玄関の扉を開けると、家の中の温かい空気が僕を包み込んだ。「ただいま」と言った瞬間、なぜか自分の両脇に違和感を感じる。
「こんばんは、お邪魔します」
「お邪魔しま~す」
両隣を見ると、そこには満面の笑みを浮かべた香坂真凛と篠宮神楽が立っていた。
まるで自分の家に帰ってきたかのように、自然に。
事の発端は、学校のバスケ部の部室で葵と一悶着あった後の出来事だった。
僕自身はそこまで気にしていなかったが、真凛と神楽は違った。
どうやら僕が少し元気がないと思ったらしく、「もう少しそばにいてあげたい」と二人は意気投合したらしい。
そして、気がつけば「じゃあ啓の家に行こう」という流れになっていた。
僕が「夜も遅いし、今度にしたらどうかな?」と慌てて言い訳をすると、二人は揃って微笑みながら言った。
「私、一人暮らしだから気にしないでください」
「私もよ? だから啓が気にすることないの」
全く容赦がない。
結局、二人を家に招くことになり、今に至る。
僕は困ったように小さく息をつきながら、「まぁ、上がって」と言いながらドアを開けた。すると、二人は嬉しそうに頷きながら家に上がった。
その時、奥から母さんの声が響いた。
「あらあら、お帰りなさい。真凛さんと神楽さんもいらっしゃい!」
母さんは玄関まで迎えに来て、にこやかに二人を歓迎する。
一度会ったことがあるので、すでに親しげに接していた。
会話はすぐに弾み、楽しそうな雰囲気になる。
そんな中、母さんが僕の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。
「で? 啓はもうどっちにするか決めたの? 母さん、この二人ならどっちでも大歓迎よ?」
「そ、そんなの決めてないよ!」
僕は顔を真っ赤にしながら抗議したが、母さんは「まぁ!」と驚いた後、何かを悟ったように「あらあら」と微笑む。
「じゃあ二人とも!? いばらの道かもしれないけど、啓がそう決めたなら母さんは応援するわよ?」
「もういいから母さんは黙ってて!!」
僕が叫びたくなるのを必死で堪えると、母さんは愉快そうに笑いながら「はいはい」と軽く流す。
そして、真凛と神楽に向かって「良かったら晩御飯、一緒にどう?」と誘った。
「いいんですか?ぜひ! あ、私手伝います!」
「私も!」
二人はノリノリでキッチンへと向かい、母さんと並んで料理を始めた。
和やかな雰囲気の中、僕はようやく自室へと逃げ込んだ。
制服を脱ぎ、鞄を置いたその瞬間、携帯が震えた。
画面を見ると天音雅からの着信。僕は息を飲む。
今さら……。
着信は鳴り続けたが、僕は出なかった。もう、過去に縛られたくなかったから。
やがて着信は途切れた。しかし、すぐにまた着信音が鳴る。
今度は立花葵からだった。
「……っ」
無言のまま首を横に振る。
結局、その着信にも出ることはなかった。
着替え終わると、SNSの通知音が鳴った。
見ると、雅からのメッセージ。
『さっきはごめんなさい、ちゃんと話がしたいです。明日、放課後時間をください』
既読にはしたが、返事は返さない。するとすぐに、もう一件の通知が届いた。
今度は葵。
『今日のことも、今までのこともちゃんと謝りたい。だから明日少し話したい。お願い』
僕はしばらく考えたが、やはり既読だけをつけ、返信はしなかった。
携帯を机に置き、ふぅっと息をつく。そして、部屋を出てリビングへ向かった。
階段を降りると、キッチンから楽しげな会話が聞こえてくる。その和やかな雰囲気に少し安心しながらリビングへ足を踏み入れた瞬間、突如、父さんの大きな声が響いた。
「な、なんだこれは!? どうしてうちに香坂真凛と篠宮神楽がいるんだ!? もしかして、あのテレビ番組の“芸能人が一般家庭の晩御飯に突撃取材する”やつか!?」
リビングにやって来た父さんが、新聞を手にしたまま目を丸くし、二人を交互に見つめている。
「こんばんは、お邪魔しています!」と真凛が明るく微笑む。 「ふふっ、啓くんお父さん似なのね」と神楽が面白そうに言う。
父さんは目を瞬かせながら、二人を交互に見つめる。
「お父さん、そんなに驚かないで。二人とも、啓のお友達なのよ」と、母さんが諭すように言った。
