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絶望の中で

その影は、まだ近くまで来ていない。

隠れるのも逃げるのも今ならまだ間に合う。

「急げ……急げ……っ!」

小声でレベッカを急かすが、彼女は足に力が入らない様子でふらつく。

「なにやってんだよおい!」

「フレイ……トォル……」

震える声で幼なじみの名を呼ぶ。

「大丈夫だって! あいつらならきっとうまく逃げてる!」

「じゃあ……じゃああれは何ッ!」

叫びながらレベッカが示した先には、真っ赤な池があった。

「……何……って……」

頭から血の気が引いていく。

目の前の醜悪な水溜まりには、時折ぴくりと動く生々しい肉塊が浮かんでいた。

紛れもなくこれは、人だったものに違いない。

「う……っ……」

急速に込み上げる胃液を寸前で押し留め、目を塞ぐ。

ガチガチと鳴る歯の音で、ようやく自分の身体が止められないほどに震え続けていることに気づいた。

「違う……あれはあいつらじゃない……あれは……あんなのは……」

否定したくとも、目に入ってしまった衣服の残骸には、あの二人と共通する装飾があった。

「私も……私もあんなふうに……」

レベッカは力無くそう言ってその場にへたり込み、泣きじゃくってしまう。

「泣いてる場合じゃない……けど……」

けど……何の力も無い俺たちに、ただの村人の俺たちに、何が出来るっていうんだ……。

「……行こう。レベッカ」

こうなってしまってはレベッカはもう自律した行動は取れないだろう。

冷静に考える余裕はなくとも、こいつを護ることだけに集中しろ……!

それが今の俺に出来る精一杯だ!

レベッカの手を引き走り出す。

彼女は歩調こそ合わせてはくれないもののなんとか足を動かしてくれる。

無理矢理にでも引っ張りながら安全な場所を目指して進む。

安全な場所なんてどこにあるかはわからないが……とにかくあの影に見つからないように遠ざかれば!

「ほらっ! あいつはまだ来ないから!」

振り向いて後ろのレベッカを励ましながら歩く。

血の気の引いていた顔はさっきよりやや赤みを増し、少しだけ気が落ち着いてきた様子だ。

……だが、その数秒後、レベッカの顔が突然先程のように青ざめてしまう。

「ど、どうしたんだよ!」

「あ……う、うし……ろ……」

「え?」

俺が振り返ると、目の前には人の丈程もある巨大な齧歯類がいた。

「うわぁっ!」

「こ、こないで!こないでよぉっ!」

背後からの奇襲に腰を抜かした俺を他所に、齧歯類はレベッカに向かっていく。

「やめ……やめろ……! レベッカ! レベッカ逃げろ!」

「マー……ク……!」

俺に向けて伸ばした手は、届かない。

大きく鋭い前歯がレベッカの肩口に突き刺さる。

「ああぁぁぁああぁっ!! 痛いっ! 痛いよぉっ!!」

その瞬間、レベッカの絶叫と鮮血が辺りに撒き散らされる。

「だめだ……だめだやめろ!」

ふらつきながらも齧歯類の外皮にしがみつくが、その体は微動だにしない。その間にも貪るようにレベッカは食い散らかされていく。

「マーク! 助け……て! 助けてェ!!」

一際大きな懇願の声を上げた瞬間、まるでそれが耳障りだったかのようにレベッカの喉元が抉られた。

「かひゅ……っ」

そしてそのまま、彼女の首は地面にぼたりと落ちた。

虚ろな目がこちらを見つめている。

後ろで自分の身体が喰らわれているのを見ることも出来ずに。

「なん……で……」

もう、終わりだ。

誰も助からない。こんな絶望的な状況で、何か為せる訳が無い。

何も持たない、何の力も無いこの俺に。

……そうか、そうだった。

これは、この世界の日常。

どの町でも行われているありふれた日常。

普通な俺にはぴったりの、普通な終わり方だったんだ。

自己完結し、全てを諦めて目を閉じる。


『こんなの、普通なもんかああぁぁぁああ!!』


胸の内で突然爆発しそうなくらいの鼓動が巻き起こり、自分が発していない自分の声が聞こえた。


『普通普通って、お前が普通な訳ねぇだろうが!普通ってのはなぁ! もっと平和で快適で穏やかなことなんだよ!』


一体誰がそんなことを言っている。

そんな理想郷が普通であっていいはずがない。

この村に暮らす者たちはいつだってそれに憧れ、そしてそれは叶うことはない。

それが普通であるはずがないんだ。


『だったら俺が見せてやる! お前の村の絶望的な状況も、普通になったらそれだけで理想郷になれるんだもんな!』


謎の声が力強くそう言うと、勝手に俺の身体が動く。

「見てっか先輩! 女神様! こんなハードな任務押し付けやがって! あんたらの言ったことが本当かどうか確かめるから、ダメだったら許さねぇかんなっ!」

俺の身体は天に向かって叫び出す。

それが誰に向けられた言葉なのか、何をしようとしているのか、何も知らない。ただ今は、この声の意思に任せるしかない。

「この村の何もかも全部"普通"に戻しやがれェ!!」

片腕を突き上げると、広げた手の先に溢れる程の光が集う。

それを握りしめて大きく叫ぶ。

「ノーマライゼーション!!!」

拳から漏れだした光が飛び散るように周囲に広がっていく。その光は眩く、白く、全てを飲み込んでいった。

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