薄暗く湿った空気が漂う路地裏を小夏が歩いていた。
夜の帳が降り、ちらつく街灯の光が頼りない。道の端には、いかにも胡散臭い男たちが立ち並び、低い声で甘い誘いを投げかけるが、小夏は無視して歩を進めた。
路地の奥に進むにつれ、ざわめきが遠ざかり、不穏な静けさが広がる。
やがて、目の前に目的地が現れた。
『カラオケ店 Ada』
小汚いネオン看板が、バチバチと不安定に点滅していた。
どうやらネオン管が切れかけているらしい。
小夏はその場に立ち尽くし、深いため息をついた。
「はぁ……」
小夏はまるで牢獄へ足を踏み入れるような気分だった。だが、軽く息を吐き、覚悟を決めると、地下へと続く階段を静かに降りていった。
薄暗い店内に足を踏み入れると、受付のカウンターにはくたびれた五十代くらいの男が座っていた。
彼は小夏の顔をちらりと見たが、何も言わずにすぐに視線を雑誌へ戻す。
どうやら、この店に来るのは初めてではない客と認識しているようだった。
小夏は迷うことなく奥の個室ルームへ向かう。
ノブを回し、部屋の中へと足を踏み入れた。広いスペースには、ソファーがいくつも配置され、大人十人ほどが余裕で入れる空間だった。
部屋に入った瞬間、
「クソが!!!」
怒号と共に、テーブルが激しく蹴り飛ばされた。
「あのクソ女!俺よりあのクソ陰キャ選びやがった!!」
声の主は伍代雄二。
ソファーに座ったまま、拳を握りしめ、今にも爆発しそうなほど怒りに満ちている。
「葵のやつもだ……調子にのりやがって!!」
そう吐き捨てるように言うのは鷹松圭太。
手にしていた空き缶を年季の入った壁に叩きつけると、乾いた音が響いた。
小夏は二人を見て呆れたように、深いため息をつく。
「……で?私をここに呼んだ理由は?」
冷静に問いかけると、伍代と鷹松がこちらを睨みつけてきた。
「チッ……」
舌打ちをしながら、鷹松は新しい缶ビールを袋から取り出す。
伍代が荒々しく口を開いた。
「もうなりふり構っていられねえ。あの女共をめちゃくちゃにしてやる……」
小夏は無言のままスマホを取り出し、慣れた手つきで操作を始めた。
画面に映る複数のフォルダを素早くスクロールし、狙った画像を選択する。その指の動きには迷いがなかった。
しばらくすると、伍代のスマホに通知音が響いた。
その音が狭い部屋に響き、伍代の表情が一瞬固まる。
彼が急いでスマホを手に取り、画面を確認する。
そこに映っていたのは、公園で伍代と雅がデートをしていた時の隠し撮り写真。
角度的に、二人がキスをしているように見える。
「これか……こいつを今使えってことか?」
伍代が小夏に尋ねる。彼女は小さく頷き、にやりと笑った。
「それだけじゃないですよ。実は私、啓先輩の正体を知っちゃったんですよね」
その言葉に、伍代と鷹松が顔をしかめた。
「……は?正体?」
「ニュースとか見ないんですね、先輩方」
呆れたように言いながら、小夏は話を続ける。
「この前ニュースで、ある記者会見が放送されてたんですよ。私が先輩に盗作させた小説、あれが映画化されることが発表されて、その時にその本の原作者も紹介されてたんです」
伍代と鷹松の表情が固まる。
「まさか……」
「そう、啓先輩ですよ」
驚愕の表情を浮かべる二人。伍代が慌てて口を開いた。
「ちっ、それであの時二人と一緒に喫茶店にいたのか」
舌打ちしながら呟く鷹松。
「まさかあいつが……どうやってそれが分かったんだ?」
小夏はスマホを軽く掲げ、にやついた顔を見せる。
「ええまあ、懐かしいウサギちゃんを見つけたんで……」
「ウサギ?」
首をかしげる二人をよそに、小夏は続ける。
「それより、その写真、使うなら今ですよ?」
「……今?」
鷹松が怪訝そうに眉を寄せる。
「映画化が決まった小説、読んでみたんですけどね。あれ、啓先輩が雅先輩と葵先輩をモチーフにして書いたものなんですよ」
忌々しそうに吐き捨てるように言う。
「だから?」
「
その言葉に、伍代と鷹松の口元がゆっくりと歪む。冷酷な笑みが広がり、互いの視線が交わされた。
「……面白えな」
伍代が低く呟くと、鷹松が乾いた笑いを漏らす。
二人の間には、これから展開される計画への興奮が滲んでいた。
小夏はそんな二人を冷めた目で見下ろし、肩をすくめた。
「じゃ、私はここまで。あとはご自由に。あ、決行場所と時間だけは念のため教えといてくださいね」
彼女の声には、すでにこの場には興味がないと言わんばかりの冷淡さがあった。
ソファーから立ち上がり、無造作に髪を払うと、ゆっくりとドアへ向かう。
店を出ると、ひんやりとした夜の空気が肌を撫でた。
小夏は一息つきながらスマホを取り出し、アドレス帳を開く。
――
画面をタップし、耳に当てると、軽快な声が弾けるように響いた。
『こなっちゃん、ひさしぶりやん!どないしたん?』
相変わらず能天気な声だ、と小夏は心の中で呆れつつも、口元に小さく笑みを浮かべた。
「さなっち、久しぶり。ちょっと計画に支障が出そうだから、次の手で行こうと思って」
『計画って……ああ、あれか。あんた、まだ啓君追いかけてんの?ほんましつこすぎてウケるんやけど』
けらけらと笑う彼女の声がスピーカー越しに響く。しかし、その瞬間、小夏の表情が氷のように冷たく変わった。
「あ……?」
僅かに低くなった声に、早苗は即座に察知したのか、慌てたように声を改める。
『ご、ごめんやって!冗談やから、ほんまに!』
「……それより、昴さんに時間空いたら連絡するよう伝えてくれない?」
『兄貴に?ええけど……最近映画出演決まったりで忙しそうやけど、まあ、こなっちゃんの頼みなら兄貴も断らんやろ。相変わらず、ロリコン野郎やしな』
早苗がクスクスと笑う。
「相変わらず、か……昴さんも変わらないね」
『ほんまやわ。わが兄貴ながら、下衆なとこは直らんね。あとは?それだけでええんか?』
「うん、今のところは……でもまた何か頼むかも」
小夏がそう言うと、早苗は『オッケー、幼馴染のよしみやし、心配せんでええで』と軽い調子で返した。
通話を切ると、小夏はスマホを見つめ、静かに息を吐いた。
雅と葵、そして啓の関係は、もう十分に引っ掻き回した。おそらく、あの二人と啓先輩の関係は、もう元には戻らない。
もちろんチャンスがあるならあの二人にも償わせる。
私が負った傷の代償を。
だから今は……。
小夏はゆっくりと目を閉じ、考えを巡らせる。そして、目を開いたときには、口元にわずかな笑みが浮かんでいた。
「香坂真凛……篠宮神楽……」
その名を静かに呟く。その声は、ひどく冷たく、しかしどこか楽しげでもあった。