「あっづぅぅぅう!!」
「ご、ごめんゆ!」
僕は急いで洗面台に向かい、顔を水で洗い流す。人によっては聖水なのかもだけど、僕にとっては熱湯そのものだった。キリアが僕のそばに駆け寄って僕の顔に治癒魔法を唱えつつ、まくしたてた。
「先生、た……変だゆ! 来る……! 第……感染……種の可能性があるゆ!」
(だい、感染?なに?って?)
流れる水の音でキリアの途切れ途切れになる。必死そうな声が聞こえるもんだから、水を止めて顔を引き上げてみる。
「なんだか未来の先生の顔がふぬけてるゆ! でも、用心するゆ!」
僕が顔をペーパータオルでふいている間に、彼女はPPEを完全装備し、さらにはバフ系呪文を唱え始めた。
「キリちゃん、なんか感染がどうたらって……患者さんが来たって言った?」
「まだだゆ! ちょっと先の私が慌ててたゆ!」
僕は半ば呆れながらも、受け入れ準備に取り掛かることにした。濡れた前髪をペーパータオルでサンドイッチするようにして乾かす。患者さんと話すんだから身だしなみ整えないとと鏡の前にたった。しかし、鏡を見た瞬間、目が赤く光っていることに気づく。そして、ステータスを確認すると──
【発光、再生、毒無効、猛毒耐性、麻痺無効、沈黙耐性、物理防御力上昇(特大)、魔法防御力上昇(特大)、回避力上昇(特大)、攻撃力上昇(特大)、獅子の闘志Ⅲ、体力上昇(特大)、女神の祝福、精霊王の恩寵、人魚姫の決意、人魚姫の祈り、毒腐竜の寵愛、古代種の血、嵐擬の加護】
なんだか大量のバフがついていた。後半に至っては、何の効果なのか何が起きてるのか、もはや分からない。てか光らす必要あったか。
「……ドラゴンでも討伐する気?」
彼女はそんな僕の呆れ顔にも気づかず、まだ追加のバフを詠唱している。
「……キリちゃん、これ、ちょっと過剰じゃない?」
「安心第一だゆ! ご安全に!」
無駄に張り切る彼女を見ていると、さっきのコーヒー事件の怒りはどこかへ消えていった。こんな状況でも、彼女が一生懸命なのは間違いないから。でもキリちゃん、『ご安全に』は作業現場で使う言葉だね。
「まあ、ありがとう。次の患者さんが来るまで、少し落ち着こうか」
「うん! でも油断大敵だゆ!」
彼女の声は相変わらず可愛らしいけれど、その真剣な眼差しは、どこか頼もしくもあった。
ステータス画面の中の増えていくバフ名と段々小さくなっていくスクロールバーを眺めていると、入口のベルが軽快に鳴った。
「うっす! やってるっすか?」
威勢よく入ってきたのは、翠色のショートヘアに、クロップドTシャツとパラシュートパンツという、なんとも煌びやかな美少女だった。キリアとは方向性の違う綺麗系だ。けれど、その佇まいは妙に力強く、まるで入口を蹴破る勢いだった。彼女は両手を突っ張らせて扉を押し開け、こちらをじっと見定めるように見つめている。
「あ、来たゆ」と、引き戸の陰からキリアが小さく呟く。
「この方が例の?」
僕は受付の方から身を乗り出し患者に手を挙げて軽く会釈しつつ、僕はキリアとヒソヒソと会話した。
「そうゆ、きっとそうゆ」と震える声が返ってきた。
「先生、気をつけてゆ。危険だゆぅ……」
僕のスクラブの裾を、彼女は震える手でピンピンと引っ張ってくる。
「いやいや、あんまりビビらせないでくれる?」
キリアはむくれて小さく頷くと、引き戸の奥にスッと引っ込んだ。どう見ても戦力外の撤退だ。
「そんなんじゃ、患者さん傷ついちゃうよ」と僕は苦笑いしながら患者に向き直り、声を診療用にワントーンあげて話しかける。
「こんにちは。今日はどうされました?」
美少女は片方の眉をピクリと動かして、「歯を診てもらいたいっすね」と言った。
「ここ、何でも診れる歯医者なんすよね?人間でも、亜人でも、ドラゴンでも」
なんだか田舎のヤンキーみたいな話し方をする子だ。
そしてその言葉の内容に、僕はなんだか嫌な雰囲気を感じ取った。
「まあ、確かにそういう実績はありますが……」
「なら問題ないっすよね」と彼女は自信たっぷりに言い放ち、乱暴に履き捨てたドレスシューズがたたきに散らかるのを横目にスリッパを履いた。
あらまあ、履き物は揃えないといけないんだ。履き物を揃えると心が揃うってのに。随分と横柄だな。僕をただの人間と見定めイキってるんだろう。まぁその通りなんだけども。
「……ちなみに、亜人の中ではどちらのタイプで?」
「アンデッドっす。あーよく言うとゾンビ?みたいな」と彼女は堂々と宣言した。
その瞬間、スタッフルームの引き戸がズダンと爆音を立てて開く。
「ほらゆ! ヤバいゆ! ゾンビは怖いゆ!」
キリアはどこから用意したのか、頭に火がついた蝋燭を王冠のように数本くくりつけ、右手に十字架、左手に数珠を持ち、首から水晶のペンダントをひっ下げて飛び出てきた。「臨・兵・闘・者・皆・陣──」なんか九字も切ってるし。それ全部効かないかな。
