人生は選択の連続だ。
その小さな選択のひとつひとつが自分の運命を大きく変える。
例えば、いま私の足元にあるキラキラ光った百円玉。これをどうするか。
「どうしよう……」
私は辺りをキョロキョロと見回した。
いつもの私だったら、この百円を拾って迷わず交番に届けていると思う。百円といえど落とし物は交番に届けるのが常識だし、正しいことをするとスッキリした気持ちになれる。
ただし、目立つのは嫌だからこっそりとね。
高校の入学式の日、私の目の前を歩いていた妊婦さんが産気づいてしまい病院まで付き添った時も、その場で名前を言わずに逃げてきた。学校に着いて先生に遅刻の理由を聞かれた時も寝坊だって言ってごまかした。良い行いは陰でこっそりとやる。それが私のポリシーだ。
今は幸い、辺りに人はいない。
午後四時過ぎ。学校帰りの、人通りの少ない交差点。
私と同じ高校の制服姿はどこにも見えない。今なら堂々と善行ができる。
ただ、問題がひとつある。それは、いま私の喉がものすごーく渇いているということだった。
カレンダーによれば数日前に夏休みが明けたことになっているけど、夕方になっても気温はまだ高い。今朝のテレビのお天気お姉さんが言っていた通りの猛暑になった。
とにかく暑い。フラフラしちゃう。
じゃあジュースやアイスを買えばいいって思うでしょ。
だけど、残念なことに私のお財布はほぼ空っぽなのだった。
昨日、通学定期が切れてしまったからお母さんに定期代をもらう予定だったんだけど、朝ドタバタと慌てて家を飛び出したもんだからそれをもらい損ねてしまった。おかげで自腹を切って今日の往復分の切符を買うことになり、なんと残金はたったの六十円。
そんな小銭だけじゃ何も買えない。
でもこの足元の百円があれば……合わせて百六十円。どこかで冷たいジュースが買える金額になる。
「いえいえ、それは泥棒ですよ、
私の中の天使が言う。
分かってます。こんなことしちゃいけないって。
とはいえこの殺人的な暑さにはもう耐えられない。
「だよね。誰も見てないし、この
私の中の悪魔が言う……。
だよね。みんなやってる……かな?
「なんて恐ろしいことをおっしゃるんですか? 朱里さん、あの人の言うことを聞いてはいけませんよ。どんなに貧しくても心は常に清く正しく美しくあるべきです!」
「ハッ、んなもん関係ねーわ。死んだら元も子もねーじゃん。やっちまえよ、朱里!」
煽る悪魔につられてフラフラと手が出そうになる。
「ダメですよ、朱里さん!」
天使が飛び出してきて私の前に回り込む。
「交番に届けなさい!」
「うっせえわ!」
悪魔が天使を飛び蹴りで後方へ吹き飛ばす。
「ぐはっ」
血を吐く天使。
「え、大丈夫? 蹴り、強かった?」
心配する悪魔。お前実はいいやつだろ。
「大丈夫です。さっき飲んだトマトジュースが出ちゃっただけ」
トマトジュースかい。って、もう頭の中で何やってんのよこの二人。
「うう〜ん」
天使と悪魔を追い出して、もう一度真剣に悩む。
善を選んだとしたら、さっき通り過ぎた交番まで戻るのに片道10分。ここから家まであと10分くらいはかかるから、家に着くまで最低30分はかかる計算になる。財布をとってきて、さらにその先のコンビニへ行って合計で35分。35分の炎天下はキツイよ、軽めに言って死ぬ。
一方、悪を選んだとしたら、ああなんということでしょう。目の前に自販機があるじゃないですか。
交差点の向こう、たった10メートルほど先の方に、キラキラ輝く自動販売機のお姿が……。
あの中にはなんと私の大好きな満点コークという炭酸ジュースが入っているのです。コンビニでも売っていない幻の炭酸ジュースで、おそらく全国では生産していない地元企業のオリジナル商品なのだと思われます。
満点という看板に嘘偽りなし。甘くて炭酸効いててそれはそれは疲れた体に染み込む、まさに満点の美味しさという中毒的な成分が含まれている商品なのです!(自社比)
遠いコンビニに行くくらいなら満点コークの方がずっといい。
「気持ちは分かりますが、ここは交番です!」
また来たな。口からトマトジュースの天使。
「満点コーク一択で決まりだ!」
あなたも帰って? 悪魔の皮を被ったいい人! 本当はいい人なの、バレてるから!
