ミルカラが滑るように診療室に入室した瞬間、僕は自分の心拍が急加速するのを感じた。真祖ヴァンパイアの威圧感というのは、別に威嚇されてなくても勝手に押し寄せてくる。彼女がユニットに腰掛けると、なんてことのない紙コップですらどこか高級品に見えるから不思議だ。
「ミルカラ様、今日はどうされましたか?」
僕はできる限り優しく、緊張が伝わらないように声を出し、彼女にエプロンをかけてあげる。横で見学するだけの役目を押し付けられたフォンファが何か言い出さないことを祈りつつ、心の中で深呼吸する。
「わたくし、ご存知の通り真祖のヴァンパイアの一族でして、しもべたちが毎日つきっきりでお世話をしてくれるのですけれどもね……」
そう前置きをしたミルカラは、ほんの少し震える声で続けた。
「そのしもべたちが全員、先月亡くなってしまって……」
その一言で場の空気が数度ほど冷え込む。いや、物理的には変わってないんだけど、なんかそんな感じがした。
「それは……お辛かったですね。心中お察しします」
言葉を慎重に選んで返す。というのも、過去のカルテを見返した限り、僕はこう思ったみたいだ。
‘’ヴァンパイア──特に真祖エルジェーベト家の人たちは、たいていの場合──”
「ええ、そうなの。でもね、それ以上に困ったことがあって。わたくし、歯磨きをしてくれるしもべがいなくなってしまったの」
“頭のネジが何十本か外れており、”
ミルカラはどこか憔悴したようにため息をつき、僕に視線を向けた。
「歯を磨かないでいると、もう口の中が痛くて痛くて……。最近、新しく入ったしもべの首筋に歯を立てることなんて、とんでもなくてできないの。
‘’倫理という概念は皆無であり、”
「それでね、先生。わたくし、歯がなくなったらもうヴァンパイアとして存在意義がないの。これも、ぜぇーんぶしもべのせいよ」
“他責思考であり、”
本気で悲しそうに言うから、本気で対処しなきゃいけないんだろうけど、僕の頭の片隅ではずっと「しもべを首吊りさせる話」と「歯磨き」のギャップにツッコミを入れ続けていた。
「だから、なんとかしてほしいのよ。わたくしこーんなに可愛いのに」
‘’超絶ナルシストであり、”
そのとき、最悪のタイミングでフォンファが口を開く。
「それは歯を磨かないからじゃないっすかね?」
院内の空気が一気に凍りついた。いや、これも比喩じゃなくて、たぶん本当に温度が下がった。ミルカラの紫色の姫カットがふわりと浮き上がり、魔力が漂うのが見て取れる。
「そんなぁああああ!歯を磨かなかっただけでこんな仕打ちを受けるなんて!いやああああ!わたくしなんて!わたくしなんてえええ!!存在する意味がないわ!!!……わたくしもろとも全て消し去らなければ……!」
(やっぱりか……)
“オニクソザコメンタルである”
エルジェーベト家は、幾度となく人里を地図上から消しているよって、前、長生きのエルフのじっちゃが言ってたっけ?識字率が高い人類との結びつきが強固なのにも関わらず、残っている文献が少ないのも頷けちゃう⭐︎、と現実逃避のためにじっちゃの笑顔を思い起こしてたけど、このままじゃあ、まずい。
ミルカラの癇癪は、AMDS、いや、ここら辺土地に住んでるモノたちの存亡にかかわっちまうぞ。
廊下の奥の方で見ていたキリアが焦りながらカンペを掲げる。「謝れ、そして全力で褒めろ」。僕もテレパシーでフォンファに指示を飛ばす。
「フォンちゃん、全身全霊で自分を否定する勢いで謝って。それからミルカラ様を褒め倒して、撤退ね」
フォンファは引きつった笑顔を張り付けながらミルカラに向き直る。
「いいえ!誤解っす!ミルカラ様、本当に綺麗で!先ほどバッタリ会った時なんて、もう自分が空に浮かぶゴミみたいなソラケムシ以下だって実感したっす!」
ミルカラの表情が一転して輝く。
「ああ!そうでしょう?わたくし、本当に美しいもの。あなた、ソラケムシよりはマシかしら。そうね、生きていていいわ」
……なんとか爆発は免れたらしい。
引きつった顔のままフォンファがすごすごと退場していくのを横目に、僕は深く息をついた。診察ってこんなに命懸けだったっけ。僕はどうやら最近の比較的穏やかな患者さんたちで平和ボケしていたみたいだ。
「ミルカラ様、ご存在自体が、我々に多幸感を与えてくださいます。そうしましたら、一度お口の中を拝見させていただきますね」
「ええ、ええ。ぜひ先生、見てちょうだい」
僕はユニットをゆっくりと倒しながら、無駄に丁寧な動作を心がけた(実際の速度は機械任せなんだけど)。ピンと背筋を伸ばして、意を決して彼女の口腔内を覗き込んだ。
一言で言うと、地獄だった。
優しく表現しようと努力しても、こればっかりは無理だ。歯の周りには赤黒い……うーん、なんというか、レバーみたいなものが塗りたくられている。僕らでいう食べカスが、彼女たちの場合は血液だから仕方ない気もするけど。歯肉のハリやツヤはどこへやら。歯の根本は見えなくなるほど覆われていて、さらに歯は脱灰が始まっている。
吸血鬼の歯といえば、モンスター界でも最強の硬度を誇る。酸にも強いし、人間で言えばオリハルコンの歯みたいなもんだ。それがこんな状態になっているなんて、一体どうしたらこうなるのか逆に感心してしまうくらいだ。
……しもべを亡くして心身ともに疲れているのだろう。それなら致し方ない、と同情するしかない。
「ああ、ミルカラ様、これは……そうですね、亡くなられたしもべさんが、生前、とてもケアがお上手だったのではないでしょうか」
「そうなのよ。彼女、とてもわたくしに尽くしてくれたの。血も美味しかったし、わたくしが彼女の血をいただいている間に、いつの間にか動かなくなってしまったのよね。急いでお医者様に連れて行ったのだけど、栄養失調だって言われてしまったの」
それは間違いなく失血死だ。
だが、きっと内科の先生も彼女のヒステリーを恐れて「栄養失調」と言ってお茶を濁したのだろう。それにしても、その内科医って人間だった気がするけど……まさか。僕ははっとしてミルカラに尋ねる。
「ミルカラ様、今チャーム(魅了)を使われています?」
「あら、やっと気づいたのね。遅いわね。わたくし、常時魅了を展開しているのよ。でもあなた、効きが悪いのね。鈍感なのかしら?」
「えっあ、そ、そうかもしれません」
背中に冷や汗がじっとり滲む。
吸血鬼に魅了されて、骨抜きにされるなんて絶対嫌だ。とはいえ、相手は食物連鎖の頂点。格が違いすぎて手が震える。
彼女が目を閉じた瞬間、その震える指で自分のステータスを確認する。透明なインターフェースに視線を滑らせて……魅了、魅了……なかった。
「っ!」
その瞬間、全身の力が抜けた。けれど代わりに目に飛び込んできたのは、状態異常耐性関連の大量のバフの文字列だった。
思い当たって、受付の方向に視線を向けると、キリアが首だけ出してこちらにウィンクを飛ばしてくる。サムズアップ付きで。
(……雇ってて良かったぁ……)
心の底から感謝した。危うく涙が出そうになる。だけど、今泣くわけにはいかない。目の前には治療を待つ患者がいるのだから。