大食いとはこのことを言うのだろうか―――純子は風呂から上がって、髪を乾かしながら思う。ニャーは純子のベッドの上でのびのびしていて、猫らしい姿になっていた。彼女の悩みは、荒尾がよく食べることだ。むしろよく食べると通り越して、食べ過ぎ。毎回おかわりの要求があるし、炭水化物は大好きだし。それなのに太っているような印象もなくて、不思議な感覚もした。
女性だったら絶対に太っているようなメニューでも、彼は楽々と食べてしまうし、大して太っていないように感じる。最近初めてくれた庭の掃除だって、太っているとか運動不足だというような理由から始めているわけではなかった。むしろ、時間があるから。そんな理由だ。営業の仕事と言っても、今は有給休暇を消化しているに過ぎないから、どちらかと言えば彼はフリーな状態。残った仕事や連絡事項は今でもこなしているようだが、基本的な足で稼ぐようなことはしていなかった。だから、太らない保証なんてないのに!と純子は思うのだ。
純子だって、食べるのが大好きだ。とても好きだから、こうやってペンションの料理は自分で作っている。お客様にも提供できるように、資格や条件などもクリアした。母が残してくれたレシピを活用することもあれば、最近人気のレシピを持ってくることもある。最近始めたSNSだって、割といい感じで進んでいた。最初は難しいことなんて、何でもある―――だけれど、食べることはストップできない。難しいからまた今度、なんて言えない世界なのだ。
炊き立てのご飯、温かい汁物、美味しい野菜と肉や魚たち。たまにはパスタやパンも登場して、おやつまである。人生とはどれだけ食事をすればいいのか、と思ってしまうくらいに、人は口にものを入れる。都会で忙しくしていた頃は、何でもいい、お腹が膨れれば恥ずかしくない、そんな程度の認識だった。でも今は、せかっく食べるのだから美味しくて安くてできるだけ健康にいいものを、と思うのだ。
そうなってくると、毎日同じメニューで過ごすわけにもいかず、やはり料理への工夫や料理への挑戦は増えていった。純子にとって、食事は今は亡き両親との最後のきずなかもしれない。母のレシピを再現すれば、父の笑顔までもう一度思い出すことができる。だからこそ、続けたいし、できるなら他の誰かにもそれを口にしてほしい。
そこまで思うと、自然に荒尾が喜んで食事をしてくれる姿が思い浮かんで、純子は顔を真っ赤にさせる。確かに、こんなにしっかりと食事を食べてもらったのは、久しぶりかもしれない。玄米おじさんや悦子、近所の人など、カフェに来てくれることがあるので、他人に食事や食べ物を振舞ったことがないわけではないのだ。それらがあるはずなのに、純子の脳裏には荒尾の満面の笑みが浮かぶ。少年のようにパンを頬張り、山盛りの白米を食べる姿。
「か、かわいいの、かな?」
かな、というところでとどめてしまうのが、いつもの純子の癖。それ以上立ち入れば、お互いの思惑や気持ちがぶつかって、嫌な目に遭いそうな気がする。だから、嫌なのだ。事故で両親を一度に喪った純子にとって、これから先の別れがまだ恐い。だから、そうなることを避けるために、少しだけ後ろを歩く方が、彼女にとっては楽なことだった。
伸びていたニャーが、ジロリと純子を見る。しかし純子はその視線に気づいて、慌ててドライヤーを片付けた。
「もう寝ようね、ニャー」
そんなことをニャーに言ったけれど、ニャーからすれば、大したことではない。ニャーにとって純子はまだまだ子どものようなもの。眠って、明日が来れば、猫のように、また明日を楽しめる。そんなことしか、ニャーは考えていない。
「おやすみ、ニャー」
純子が電気を消した。ニャーは彼女の足元に丸まって、眠りにつく。
