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第41話 啓の一歩

 二月初旬の朝、空は澄み渡るように青く、雲ひとつない快晴だった。


冬の冷たい空気が頬をかすめるが、その冷たさすら心地よく感じられる。


私は立ち止まり、空を仰ぐ。「いい天気……」吐息が白く空に溶けていく。


昨日、啓に連絡をしたけれど返事はなかった。


念のためSNSでもメッセージを送ったが、既読にはなったものの、やはり返信はなかった。


これまでの私の態度を考えれば、啓が私を避けるのも無理はない。


散々傷つけてきたのだから、顔を合わせるのも嫌かもしれない。


でも、これまでならここで諦めていたかもしれないけれど、今は違う。


もう逃げるのはやめよう。


見たいものだけを選ぶのではなく、すべてを受け入れ、真実と向き合う強さを持ちたい。


こんなことで立ち止まってはいられない。


そう思い、私はただ待つのではなく、自分から歩み出すことを決めた。


ふと、金木犀の木が目に入る。小さな花が開き始め、甘い香りがふわりと漂う。


懐かしさが胸に広がり、小学生の頃の記憶が蘇る。


毎朝、私はこの道を通って啓の家へ向かい、一緒に学校へ行った。


途中で葵や他の子たちと合流し、笑いながら登校するのが日課だった。


帰り道では、啓が私の家まで送ってくれて、別れ際には優しい笑顔とともに「また明日」と手を振る。


そんな日々が、ずっと続くと思っていた。


けれど、中学に上がると、啓は変わってしまった。


誰も寄せつけず、一人でいることを選ぶ彼を見て、私は寂しさを感じた。


それでも一緒にいたくて、同じ高校を選んだ。でも、状況は変わらなかった。


むしろ、彼はますます自分の殻に閉じこもっているように見えた。


ああ……啓はもう、あの時の約束を忘れてしまったんだ……。


それを認めてしまうのが怖かった。


認めてしまえば、啓とはもう一緒にいられなくなる。


だから、私は我慢することにした。


でも、それももう限界だった。


そんな時、伍代先輩が私に告白した。


啓とは正反対の人で、私は彼に特別な興味はなかった。


告白を断っても、彼は何度も懲りずに告白を続けた。


ある日、彼は言った。


「君を物語の主人公にしたい」


それは、まさしく啓が私に約束してくれた言葉だった。


偶然だとしても、嬉しかった。


約束を守ってくれなかった啓と、先輩を重ねてしまい、私の気持ちは大きく揺らいだ。


何年も待ち続けた結果、私と啓の距離は開いていくばかり。


このまま待ち続けても、その先があるとは思えなかった。


そして、私は耐え切れなくなり、啓への想いを断ち切ることにした。


例え好きではない相手だとしても、緒になれば、無理やりでもこの想いを清算できるのではないか——。


でも、その結果、私は啓を深く傷つけてしまった。


あの日、私に告白しようとした啓を断り、教室を出たとき、かすれたような彼の泣き声が耳に届いた。


今でも、その声が頭から離れない。


後悔するたびに、自分の心に蓋をして、何も見なかったことにした。


伍代先輩を好きだと、必死に思い込もうとした。


啓より素敵で、好きな人なんだと。


でも、無理だった。


公園で伍代先輩にキスされそうになったとき、私は必死に考えた。


これで、もう後戻りはできない。キスをすれば、この選択が正しかったと証明できるはず——。


けれど、体が動かなかった。


目の前にいるのは伍代先輩なのに、頭に浮かぶのは啓の笑顔。


心は、何一つ変わっていなかった。幼い頃のまま、私は啓を愛していた。


断ち切ったはずの想いが、心を締めつける。


その痛みを、どうすることもできなくて、啓を傷つけることでしか、紛らわすことができなかった。


私の苦しみを、彼にも知ってほしかった。


いや、知るべきだと、思い込んでいた。


でも、それでは何も変わらなかった。


そんなとき、あの二人が啓のもとに現れた。


香坂真凛、篠宮神楽。


私が長年求めてきた啓の笑顔を、一番近くで見ている彼女たちが羨ましく、そして憎らしく思えた。


彼女たちの前でだけ、啓が幼い頃のように自然に微笑む姿が、どうしても許せなかった。


ずっと私が欲しかったものを、彼女たちはあっさりと手にしていた。


でも、あの日、テレビの記者会見を見て気づいてしまった。


——啓が蘭学事啓であることに。


最初は信じられなかった。でも、真凛と神楽の存在が、その真実を裏付けていた。


『じゃあ……覚えててくれたんだね……! 僕は、その約束を果たすために……!』


告白のときに彼が言った言葉は、嘘じゃなかった。


啓は、ずっと私たちの約束を守ろうとしていた。


でも、私はそれを信じる勇気がなかった。


啓を傷つけたのは私であり、。その事実に向き合うのが怖かったのだ。


でも、もう逃げない。


私はすべてを受け入れる。


何度だって謝りたい。

もちろん許されるとは思っていない。いや、許されるために謝りたいわけじゃない。


もうこれ以上大好きな人を傷つけたくないから……だから心から謝り続けたい。


彼のためにできる事を、今の私にできる精一杯の事をしてあげたい。


「雅?」


ふと声がして顔を上げると、そこには葵の姿があった。

目の下が少し赤く腫れている。


「葵……おはよう」


「うん、おはよう雅……どうやら同じことを考えてたみたいね」


そう言って、くすっと笑う葵。


「……そうみたい」


私もつられて微笑む。


そう、ここから始めよう。


臆病な自分とは決別し、どんな現実も受け入れられる強い自分になるために。


目の前の啓の家。そのインターホンに、私は静かに指をかけた。



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