ああ、もうそんなこと考えているうちに直射日光が私のお肌にメラニンを作りまくっているんだよ!
せっかく美肌で15年間生きてきたのに、ここで迷っていたばっかりに鼻の下あたりにシミができたらどうしよう。鼻くそと間違えられて、キスの瞬間恋人と気まずくなってしまうなんて悲しいことが起きるかも。
まあ、今まで恋人どころか好きになった人もいないんだけど……。
「ああ、どうしたらいいの……?」
暑さと喉の渇きで頭がおかしくなりそうになった時だ。
突然、目の前の百円玉が誰かに拾われた。
「あっ……!」
「ん?」
私の目の前で百円玉を拾ったその人と目が合った。
時計の短針と長針がカチリと重なった、奇跡の一秒間。私の時間は確かに止まった。
その人は、とても綺麗な顔立ちをした男子高校生だった。
私と同じ高校の制服を着ている。背は私より10センチほど高くて、髪はサラサラの漆黒。まるで王子様のような輝を放つ白い肌は私よりも綺麗で、長い睫毛が囲む大きな瞳の中には宇宙の星々を集約したような美しい煌めきが内包されていた。
……カッコいい。
この世のものとは思えない、超絶美男子。
彼の放つ王子色の覇気に私はすっかり彼に心を奪われてしまって、ただ茫然としてしまった。
こんなに綺麗な男の子、生まれて初めて見た。
じーっと見つめていると、彼は気まずそうな顔をして言った。
「……これ、俺のなんだけど」
しゃべった。
生きているんだ、と思ってびっくりした。
声もこちらをうっとりとさせる低音で艶のある響き。上品な和菓子みたい。って、え? 今なんて言った?
「えっ?」
「これ、俺の百円。さっき落とした」
「あ、ああ……! そーだったんですね。交番に届けようと思ってたんですけど……良かった、持ち主が見つかって!」
私は笑顔でそう言った。けど……。
さよなら、私の満点コーク。
そう、それは私の喉の渇きを潤す手段をなくしたということに他ならず。
「……なんか、ごめん」
「えっ? 何が?」
「いや……すごく残念そうな顔をしてたから」
「そ、そんなことは決してありませんっ」
私は首がちぎれそうなほど首を左右に振った。
彼はまた気まずそうな顔をして、私に背を向けた。
ああ、行っちゃう。そりゃそうだよね。赤の他人だし。私とは縁もゆかりもないんだから。
彼は交差点の先の自動販売機の前に立ち、さっきのコインを入れた。ガコン、とボトルの落ちる音がする。彼に取り出されたものは愛しの満点コークだった。
ああ……うらやま。
ダブルショックでガッカリとうつむいていたその時だった。
「飲む?」
突然、私の目の前に満点コークが現れた。ひんやりと冷たい、泡の浮かんだ流線形のボトルが何故か私の前に差し出されている。
「スポドリ買おうとしたら間違ってこれが出てきたから……良かったら」
「えっ⁉︎」
驚いて顔を上げると、さっきの美しい彼の顔がそこにあった。突然、キラキラと彼の背景が輝きだして、暑さもどこかへ吹き飛んだような気がした。
マジで天使か、この人。
私に満点コークをタダでプレゼントしようだなんて!
いい人にも程がある! 見た目も中身も完璧なんですけど!
「あっ、あっ、あっ、ありがとう、ございますっ!」
私は満点の笑顔を作って彼にお礼を言った。すると彼は戸惑ったように、少しだけ笑った。
やっぱりカッコいい。
その瞬間、私は感じた。
この出会いはきっと、前世から定められていた運命的なものなんだって。