翌朝、純子は目が覚めてから顔を洗い、着替えて、すぐにキッチンに立った。朝食の準備は、自分にとってもお客様にとっても、大事なものだ。だから、しっかりと行いたい、と彼女は思う。
「ニャー、まだ暖炉はつけてないよ」
いつもと同じように、ニャーはすでに暖炉の前に陣取っていた。ここが温かいのは当たり前―――そんな顔で、純子を見る茶トラの猫は、早く火をつけろと言っているのだ。純子がため息をついた時、荒尾の声がした。
「俺がする」
「荒尾さん……おはようございます」
「ああ、おはよう。暖炉の火は俺がつける」
「ありがとうございます」
荒尾は、慣れた手つきで暖炉に火をつけてくれた。ニャーはそんな時だけ、荒尾の足にすり寄っている。いつもは寄ってきもせず、むしろ自分の後をついてこいと言わんばかりなのに。
「中野瀬、着火剤はもうないのか?」
「あれ、ストックありませんか?」
「ここにはないんだが」
「うわ、やだなぁ、切らしちゃったかな。まだ少し冷える日がありますもんね」
と、言うことは、となった時に荒尾が笑顔になる。それこそ少年のように、楽しそうに、花が開いたかのような瞬間だ。
「買い出しに行くか!」
なんでこの人は、そんなにウキウキルンルンなんだろう。純子はそんなことを思ったが、着火剤だけでなく、冷蔵庫の中身も寂しくなってきていたので、素直に買い出しに行くことにした。
しかしその前に、まずは朝食である。
「荒尾さん、パンとご飯、どっちにしますか?」
「む、今日は選択肢があるのか……」
「いえ、いつも成り行きなんですけど、昨日は朝から重たいドリアでしたし」
「そうだったな。あれは美味かった」
「美味しかったけど、やっぱり朝には重たいかと」
前の晩はパスタ、翌朝の朝食でドリア。そんな偉業を成し遂げたのは、目の前の男性である。そんなに食べたかったのか、と思った純子も諦めて、そのメニューにしたものの、大変な目に遭った。あんなにどっかりした朝食、好きでなければ食べないだろう。美味しいことは認めるが、さすがにあんなに食べるなんて、辛すぎる。
「そうだな、ご飯にするか」
「目玉焼き丼にしたら怒ります?」
お客様になんてメニューを出すんだ、と母に怒られそうだが、目玉焼きの載った白米は美味いのだ。ホロホロになった黄身と柔らかい白身。醤油を垂らして、温かい白米でいただく。卵かけご飯とは違う触感。油の香りもあるが、くどくない。
「いいな、目玉焼き丼」
「時間がない時の時短メニューなんですけど。ソーセージかベーコンあったかな?」
「それも載せるのか!?」
「載せると一度に食べれるし、美味しいんですよね」
まるで高校生や大学生が作りそうな、簡単すぎるメニュー。でも美味しくて、時短になる。お腹も膨れるし、悪いことはない。
こうして、純子は冷蔵庫の中から発見されたベーコンをできるだけカリカリに焼いた。ベーコンと卵を別々に焼いておけば、食べる時に食べやすい。ベーコンに卵が引っ付いていると、食べにくさが少し出る。それを事前に回避だ。
「荒尾さん、卵は半熟がいいですか?固い方がいいですか?」
「そこまで選べるのか……!」
卵の固さを選べることで、荒尾はすっかり感動してしまっている。卵くらい、半熟だろうが、固めだろうが、純子にとっては気になることはない。簡単な作業でしかないからだ。
「感動してないで、どっちがいいんですか?」
「しっかり固めで」
「はい。じゃあ、私も同じくらいが好きなので、一緒に焼いちゃいましょうね」
フライパンに落とされた卵は、純子のセリフを聞いているのか。なんとなくだが、黄身が寄り添っている。あなたたちが別々の丼に行く予定なのよ、と思いながら、純子は寄り添う黄身の間にフライ返しを差し込んだ。
黄身は離れてしまったけれど、白身がなかなか半分にならない。
変だなぁ、と思いながらも、純子はとにかくそれを丼へ入れるしかなかった。