……じゃないね。お疲れリリ姉……」


 夕食後のダイニングテーブルに、理莉がグッタリと顔を伏せる。

 トラックに追い回されるようになって、すでに5日。本で頭を叩かれていたことが、懐かしくも生易しく感じられる。最近では、沼に沈められるわ、空を飛び回らされるわ……。昨日はついに、雷を落とされそうになって、さすがにオルバーが止めに入る事態にまでに至った。


「甘えるな。"もお無理"じゃねんだよ。ここにきてから半年もこのままなんだぞ?もっと自覚しろ!」

「……わかって…ます」

「分かってねえよっ」

「……もぉ、死んでるかも……」

「ハアッ、……死んでねえっ!さっさと思い出せ。バカが……」


 このやりとりも、もう5日だ。

 海斗に会って、自分が異世界にいる事実に気づいてから、それまで楽しく暮らしていた事が嘘のように、理莉は日に日に不安定になっている。

 これこそが、正常なストレス反応と言われればそれまでだ。ただ時期が悪い。今はもう、そんなことに費やしている時間はなかった。

 苛立ちも露わに、決して好ましくないこの状況を作り出した、元凶だろう村長を睨みつける。

 しかし、むしろ焦ってるのは老人の方だった。

 海斗の視線に、老人は背ほどの高さもある杖を支えに立ち上がると、曲がった腰のまま理莉の側まで歩み寄った。もう寝なさいと促す。


「ジジィ…勝手な事すんな。話はまだ終わってねえ」

「話があるのは、ワシにじゃろうて」

「あ!僕も!僕もう寝るよ、おやすみカイト兄!」


 流石は空気の読める出来た少年だ。オルバーは慌てて椅子から飛び降りると、ウトウトとまどろむ理莉を支えながら2階へと消えていった。

 二人残されたダイニングで、老人は改めて海斗の真正面に座り直す。


「……潜匿せんとくの魔法をかけねば、とうに神殿か王家に見つかって、あの子は殺させていたじゃろうて。まあ、それもお前さんに会って解けてしもうたが……」

「……あいつも俺も、こっちの世界の事情なんか関係ねんだよ」

「あの子が女神の森と共に現れたのは偶然ではなかろうよ」

「偶然だ。勝手にあいつを妖精だとか何だとか、祭り上げてんじゃねえよ」

「バアルじゃな……まったく。まあ、アレはただの恋煩いじゃ。誰も気にせんじゃろ」


 スウ……っと、室内に魔力が満ちる。


 ――ああ、気にする者がここにおったわ……


 息も詰まりそうな程に濃密で、押しつぶされそうな重圧は、初めて海斗と遭遇した時に感じたそれと同じだ。

 ただ、あの時とは違い、若者の嫉妬に苦笑いを浮かべる余裕があるのは、決して海斗が手加減している訳でも、老人が慣れた訳でもなかった。

 老人の……いや、村人全員の魔力が、今ここに至って急激に戻りつつあったのだ。

 理由は定かではないが、推論はついた。

 おそらく、自分が誰なのか、理莉が思い出したことがきっかけだろう。

 こうなってしまった以上、クリュムネメージスの森が復活した事を、そしてその復活に寄与しているであろう理莉の存在を、隠したところで意味がない。

 すでに、この地に魔力が満ちている。

 気付かれるのは時間の問題だ。すでに、気付かれているかも知れない。

 レンテ・ジェバイリタは焦っていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?