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Slit 2


 四年前の雨の日、僕はいつものように、開店休業状態の診療室を抜け出して晩飯の買い出しに行っていた。いや、ワンオペだったし、雨の日はやっぱり患者なんて滅多に来ないし、息抜きも必要でしょ?でも、その日は妙に気持ち悪い天気だった。雨音は妙に重く響くし、風が生温い。湿気が肌に張りついて気分が悪い。


 そういうときに限って、妙なことが起こるんだ。


 鍵を開けて中に入った瞬間、後ろから重たい空気が流れ込んできた。振り返ると、そこには全身ずぶ濡れの親子が立っていた。


 いや、「立っていた」というのは正確じゃない。玄関の中に半ば滑り込んで、その場で崩れ落ちていた。


「うわっ!」


 思わず声が出た。びしょ濡れで玄関を泥だらけにしてる二人組なんて、どう考えても普通じゃない。泥棒?それともクレーマー?とっさにいろんな可能性が浮かぶ。


「ちょ、なんですか!ここ歯医者なんですけど!」


 僕がそう言うと、母親らしき女性がはっと顔を上げた。その顔色はひどく青白くて、目の下には深いクマ。疲労と緊張で限界ギリギリな感じだった。でも、目だけは鋭く、何か必死で訴えかけてくるものがあった。


「……この子を……お願いします」


 彼女はそう言って、隣にいた小さな女の子を抱き寄せた。


「いやいやいや、僕、医者じゃないんですけど?歯医者なんですけど?虫歯以外は無理ですよ?」


 彼女は僕の言葉を無視して、カバンの中をゴソゴソし始めた。やばい、これ本格的に変な人だ。訴訟問題になりかねないやつだ。僕が身構えていると、彼女はカバンにある分のお金を握りしめて、すがるような声を出した。


「どうか……この子を、守ってください……!」


 重すぎる。いや、待って、そういう話を持ち込まれても困るんだけど。


「えっと、お金は受け取れないです。守る分にはいいんですけどね……状況がまったく分からないんですけど?」


「私たち見ての通りマーメイド族で、ハンターに追われてて……お願いします……!」


 彼女の声は震えていた。ちらっと隣の女の子を見ると、目は虚ろで、体が小刻みに揺れている。なんかこう、尋常じゃない疲労感が漂っていた。


 見捨てるのは……まあ無理だよな、こんな状態の人たちを。


「……分かりました。で、この子、何歳ですか?」


「……え?」


 母親が明らかに警戒した。まあ、無理もないか。だってこの状況だし。でも僕としては単純な確認事項だったんだよ。年齢を聞くのはね。


「こいつも娘を狙ってる?」とか思われたんだろうけど、そういうんじゃない。ただ、年齢は知っておきたかった。


「9歳です……」


 母親はまだ警戒心を解かないまま答えた。僕は一呼吸置いて、ふっと笑って言った。


「じゃあ条件があります。娘さんの、マーメイドの抜けた乳歯ください」


「……は?」


 母親の顔が完全にフリーズした。うん、そうだよね、そりゃそうなるよね。僕も冷静に考えたらヤバいやつだと思うもん。


「そ、そんなのでよければどうぞ……」


 半分呆れたような声でそう言うと、彼女はガクッとその場で突っ伏してしまった。


「ちょ、え、もしもし?大丈夫ですか?」


 慌てて母親を抱き起こして椅子に座らせる。とりあえず落ち着くまでは何も聞けそうにない。でも、僕の中では「乳歯」という単語がぐるぐるしていた。


 抜けた乳歯。いい。すごくいい。美しく整った乳歯も、ちょっと歪んでたり汚れてたりする乳歯も、それぞれに味があるんだ。そういう個性を楽しむのが僕の趣味でね。……って、自分で言ってて気持ち悪いな。でもやめられない。


 この乳歯がどんな話をしてくれるのか。どんな秘密を抱えているのか。いや、楽しみで仕方がない。


 こうして、キリアは僕──AMDSがお預かりすることになったのだった。



「とまあ、こんな感じ」

 僕は人差し指を立て、キリアとの最初の出会いを語り終えた。


「え、なんすか今の話」

 フォンファが目を細め、じろっと僕を睨む。


「へ?」

「いや、ウチはキリア先輩の過去を聞く準備をしてたんすけど」

「今のがそうだよ。タイトルつけるなら『キリアと僕の感動的出会い』って感じ?」

「はぁ……先生は、今後二度と昔話をしないことをお勧めするっす」


 フォンファは洗面台の縁に手をついて、肩を落とした。


「なんでだよ!失敬な!」

「ウチの耳には、先生の性癖カミングアウトにしか聞こえなかったっす」

「ええ!?そんなわけがない!」


 こんなに感動的で胸熱な出会いを語ったのに。


「やっぱり先生はとんだ変態っすね」

「心外すぎる!キリちゃんのお母さんの気持ちを豊かに表現したじゃないか!」

「めちゃくちゃ先生を警戒してるようにしか聞こえなかったっすけど」


 うっ……それは……まあ、確かにそうかもしれない。


「そうっすよね。お母さんもさぞ無念だった思うっす。こんな人に先輩を預けるなんて」

「こんな人のもとで働いてるフォンちゃんは!?」

「いや本当に、ウチも残念っすよ……。まさか、先生。ウチの歯も狙ってないっすよね?」

「……それは……」

 半分正解だった。

「うっわ!鳥肌っす!聖人かと思ってたら性人だったっす!」

「前者であってるよ!」


 フォンファが眉をひそめ、深々と息を吐いた。


「いいっす。もう……お金貯めたら速攻ここ出ていくっす」

「フォンちゃん、それは──」

「はぁ……なんと不憫なんすか、キリア先輩……」


 フォンファは遠い目をして、小さく頭を降りうんうん唸っていると、僕には聞き覚えのある声が背後から響いてきた。


「ウチの娘はなんで不憫なんです?」


 フォンファがビクッと肩を震わせて振り返ると、そこにはキリアを20年分しっかり育ててたわわに実らせたような、そんな女性が立っていた。整った顔立ちがどう見てもキリアと血の繋がりを主張していた。


