荒尾にとって、営業という仕事はやりがいがあって、実績にもなるいい仕事だった。彼はそれがいつものことだと思っているし、それで悪いことも感じていない。仕事に関する資料作り、ルート営業も新規開拓も、なんでも面白くやっていくことができていた。
気づけば会社での成績はトップ。頑張れば頑張るほど、結果が出る。だから、そのまま進んでいくことに疑いもなかった。気づけば、周囲は称賛してくれて、後輩は自分についてきてくれる―――なんだかそれに、居心地が悪く感じた。荒尾は、その時の自分をあまり良しとは思えなかったのだ。頑張ることはできるが、人から褒められたいわけではない。隣を見れば、誰もいなくなり、孤独になっていたのだ。
それでも、別に人間関係に傷が入ったわけでもなければ、嫌われているわけでもない。少しばかり嫉妬の視線を感じることはあっても、それが攻撃になるわけではないのだ。だからこそ、より孤独を感じる。
そんな時、荒尾は中野瀬純子のことを思い出したのだ。何度か資料集めや整理を頼んだ、小柄な女性。疲れた表情を見ることもあったが、基本的には仕事も嫌がることなく、温かい顔をしていた女性。彼女を思い出して部署へ行くと、なんと彼女は退職していたのである。
「荒尾さん、部署が違うので知らなかったんですね」
隣にいた女性がそう言ったが、荒尾には何がなんだか理解できなかったのだ。
「中野瀬さん、もう退職してどれくらいかな。何ヶ月か前に辞めましたよ」
「な、なんで辞めたんだ?」
「なんでって……家庭の事情みたいな話をちょっと聞きましたけど。田舎に帰ったとか」
そんな話を聞いて、荒尾はまさか、と思った。もしかして、彼女は会社の仕事を苦にして田舎に帰ってしまったのではないか、そんなことを思う。しかしその後、人事の同期から、彼女は田舎の両親が事故に遭ったから退職したのだ、と聞いた。
「田舎、か……」
彼女の田舎はどこなんだろう。そんなことを思いながら、荒尾はそれを知りたいと思ったし、もう一度純子に会いたいとも思ったのだ。
「俺も実家に顔を出した方がいいんだろうか」
両親との思い出よりも、祖父母と過ごした幼い頃の方がよく思い出せる。可愛がってくれた祖父母との思い出は、とても温かい思い出なのだ。祖母が作ってくれる料理や、連れて行ってもらった喫茶店。さまざまなものを考えながら、荒尾は少し休みを取ろう、と思った。
それからの荒尾の行動は、とても速かった。有休の申請と同時に、純子の行方を捜したのだ。純子の行方は、案外簡単に分かる。それは噂好きな女子たちに、ちょっと話を聞いてみたのである。純子は両親が経営している田舎のペンションへ戻ったという話だ。
ペンションとなれば、好都合。そのままそこで休みを過ごせばいいな、と思ったのである。こうして、荒尾は勝手な計画を立てて、突き進んでいく―――
饅頭を食べ終わり、ペンションへ戻ってきた純子と荒尾は、昼食としてもう少し何か食べられるな、という腹具合だった。それくらいしか時間が経っていないのか、とも思うし、時間が経つのが遅いな、とも感じる。
ペンションに戻った車から、2人は静かに降りた。なんとも言えない重たい空気が流れているな、と純子は思ってしまう。
「荒尾さん」
「ん、どうした?」
「あの、お昼……何にしますか?」
尋ねられて、荒尾は立ち止まった。饅頭を食べたあとだが、まだ何か入る。しっかりとした食事にしてしまうと、今度はおやつが減る。それはすでに経験済みだ。だから、荒尾はうーん、と唸って考え込んでしまった。
「何がいいか……悩むな」
「そんなに悩みますか?」
「ああ。下手に食うなら、おやつが減るだろ」
「おやつまで食べる気満々なんだ……じゃあ、パンケーキにしましょうか!」
純子はひらめいた、と言わんばかりの笑顔で言った。しかし、荒尾が眉間にしわを寄せている。
「パンケーキは甘いだろ?お菓子じゃないか」
「あんまり甘くないパンケーキにして、おかずをつければお食事パンケーキができますよ!」
「お食事、パンケーキ……?」
男性には未知の世界なのだろうか。純子は、かつて都会の街にあった、人気のカフェではそういったメニューがたくさんあったのを思い出す。もちろん人気なのはホイップクリームやフルーツたっぷりというのが定番だが、その中にはお食事系のパンケーキもあるのだ。
純子にとって、アレは憧れであり、同時にキラキラ輝く女子の夢が詰まっている。しかし荒尾にはわからない世界だろう。あんなに夢の詰まった世界、男性にはなかなかわからない世界だ。しかし、荒尾はアレを目の前にして心躍らない人間ではない、とも思った。
「荒尾さん……今からあなたが見る世界は、とっておきの世界ですよ!」
そんなことを言う純子を見て、荒尾はゴクリと唾を飲んだ。彼女が今まで作ってきた料理の数々。その美味しさも手際の良さも分かっていた。だから、それから導き出される答えは。
純子は、台所に立って小麦粉の袋を開けた。その中身を出して、そこに卵、牛乳、バニラエッセンス、ベーキングパウダー、少量の砂糖と塩を入れる。全部を丁寧に混ぜ合わせ、そこに溶かしたバターを入れた。
「バターはお高いけど、これだけ入れておけばおいしいんだよねぇ」
そんなことを言いながら、純子はすでに悦に入っている。これからできあがる夢の詰まったものは、お腹だけでなく気持ちさえも満たしてくれるだろう。
「少し休ませて……その間に、他の食材を準備」
パンケーキは甘いもの、というのはその通りなのだが、今回はお食事パンケーキだ。つまりは、サラダやソーセージなどを添えて、白米の代わりにいただくことになる。サラダにできる野菜を選び、買い置きのソーセージを取り出した。それから、純子の大好きな卵だ。
「卵いっぱい使っちゃうけど、今日は贅沢にいっぱい食べよう!せっかくのパンケーキなんだから」
そう言って、純子は手早く卵を割って、ボウルの中で溶いていく。黄色い卵液は、まるで太陽に照らされたかのように清々しい黄色だ。これで小さめのオムレツを作り、パンケーキと同じ皿に載せようというのが、彼女の計画である。
荒尾は、自室で書類の片づけをしていた。別に急ぎの書類ではなかったのだが、つい気になって片付けている。脳裏をよぎるのは、純子の前に立っていた三輪青年の姿だ。
「……優男だった」
ブツブツとつぶやく。いい意味ではなく、悪い意味で三輪青年を評価しながら、どんな結果を出せばいいのかわからなくなる。自分は、ただ純子に会いに来ただけだ。何なら、退職の挨拶をきちんとしていなかった、という理由もある。有休の消化のため、このペンションに滞在しているという、大きな理由もあるのだ。しかし、どうしても気持ちが前を向かない。
「……身長が、高すぎだ」
あの手足の長さで、農業ができるのか。玄米おじさんもなかなか身長があるタイプだったが、それよりも少し高い。むしろ、自分に近かった。純子との身長差がありすぎるじゃないか、とも思う。
「……つまり、俺も?」
自分と純子も身長差がありすぎるのか?と初めて疑問に思った。小柄な女性が好きだとか、相手の外見だけを物差しにしたことはない。だからこそ、今初めてその差を認識してしまったのである。すると、頭の中で冷静な声が響く。なんのために、その身長差を気にしたんだ、と。
三輪青年を勝手にライバル視して、勝手に文句を言っている自分。
それを認識した瞬間、荒尾は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。