二月初旬の朝、空は澄み渡るように青く、雲ひとつない快晴だった。
冬の冷たい空気が頬をかすめるが、その冷たさすら心地よく感じられる。
私は立ち止まり、空を仰ぐ。「いい天気……」吐息が白く空に溶けていく。
昨日、啓に連絡をしたけれど返事はなかった。
念のためSNSでもメッセージを送ったが、既読にはなったものの、やはり返信はなかった。
これまでの私の態度を考えれば、啓が私を避けるのも無理はない。
散々傷つけてきたのだから、顔を合わせるのも嫌かもしれない。
でも、これまでならここで諦めていたかもしれないけれど、今は違う。
もう逃げるのはやめよう。
見たいものだけを選ぶのではなく、すべてを受け入れ、真実と向き合う強さを持ちたい。
こんなことで立ち止まってはいられない。
そう思い、私はただ待つのではなく、自分から歩み出すことを決めた。
ふと、金木犀の木が目に入る。小さな花が開き始め、甘い香りがふわりと漂う。
懐かしさが胸に広がり、小学生の頃の記憶が蘇る。
毎朝、私はこの道を通って啓の家へ向かい、一緒に学校へ行った。
途中で葵や他の子たちと合流し、笑いながら登校するのが日課だった。
帰り道では、啓が私の家まで送ってくれて、別れ際には優しい笑顔とともに「また明日」と手を振る。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
けれど、中学に上がると、啓は変わってしまった。
誰も寄せつけず、一人でいることを選ぶ彼を見て、私は寂しさを感じた。
それでも一緒にいたくて、同じ高校を選んだ。でも、状況は変わらなかった。
むしろ、彼はますます自分の殻に閉じこもっているように見えた。
ああ……啓はもう、あの時の約束を忘れてしまったんだ……。
それを認めてしまうのが怖かった。
認めてしまえば、啓とはもう一緒にいられなくなる。
だから、私は我慢することにした。
でも、それももう限界だった。
そんな時、伍代先輩が私に告白した。
啓とは正反対の人で、私は彼に特別な興味はなかった。
告白を断っても、彼は何度も懲りずに告白を続けた。
ある日、彼は言った。
「君を物語の主人公にしたい」
それは、まさしく啓が私に約束してくれた言葉だった。
偶然だとしても、嬉しかった。
約束を守ってくれなかった啓と、先輩を重ねてしまい、私の気持ちは大きく揺らいだ。
何年も待ち続けた結果、私と啓の距離は開いていくばかり。
このまま待ち続けても、その先があるとは思えなかった。
そして、私は耐え切れなくなり、啓への想いを断ち切ることにした。
例え好きではない相手だとしても、緒になれば、無理やりでもこの想いを清算できるのではないか——。
でも、その結果、私は啓を深く傷つけてしまった。
あの日、私に告白しようとした啓を断り、教室を出たとき、かすれたような彼の泣き声が耳に届いた。
今でも、その声が頭から離れない。
後悔するたびに、自分の心に蓋をして、何も見なかったことにした。
伍代先輩を好きだと、必死に思い込もうとした。
啓より素敵で、好きな人なんだと。
でも、無理だった。
公園で伍代先輩にキスされそうになったとき、私は必死に考えた。
これで、もう後戻りはできない。キスをすれば、この選択が正しかったと証明できるはず——。
けれど、体が動かなかった。
目の前にいるのは伍代先輩なのに、頭に浮かぶのは啓の笑顔。
心は、何一つ変わっていなかった。幼い頃のまま、私は啓を愛していた。
断ち切ったはずの想いが、心を締めつける。
その痛みを、どうすることもできなくて、啓を傷つけることでしか、紛らわすことができなかった。
私の苦しみを、彼にも知ってほしかった。
いや、知るべきだと、思い込んでいた。
でも、それでは何も変わらなかった。
そんなとき、あの二人が啓のもとに現れた。
香坂真凛、篠宮神楽。
私が長年求めてきた啓の笑顔を、一番近くで見ている彼女たちが羨ましく、そして憎らしく思えた。
彼女たちの前でだけ、啓が幼い頃のように自然に微笑む姿が、どうしても許せなかった。
ずっと私が欲しかったものを、彼女たちはあっさりと手にしていた。
でも、あの日、テレビの記者会見を見て気づいてしまった。
——啓が蘭学事啓であることに。
最初は信じられなかった。でも、真凛と神楽の存在が、その真実を裏付けていた。
『じゃあ……覚えててくれたんだね……! 僕は、その約束を果たすために……!』
告白のときに彼が言った言葉は、嘘じゃなかった。
啓は、ずっと私たちの約束を守ろうとしていた。
でも、私はそれを信じる勇気がなかった。
啓を傷つけたのは私であり、。その事実に向き合うのが怖かったのだ。
でも、もう逃げない。
私はすべてを受け入れる。
何度だって謝りたい。
もちろん許されるとは思っていない。いや、許されるために謝りたいわけじゃない。
もうこれ以上大好きな人を傷つけたくないから……だから心から謝り続けたい。
彼のためにできる事を、今の私にできる精一杯の事をしてあげたい。
「雅?」
ふと声がして顔を上げると、そこには葵の姿があった。
目の下が少し赤く腫れている。
「葵……おはよう」
「うん、おはよう雅……どうやら同じことを考えてたみたいね」
そう言って、くすっと笑う葵。
「……そうみたい」
私もつられて微笑む。
そう、ここから始めよう。
臆病な自分とは決別し、どんな現実も受け入れられる強い自分になるために。
目の前の啓の家。そのインターホンに、私は静かに指をかけた。