私はソファにだらりと体を預けて、自分が殺される場面を何十回と眺めていた。
激闘の余韻で全く動けず、我ながら月並みだけど浜に打ち上がった魚のようだなと思う。ソファからはみ出た頭に血が集まってきてぼんやりとした。それが疲労困憊の私には温泉に浸かっているようでかえって心地よかった。VRゴーグルのヘッドバンドは汗でじっとりと湿り、おデコに鎮座していたが、やがて重力に負けて私の髪ごと床の方に垂れ下がる。ゴーグルに引っ張られた髪の毛の痛みが、ぼんやりした頭にはちょうどいい刺激になった。私が死ぬ場面のリプレイは一体何周目に入ったのだろう。
数十分前、私はまたしても敗北した。幻影(ゴースト)に。
「勝てないゆ……」
そう呟いたとき、診療室に繋がる階段から聞き慣れた声が飛んできた。
「先輩お疲れさまっす! 今日は何分粘れたんすか?」
振り返ると、掃除用のモップを片手にフォンファが顔を覗かせていた。額にはタオルが巻かれ、どう見ても昼休憩の合間の雑談目的だ。「まだやってるんすか」とでも言いたげな顔。
「十七分三十秒ゆ」と、私は答える。
「すっごいっすね、先輩。ウチがやったときなんて瞬殺されたのに。ゲーマーの先輩でもここまで勝てないって相当強いっすね。その、なんでしたっけ羊みたいなヤギみたいなソイツ。でも、そろそろ仕事始まるんで戻らないと先生に怒られるっすよ?」
「Greatest of All Time──通称GOATだゆ。先生は怒らないゆ。ただ呆れるだけゆ」
言葉を交わしながらも、私の目はモニターから離れなかった。リプレイ映像には、負ける直前の私の動きが映っている。そこには、幻影に初めて一発お見舞いした瞬間も含まれていた。
フォンファが私の肩越しに画面を覗き込む。
「うわ、もうちょっとじゃないっすか?」
「まだまだゆ。強すぎるゆ」
そう呟くと、フォンファは少し黙ってから「そうっすかね」とだけ言った。彼女はあれこれ言うタイプじゃない。私がこのゲームにこだわる理由も、きっと察しているのだろう。
その日の昼休み。診療室の休憩スペースで、院長のアマギ先生がマグカップを片手にやってきた。やけに機嫌が良さそうだ。何かと思えば、もう片方の手にクッキーの缶を抱えている。
「ほら、みんなで食べなよ。患者さんからの差し入れだよ」
「わー! ありがとっす、先生!」と、フォンファが真っ先に手を伸ばす。いつもなら私が一番乗りなのだけど今はそんな気分ではなく、缶を見ながら「甘いものは控えてるゆ」と言った。
「珍しい。ダイエット……のわけないか。キリちゃん、なんか気にしてることでもあるの?」
アマギ先生がそう言って私を覗き込む。先生は目ざとい。おそらく私がゲームで行き詰まっていることも見抜かれている。
「別に、何もないゆ」
「そう? ならいいけど。選択は大事だよ。できないことを気にせずに、できることを大切にね」
そう言って、先生は診療室に戻っていった。いつものように気楽で、でもちょっとした気遣いを見せてくれる。先生が「人間を相手にしないのは楽だから」と笑いながらこの医院を開いた理由を、私はふと思い出した。
夜。私はまたVRゴーグルを装着する。診療の合間に少しずつ考えていたことが、どうにか形になりそうだった。よく知っているはずの幻影の癖を読むために、さっきのリプレイを繰り返し再生してGOATの動きを研究する。
「今後こそ倒してやるゆ……」
小さく呟いてみても、誰も返事はしてくれない。部屋は静かだ。唯一動いているのは、敗北を告げる画面のリプレイ映像だけ。遮蔽物から飛び出た私が銃を構え、何度も何度も幻影の動きを銃身で追いかけ、そして──最後にはきっちり反撃されて終わる。それを淡々と映し出している。
このVRシューティングゲームは十年前に発売されたもので、魔法が発達した現代では廃れた銃撃戦を模擬戦闘できるマニア垂涎のシュミレーターだゆ。
先の幻影は、PvPモードにおいてランキングの1位に君臨している者のCPUだ。このゲームの頂点──GOATと呼ばれるプレイヤーを学習し、その動きを吸収して、100%再現している。まぁ、正確にはPvPではないが、本当にその人そのまんまである。
運営としては、GOATをめぐってプレイヤー同士で争って欲しかったのだろうが、発売してわずか数ヶ月の間にその意図と真逆の膠着状態が起きた。
十年前、彗星の如くランキングを駆け上がった無名のプレイヤーがGOATとなり、未だ誰もこの幻影を倒せないでいる。
父は、十年間無敵だった。いや、今も無敵だ。
十年前に亡くなった父が、ゲームの中で未だに生き続けている。もちろん、本当の父じゃない。ただの記録だ。データだ。動きの再現だ。それでも、この幻影と向かい合うたびに、私は確かに父の姿を見る。喋らない父の背中、正確すぎる動き、見事に敵──いや私か──を粉砕するその手つき。生きていた頃と寸分違わない「父」がそこにいる。
だから私は、このゲームを続けている。
父がまだ「そこ」にいるのに気づいたきっかけは数年前のwebニュースだった。「死にゲーここに極まれり」と題されたページには、私が小さい頃に父が貪るようにしていたゲームの画像があった。途端に蘇る父との会話と笑顔。
ゲーマーだった父が色々とゲームを遺品として残していたことは知っていたが、私たち一族を根絶やしにしようとするピースキーパーの奴らによって、ついでのように全て燃やされた。生前の父を知っているのは、私と、母と、VRゲームのプレイヤーのみとなった。