「キリちゃん、お戻りなさい。僕が対応するから!」
「ゆっ! ……先生……気をつけてゆ……!」
キリアの声が引き戸の向こうに吸い込まれると、ゾンビ美少女は「なんすかいま変なの」とぶー垂れている。僕は彼女に改めて向き合った。
「さて、どうしましょうかね。ゾンビの患者さんというのは前例がないので……」
「なんすか! 今のといい! 差別っすか! ウチは感染しない系っすよ!!」
「それをどう証明してくださるんでしょうか」
僕が言い終わる前に、彼女が声を荒げた。
「歯が欠けてるだけなんすよ!? 冒険者の腕を噛んだら上の歯が欠けて、それを診てもらいに来たっす!」
「か、噛んだんですか……?」
「そうすっけど、別に変なことはしてないっす! ただ、正当防衛で噛んだだけっす!」
思わず身を引いた僕に、彼女は声を張り上げた。
「診てくれないなら、ここの評判落とすっすよ!」
その瞬間、引き戸が再びガラッと開いた。
「それ以上、先生に近づくと覚悟するゆ!」
先ほどのいでたちのままキリアが詠唱を始める。空気がピリつき、院内の照明が明らかに暗くなり、微かな光がキリアに集まる、どう見ても彼女の最終奥義の前兆だ。
「キリちゃん、待って待って! その呪文はダメ!」
「天光満つる所に我は在り、黄泉の門開く所に──」
「だから、ねえ! ストップ!」
僕が全力で叫びながらキリアの口を塞ぐと、キリアはもごもごいいつつようやく詠唱を止めた。
美少女ゾンビが腕を組んでこちらを睨む。
「なんすか今の茶番。で、診れないんすか? 診れるんすか?」
「……とりあえず、お口見せてもらえます?」
僕はカウンターの端から一歩だけ前に出た。けどすぐに気が変わってまた引っ込む。怖い。他の方なら大したことないのに、ゾンビってだけで怖い。
「あのう、本当に噛まないんですか?何か証明できるものとか、あれば助かるんですけど」
言いながらさらにカウンターから後退。もはや逃げ腰どころじゃない。受付の内側を完全に籠城地に変えた僕を、ゾン美少女は呆れた目で見つめた。
「そんなもんねーっすよ! あ……いや待つっす。アプリに住民票みたいなの入ってた気がするっすわ」
「それを見せていただけます?」
「しょーがないっすねえ……」
ゾンビはスマホを取り出し、画面をピコピコといじる。僕は万が一に備えて、いつでも退避できるよう背筋を伸ばしていたが──。
「ほら。これで安心っすか?」
美少女はドヤ顔でスマホを掲げた。その画面に映っていたのは……。
【フォンファ アンデット科 ゾンビ属 キョンシー種】
「……あなた、フォンファさんって言うんですね。あと、ゾンビじゃなくて、キョンシーじゃないですか」
その瞬間、僕は全身の力を抜いた。心の中で「よかった」と30回くらいリピートする。ゾンビじゃなかったんだ。ゾンビじゃ。な。かっ。た。ん。だ。
「え? ウチ言わなかったっすか?」
キョンシーは首を傾げた。いや、違うな。傾けたというよりも、自分の間違いに全く気づいてない。ただ呑気に首が動いただけだ。
「聞いてませんでしたよ。最初からキョンシーって言ってくれてたら、こんな大騒ぎには……」
「まあまあ、誤解も解けたことだし、いいじゃないっすか。こっちだってこんなとこ来たくなかったんすから」
キョンシーのフォンファは肩をすくめた。なんという図々しさ。
「……ともかく、これで安心です。一番奥の診療室にどうぞ」
僕は、大きく息を吐き出しながら指で奥の部屋を示す。
「ええー、こんな急に態度変わるっすか? やっぱ怪しいっすね、ここの歯医者」
「それはお前が説明不足だったからだゆ」
キリアが音もなく僕の背後に立ち、待合でイキるフォンファを受付から睨んだ。いつものキリアの姿にフォルムチェンジしている。
「いやいや、最初っからアンタら変だったっすよ。特にピンク髪のアンタ」
フォンファは不満そうにブツブツ言いながらも指示に従い、院内を進んでいく。文句は言うけど、指示は聞くタイプらしかった。
そんな彼女に、今回の治療は意外とすんなり終わるもしれないという期待が湧き上がる。と同時にキョンシーって本当に感染しなかったっけ?という疑問が僕の中で再燃した。すると、まるで僕の心を読んだかのようにキリアが「この世界では感染しないゆ」と後ろからコッソリ教えてくれた。
キリアからの知識の裏打ちを得た僕はキリアの頭を十二分にワシワシする。「セクハラゆ。新しいゲームで手打ちにしてやるゆ」と言われるまで彼女の髪の指通りの良さを堪能し心を落ち着かせると、僕は睨んでくるキリアに仏様のような微笑みを返してから診療室へと臨んだ。