「え、あ、そ、そうなのか?」
「驚かせちゃってすみません、でもせっかくお邪魔したので、よろしくお願いします!」と真凛が楽しげに言う。
「お父さん、そんなに固くならなくてもいいですよ?」と神楽もクスッと笑う。
「あっ……」
僕はその様子を見て、しまった、まだ父さんに二人のことを話していなかった、と焦る。
急いで父さんに駆け寄り、「映画の仕事で二人と仲良くなったんだ。だから驚かなくても大丈夫だよ」と説明する。
父さんはしばらくポカンとしていたが、「な、なるほど、そういうことか……」と納得したように頷いた。
「そういうことなら、まあ、ゆっくりしていけばいい」
母さんは優しく微笑み、「さあ、続きを手伝ってもらおうかしら」と言いながら、真凛と神楽を連れてキッチンへと戻っていった。
ソファーでは、父さんが新聞を手にしながらも時折キッチンを気にし、微笑ましくその様子を見守っている。
キッチンでは、母さんと真凛、神楽が楽しそうに談笑しながら料理を続けている。まるで昔から家族の一員だったかのような、和やかな雰囲気に包まれ、僕はようやく肩の力を抜き、小さく笑みをこぼした。
そんなとき、玄関の扉が開く音が響いた。
「ただいま」
玄関の扉が開く音とともに、聞き慣れた落ち着いた声が響いた。
それは、姉の相沢響子の声だった。
母さんが「あら? 最近よく帰ってくるわね、響子」と穏やかに微笑む。
リビングにいた真凛と神楽が、その名前に反応し、首を傾げた。
「響子?」
「誰ですか?」
僕は「ああ、僕の姉さんで、今は大学――」と言いかけて、ハッとした。
……やばい。
脳裏に浮かぶのは、以前の響姉の言葉。
『ふふふ……これまで啓に近づいてきた女共の名前は、全てチェックしているからな』
背筋が凍る。
絶対にまずい……!
慌てて玄関へ向かおうとしたが、時すでに遅し。
すた、すた、と落ち着いた足音が響く。
リビングの入口に、優雅な立ち姿の響姉が現れた。
「あ……」
間の抜けた僕の声が漏れる。
響姉は最初、「ん?」と不思議そうな顔をしていたが、すぐにキッチンにいる真凛と神楽を見つける。そして、その表情が一瞬にして変わった。
響姉の表情がスッと変わった瞬間、空気がピリッと張り詰める。
まるで時間が止まったかのような静寂がリビングを包み込む。
「啓……お姉ちゃん怒らないから、あの可愛いネズミど……ちゃんたちを紹介してくれるかな?」
声音は穏やかだが、その目は鋭く光っている。
まるで獲物を狙う猛禽類のように、微動だにせず真凛と神楽を捉えていた。
……これはまずい。
しかし、その場の張り詰めた空気を破るように、真凛と神楽が響姉のもとへ駆け寄った。
「啓君のお姉さんですか!? わあ、美人なお姉さん!」
「本当! さすが啓のお姉さんね、綺麗! モデルさんか何かですか!?」
全く物怖じする様子もなく、キャッキャとはしゃぐ二人。
一瞬、響姉が固まった。
「……え?」
まるで不意を突かれたような顔をした響姉は言葉に詰まる。
「……え、と」
響姉は軽くまばたきをし、顔に動揺を浮かばせた。しかし、すぐに表情を取り繕おうとした、その瞬間——。
「お姉さん、びっくりさせちゃいました?」と真凛が可愛らしく微笑む。
「うん、でもすぐに仲良くなれそうな気がするわ!」と神楽がにっこりと響姉に近づく。
「そうですね、啓くんのお姉さんなら、絶対に素敵な方だと思ってました!」と真凛も負けじと笑顔を向ける。
突然の畳みかけに、響姉は微妙な表情を浮かべたまま、返答に困っている様子だった。
「え、えっと……」
まさか自分が主導権を握られる側になるとは思っていなかったのか、響姉は珍しく戸惑っている。
「お姉さんも一緒にキッチンに行きましょうよ!」
「そうそう、一緒にお手伝いしましょう!」
神楽と真凛が響姉の腕を軽く引く。
「……え?」
響姉は一瞬躊躇したが、次の瞬間にはすでにキッチンへと連れ込まれていた。
「さあ、響子お姉さんも一緒にお料理しましょう!」
「何か得意な料理とかあります?」
「え、えっと……」
その後、キッチンでは真凛と神楽にエプロンを着せられ翻弄される響姉の姿があった。
僕はその様子を見ながら、静かに息を吐いた。
さすが業界人……営業スキル、恐るべし……。