それからというもの、ネットオークションを隙あらばチェックし死に物狂いで探し回る毎日。
そんな中で、強すぎると評判の父と再会するための準備を始めた。全く興味もなかったゲームというものをジャンル問わず色んなものに手をつけていく。大体のゲームをやりこんで全クリし、オンライン対戦ができるものはあらかた一位になった。
父の血がそうさせたのか父を思う気持ちがそうさせたのかは私でも分からない。全てを忘れるように没頭した。ただ、色んなゲームを触るにはとにかくお金がかかった。この事情をアマギ先生に話すと、彼は昇給の打診をにこやかに頷いた。
色んな日々をとりとめもなく過ごす中、もはやネットオークションの最新のページを見ることが日課となっていた。F5を連打する私の前に、それは突然現れた。
かの伝説のVRゲームが、荒涼としたwebページに燦然と輝いていた。
大幅に高騰していたが、即決価格で落札した。すぐにアマギ先生に頭を下げにいったけど、彼はまた微笑んで頷いてくれた。
こうして、父は十年ぶりに私たちのもとへ帰ってきた。
このVRゲームは、もはやクソゲーだの死にゲーだのネット上では好き勝手言われているが、十年経った今もアクティブ数は依然としてまだ多く、父に挑む様子を動画配信して小銭稼ぎに勤しむ者も見受けられる。
私が挑戦し始めてから、もうどれくらい経つだろう。数週間か、いや、数カ月? 気づけばそれが日常になっていた。休憩時間と仕事終わりに、ゲームを起動して、幻影に挑んで、負けて、寝る。ただそれだけ。母も、たまに私たちの様子を見に来ては微笑んで観戦する。惜しいとこまでいけば二人で笑い合う。全然ダメなら母に交代して、秒殺されるのをまた笑い合った。それがなんだか親孝行をしている気分で良かった。
今夜も同じように、私はゲームに挑んでいた。いつも通り、幻影が現れる。父だ。構える銃も、動きの癖も、全てが父のまま。ゲームが始まると、父は一瞬も迷うことなく動き始める。そして、それはいつだって速すぎる。
私は必死に撃ち返し、回避し、どうにか耐え続けた。相手の動きを少しずつ学び、追いかけ、追い詰めた。あの幻影に触れることすら、今までなかった。でも、今日は違った。ついに私は、父の幻影のHPを残りわずかまで削ったのだ。
手が震えた。
ここまできたら勝てる。このゲームを終わらせることができる。十年間誰もできなかったことを成し遂げられる。
他の誰でもない、私の手で。
ただ、私は迷っていた。遮蔽物で父の猛攻を耐え凌ぎながら、彼に銃口をむけることを躊躇した。
ゲームの中の父は、何も言わない。表情も変えない。ただ、そこにいるだけだ。だけど、私は感じる。父がそこに「いる」ことを。
ゲームを終わらせれば、私は二度と父に会えない。
あの葬式の日から、父はずっといなかった。笑い声も、怒る声も、全部、私のもとから消えてしまった。でも、このゲームを始めてから、父がまたここに戻ってきたように思えた。ゲームの中だけに。
迷っているうちに、遮蔽物の耐久が限界に近づいているのを背中で感じた。場所を移す前に、父の姿、もとい私の姿が露わになる。その拍子に何発か足に貰ってしまった。父より少なくなったHPゲージの残量に焦りを感じる。
ゲーム終了を示すクロックの残り時間も後僅かだ。必死に撃ち返し、回避し、新たな遮蔽に飛び込んでどうにか耐え続けた。
このままではジリ貧だ。試合時間はあと5秒。HPゲージの残量的に互いに一発もらえば即死の上、幻影が耐えれば幻影の勝ちの状況。
でも、私は、私だけは知っている。幻影の性格を。
この場面で父なら芋ったりしない。必ず攻めてくる。意外性のあるところから飛び出てきて私を仕留めに来てくれる。
残り時間後3秒、私は大きく深呼吸をした。そして遮蔽物の裏で、天を穿つように真上に銃口を差し出す。
私の読み通り、父は銃を両手に構えて、遮蔽物をギリギリ飛び越えてきた。まるで自分の額に私の銃口を押し付けるように。
「……撃てゆ」
自分に言い聞かせるように呟いたその声が、空気に溶けていく。
そのとき、頭の中でふとアマギ先生の声が蘇った。「選択は大事だよ。できないことを気にせずに、できることを大切にね」という、あの軽い言葉。それが何故か、重たかった。
私は引き金に指をかけたまま父の幻影と見つめ合っていた。そしてその瞬間、幻影が動いた。私が戸惑っている隙を見逃すはずもなく、父の銃弾が私の脳天を撃ち抜いた。
また負けた。
ゴーグルを外すと、部屋はいつも通り静かだった。ただ、負けたはずなのに、胸の中はほんの少しだけ軽くなっていた気がする。
その夜、布団の中で、私は考えていた。
このままではいけないと、どこかで分かっている。何処の馬の骨かも分からないやつに父を塗り替えられてしまうぐらいなら、父の幻影を倒すことが父の想いに応えることになるのだとも、きっと分かっている。でも、それをしたら父はもう消えてしまう。そんな気がして、どうしても手が動かなかった。
「……お父さん、どうしたらいいゆ?」
誰もいない部屋に呟いてみても、返事はない。ただ暗闇が静かに広がるだけだ。
でも私は、もう一度挑むだろう。父に、幻影に、そして自分自身に。何度でも。なぜなら、このゲームだけが、私を父と繋いでくれるものだから。
いつかこのゲームが終わる日、父にさよならを言う日が来るのだろうか。その答えを見つけるためにも。
そして、いつかきっと──引き金を引いて、父を休ませてあげられる日が来ると、信じている。