目玉焼き丼と味噌汁。味噌汁の具は、わかめと豆腐。どこにでもありそうな、そんなメニューを荒尾はとても喜んで食べてくれた。変な人だな、と思いながら、彼の笑顔が毎日飛び込んでくる現実に、純子は少しずつ心が惹かれていく。しかしそれを明確に認めてしまうことは、純子にとってまだ恐いことだった。両親を喪ったばかり、相談できる相手もいない。ニャーはのんびりしているばかりで、最近はまずまず荒尾にも懐いてきた。と、言うことは?と純子は思いながら、皿を洗う。テーブルを拭いた荒尾が、純子にクロスを持ってきた。
「中野瀬、どうかしたのか?」
「あ、いえ、別に何でもないです!お醤油もなくなってきたなーって、目玉焼きを食べた時に思って」
「そうか。重たいものなら持つぞ。買っておく方がいいんじゃないのか?」
「はい……」
元上司、そんな人に醤油を持たせてもいいんだろうか。そんなことを考えて、純子は黙ってしまう。お客さんが気を利かせてくれているだけ、お客さんが昔の知り合いだっただけ。そう思おうと努めるが、やっぱり彼の運転する車の助手席に座ると、気分が変わる。
純子だって、年頃の女子だ。本当はこんなラフな格好を毎日見られたいわけじゃない。動きやすいストレッチジーンズや、軽く着られるシャツやブラウス。寒い時は母の残したジップアップパーカーを羽織ったりする。都会にいた時は、ちょっと気に入った花柄のワンピースを持っていたり、お気に入りのパンプス、新作のシャツ、なんでも持っていたし、気に入って着用していた。でも今は、そんな格好で行くべき場所がないのだ。田舎のペンションの周りは、高齢化が進み、若い人が少ない。若い人だけでなく、人間自体が少なかった。農家や畜産と言った、汚れて当たり前の仕事をしている人たちがたくさんいる。純子も母の家庭菜園へ立ち入り始めると、次第に汚れても気にしない格好を選ぶようになった。
だから、彼の隣に座るための服なんて、最近は準備できていなかったのだ。買い出しに行くというのに、昔のスカートを引っ張り出してきたら、おかしいだろう。でも今の格好は少し、シンプルすぎるような感覚が抜けない。隣と言っても助手席で、玄米おじさんのトラックには何度も乗せてもらったじゃないか。それと何が違うのか?と思うと―――何が違うかって?
「う……」
純子は、準備をしながら鏡を見て思う。おかしいな、こんなことのためにここにいるわけじゃないはず。鏡の中の自分は、少し都会にいた頃を取り戻しているかのようだった。それが悪いとは言わない。でも、いつか終わる夢だとも思う。
「い、行こう。待たせちゃ悪いし」
結局、いつもと同じ格好。動きやすいストレッチジーンズに、ラフなシャツと、パーカーを羽織るだけ。可愛げも何もないし、花柄のワンピースを引っ張ってくる努力もしなかった。
「……そういうんじゃないから」
純子は自分にそう言い聞かせ、部屋を出た。部屋を出ると、待ってましたと言わんばかりにニャーが寄ってくる。ご飯はあげたのに、何だろうな、と思うがニャーは純子の足にすり寄っている。
「ニャーにもお土産買ってくるね」
お土産でも欲しいのかな、と思って、純子はそんな言葉をかけるのだった。
一方荒尾は、純子が出てくるまで外で待っていた。車の調子を見たかったし、どこかでガソリンを入れた方がいいか判断したかったからだ。この家の車は、やや旧式だが、とても手入れのされているいい車。元は純子の亡くなった父の車だという。純子の父は、長年車の整備や車に関係した仕事をしていたという。長年の仕事を勤め上げ、最後にはこのペンションを、というところで事故に遭ったという話だ。
「いい車だなぁ、俺も車買おうかな」