「いや、こんな変態の家に間違えて入ってしまって」

「先生はいい人ですよ?」

「いやいや、いい人とそれとは別な気がするっすよ?」


 フォンファは口を尖らせて抗議するが、女性は優雅に首を傾げただけだった。


「あ、あの……もしかして先輩のお母さんっすか?」

「そうです。いつもキリアがお世話になっております。ワタシは、ラミアイェーガーと申します」


 丁寧な口調と上品な佇まいで自己紹介するその姿は、まるでどこかの貴族のようだった。


「ウチはフォンファっす。えっと……でもさっき先輩に聞いたら、お母さんは“上”にって……?」

「ええ、3階のことよ。ちょっと狭いけど、あの子と二人なら十分だから」

「うえってそういう……!」


 フォンファが一人納得しかけたその瞬間、会計処理を終えたのか、受付の方から慌てた声が響いた。


「お母さん!降りてきちゃダメって言ってるゆ!」


 キリアだ。いつになく険しい顔をして駆けよってくる。


「そういうキリアこそ、本当は危ないのよ」

「大丈夫ゆ。奴らをみたらブチのめして隠れるゆ」


 そのやり取りに、フォンファが思わず首を突っ込む。


「……やつらってなんすか?」

「知らない方がいいゆ、フォンファ。名前を知った瞬間から、奴らに狙われることになるゆ。こればっかりは本当に危険ゆ。フォンファを巻き込みたくないゆ」


 やたら神妙な表情のキリア。

「じゃあいいっす」

「本当にダメゆ。危ないゆ。フォンファ」

「いや、本当に知らなくていいっす」

 もうフォンファの瞳はキリアの方に焦点が合っていない。

「やめとくゆ。残機がいくらあっても足りないゆ」

「うん。先輩だからウチは──」

 フォンファは虚無になりつつあった。そしてその横で、母親が優しい笑顔で追い打ちをかける。


「やつらの名前はピースキーパー。フォンファちゃん、気をつけてね」


 院内に静寂が訪れた。


「なにを、のたまってんっすか!!!」


 フォンファの絶叫がこだまする。


「お母さんは悪くないゆ。お母さんは天然なんだゆ」

「天然にも限度があるっす!純粋悪ってことっすか!?」

「え、なんか僕、流れ弾くらってない?」

「へ?先生、知らなかったんすか?」

「いや、ラミアさんがなんか言い出しそうになるたび、耳塞いでたから」

「先生、逆にそれで良かったんすか……」

「まぁ……もう僕は彼女たちを匿うって決めてたしね」


 キリアがため息をつきながら、肩をすくめる。


「AMDSにいる限り大丈夫ゆ。私はいまのところ一度もやつらを見かけたこと……ないゆ」

「その“ない”にやたら間が空いたのが気になるんすけど!」

「AMDSはね、何かに守られているの。きっと」


 フォンファが頭を抱える。


「先輩、正直言っていいっすか。お母様、大変おスピになられてるんじゃないっすか」

「大丈夫ゆ。AMDSに来た途端、襲撃がぴたりと止んだゆ」

「逆に言うと、ウチらここから一生出られないってことじゃ……」

「そうかもしれないわね」

「どの口が言ってんすかぁ!!」


 そんなやり取りを聞いていた僕は、そっと口を挟んだ。


「でも雨の日は外出しても大丈夫らしいよ」

「やっぱり雨の日ぃ……すか……」


 フォンファの声が明らかに枯れていた。


「せんせ。今日も昨晩の続きをしましょうね、じゃあまた」

 さらっと爆弾を投げ捨てて、ラミアさんは何事もなかったように医院の奥へと姿を消した。


「……」

 沈黙するフォンファ。その視線は遠い。


「ゲームの話ね?」

 一応フォローを入れてみたけど、効果はなさそうだった。


「人族の男って、ケダモノって聞いてたっすから、そこまで驚かないっすもう」

 ため息交じりのフォンファ。よく見ると、ほのかに顔が赤い。


「ほんとゲームの話だからね?」

「……もうなんでもいいっす。好きにしてくださいっす」


 あきれたように言いながら、フォンファは肩を落とす。それでも、なんとなく気の毒になって僕は言った。


「ごめんねフォンファ。でも働きぶり次第で昇給だってあるからさ」

「いや、そういう問題じゃ……ありがとうございますっす……」


 どこか悟りを開いたような表情で礼を述べるフォンファ。その姿には、言い知れぬ悲壮感が漂っていた。

 僕は心の中で、そっと手を合わせた。

「がんばれ、フォンファ。君の未来はきっと明るいよ、多分」

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