そんなことを言いながら、荒尾は車の窓ガラスを拭いた。傷もないし、きれいな車。丁寧に拭き上げれば、拭き上げるほど、そこにはきれいな車しかない。しかし荒尾は車の不要な地域に住んでいるので、車を持ったところで乗る暇もなければ、維持費、置き場所を考えねばならなかった。
彼も男だから、いい車を見れば欲しくなる。欲しいな、とは思っても、現実的ではないことも理解している。免許は持っているし、営業の時に社用車にも乗っているので、運転自体に不安はないのだが、車を持つという生活を考えたことがなかった。何かのタイミングで必要になれば、レンタカーで十分。そんなことばかりだったからだ。
「でも、ここみたいに置き場所がないもんな」
車体に手を触れて、そんなことを言う。でも気持ちはだいぶ、車を買おうの方に傾きつつあった。そんな時、もしも自分がここで暮らしたら、車の1台くらい増えたって、おかしくはないよな、と思ってしまった。思ってしまった後に、荒尾は思いっきり首を振って、自分の考えを否定する。
「な、なにをかんがえ、てるんだ、おれ、は」
そんなことを言いながら、自分がここで暮らすという妄想を少しだけしてしまうのだった。
純子が玄関の鍵を閉めた時、荒尾は車に向かって何かブツブツと話していた。もしかして車にトラブルがあったのか?と思ってしまう。
「荒尾さん、車どうかしました?」
そんな純子の問いかけに、荒尾は大丈夫だと返事をした。少しだけ声が上ずっていたような気がするが、気のせいだろうか。
「荒尾さん、今日も運転お願いして、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。まあ、俺の運転でよければなんだが」
「いえ、荒尾さん運転上手ですし」
「それなら、よかった」
荒尾はホッとして、車に乗り込む。純子も乗り込んで、車は出発した。
「あの、今日は寄ってもらいたいところがあるんですけど」
「どこだ?」
「えっと、ここから……あ、あそこです。近くてすみません!」
指定された場所は、ただの郵便局だ。この郵便局で何をするのか、と思えば荷物を受け取ってくる、という。郵便局に消えた純子は、ものの数分で戻ってきた。大きな段ボール箱を抱えて。
「お、おい、なんだそれは!?」
「あ、手作り味噌を仕込もうと思いまして」
「手作り、味噌?」
「はい!」
その段ボール箱は、車の後部座席に乗せられた。そして、純子はその味噌のことを説明する。
「熊本から送ってもらったんです」
「熊本!?」
「玄米おじさんおすすめの、玄米味噌ができるキットなんですよ。混ぜるだけでできる味噌なんです」
「混ぜるだけで、味噌ができる……?」
車の中の2人は、少し話が嚙み合っていない。純子はそれに気づいて、もしかして、と口を開いた。
「荒尾さん、味噌の作り方知らないって感じでしょうか?」
「原料は多少わかるぞ。大豆、だろ?」
「そうですね。大豆、塩、麹ってところでしょうか」
「む、なかなか難しいものが……」
確かに、と純子は思った。食べ物は、その作り方や成り立ちを考えると非常に難しいものがあるのだ。純子は丁寧に、荒尾に話をした。玄米粉麹に蒸し大豆、塩を混ぜて発酵させて作る玄米味噌。体にもよく、粒が残らないので非常に食べやすい。調理にも使いやすいものだから、と純子が言った時に、荒尾は口を開く。
「もしかして、いつもの味噌汁は玄米味噌で作っていたのか?」
「はい、そうですよ!」
「味噌の手作りか……俺も作ってみたいものだ」
「簡単ですから、今度一緒に作りましょう!」
「ほ、本当にできるのか、俺に?」
「できますって!」
純子の笑顔は相変わらず明るかった。
2人は、次の買い出しのためにホームセンターに到着する。暖炉の着火剤を購入しなければいけないからだ。意気揚々とホームセンターに入った純子だったが、そんな彼女に近づく影があった。
「純子ちゃん」
名前を呼ばれて、純子は振り返り、声を上げる。
その人は―――