「ねえ、蜂蜜かけるとオムレツのところまで流れちゃうんだけど」
女性がそんなことを言うので、純子は困ってしまう。それなら量を減らすとか、オムレツを避けるなど自分でどうにかするしかない。しかし、純子はお客様相手だからと思い、小さな皿を持ってきた。
「どうぞ、こちらの皿に入れてください」
「ありがと。ねえ、飲み物ってついてこないの?」
「すみません、コーヒーか紅茶ならすぐに準備できます」
「え、コーラないの?」
コーラ?と言われて、純子はさらに困った。このペンションとカフェが始まって以来、コーラを販売したことはないのだ。メロンソーダだって、やっとのことでカフェメニューに入れたくらいである。お客様が持ち込む分には咎めていないが、こちらでの準備はしていない。
「すみません、コーラは置いていなくて」
「えー、じゃあどこに売ってあるの?」
「そうですねぇ、ここからならちょっと時間がかかるかと」
「うそ、そうなの?じゃあ、何かジュースない?」
「食事にジュースですか?」
まるで母親のようなことを言ってしまった、と純子は思う。そう思うと、急に恥ずかしくなった。目の前の女性は、純子をチラリと見る。
「悪い?ジュースが飲みたいの」
「えっと……メロンソーダなら」
「メロンかぁ、まあいいや。それで」
この女性は、会話をすればするほど、態度が大きくなってくるような気がした。何なのだ、と純子は思ったが、冷蔵庫へ移動して冷やしてあったメロンソーダをグラスに注いで持ってくる。
荒尾は、この客は何なんだ、と思いながら、チラリと見る。しかし、向こうからはジロリと睨まれる始末だ。人に対して、そんな態度を見せるな、と後輩や部下なら言いたくなるところだったが、相手はこのペンションの客だ。下手なことを言って、トラブルになりたくない。
純子のメロンソーダが来ると、女性はそのジュースを飲みながらなかなかパンケーキを食べなかった。荒尾は自分がいるから食べにくいのか、と思い、早めに食べ終えて部屋に戻ることにした。荒尾が去ってから、女性は外を眺めてジュースを飲み、パンケーキはなかなか食べようとしない。
「あの、お客様……パンケーキはお口に合わなかったでしょうか?」
意を決して純子が尋ねると、女性はパンケーキに向かってため息をつく。
「バターに蜂蜜なんて、カロリー爆弾じゃん?太るに決まってるでしょ?」
「はあ……ではおさげしましょうか?」
「いいわよ、1枚だけ食べてあげるから」
食べてあげる?なんて言い方だろうか、と純子は思ったが、その時の女性の顔には幼さが残っているような気がした。地味な格好で隠しているが、まだ若い。もしかして、未成年なんじゃないか、と思ったのだ。未成年を1人でペンションに、宿泊させるわけにはいかない。確かに身分証の確認までは、しなかった。お金を支払ってくれたので、安心しきっていたのだ。
「あの、お客様」
「なに?」
「大変申し訳ありませんが、お客様はもしかして、未成年では……」
「だからなに?お金払ったでしょ。自分で稼いだお金で、ここに泊まっちゃダメなわけ?」
「いえ、未成年かどうか……もし未成年でしたら、保護者の同意か、ご一緒に宿泊を」
純子がそう言うと、女性はテーブルに手を叩きつけた。その音が響き、純子は驚いて目をつぶってしまう。
「一晩だけって言ってるでしょ!」
「そ、そういう問題では」
「お金も払ったんだから!お金もらっておいて、今更?」
「い、いえ」
その時、大きな音を聞きつけた荒尾が自室から飛び出してきた。
「大丈夫か、中野瀬!?」
「はい、大丈夫です」
驚きはしたものの、危害を加えられたわけではない。純子はそう思って、荒尾をなだめた。しかし彼の方は、女性をキツく睨みつける。
「荒尾さん、大丈夫ですから」
「わかった……」
2人のそんなやりとりを見て、女性はまた大きなため息をついた。それから、急に席を立つ。
「部屋にいるから。夕食になったら呼んで」
そう言い残して、女性は部屋に行ってしまう。その後ろ姿を見て、純子は夕食は何にしようかな、と思ってしまった。
「どうしようかなぁ」
「なんだ、やっぱり困ってるじゃないか」
「いえ、あの子、パンケーキを食べてくれなくって」
「……ただのワガママだろ。甘やかされて育ったんだ」
荒尾の意見は少しうなづけた。人に対しての怒り方が、そんな雰囲気だったからである。
「でも、自分で稼いだお金って言ってました。未成年で仕事してるのかな……?」
「おいおい、急に犯罪っぽい話をしないでくれよ」
せっかくの有給休暇を消化している身からすれば、そんな話に巻き込まれるのはごめんだった。未成年で仕事、となれば、何か特別な職業なのかもしれない、と2人は思うことにする。
「アイドルか?」
「え、荒尾さんそういう趣味ですか?」
「違う。子役とか俳優業とかじゃないのか?売れているかはわからんけどな」
面倒くさそうに、荒尾はそんなことを言う。その話を聞いた時、純子はふと思い出した。それは自分が投稿していたペンションのSNSに、最近増えたフォロワーのことだ。確か、きれいなウェーブの髪に、派手なシャツやおしゃれな鞄、コスメなどに囲まれた写真。
「もしかして……」
純子はスマホを開いて、SNSを見ていく。スワイプとタップを繰り返して、やっとたどり着いた。最近人気の若いインフルエンサーだ。未成年と公表はされていないが、それくらいと言ってもおかしくはないだろう、と思った。純子はフォローしておらず、向こうからフォローしてきたという、珍しいパターンだったから覚えていたのだ。
「中野瀬、なんだそいつは」
「最近人気のインフルエンサーって人みたいです」
「インフルエンサーか。最近流行ってるもんな。俺はそういうところに顔を出すのは好きじゃないが」
危険性を考えれば、と純子は思う。しかし、最近はこういうキラキラした人気の人を見るのが、若い世代には流行っているし、それによって立派な収入を得ている人もいるらしい。確かに、自分で稼いだお金には間違えないだろう。
「夕食になったらって言ってたけど……」
食べることが好きな純子からすれば、心配なのはそこではない。
「そうだな。おやつは要らないんだろう」
「ですよねぇ。パンケーキも結局食べてなくって」
そんなことを言っている2人は、謎の客に対してこれからどうしていくのか、まだ考えついていなかったし、むしろ今はおやつの心配が大きかった。
部屋でスマホを触っていると、トントン、とノックの音がした。彼女にしてみれば、迷惑な話。夕食に呼んで、とだけ言ったのに、その前に来たのは何のためだろうか。ドアを開ければ、そこには純子はお盆を持って立っていた。
「なに?」
「あの、おやつを」
「え?頼んでないけど」
「カロリー低めの物を作ってみました。ミルク餅です。きなこをかけているので、体にもよくて」
「きなこ……ってなに?」
まさかそこからか?と思った純子は驚く。やはり若いのだろう、こういったものを知らない可能性はとても高い。
「大豆の粉です。大豆を挽いて……えっと、大豆をすり潰すして粉にしているって感じで」
「ふーん」
体にいいと言われたので、彼女はまあそれならいいかもしれない、と思う。パンケーキはカロリーが高いから、そんなものを食べるのは自分のプライドが許せなかった。少しでも体重が増えたら、フォロワーが減ってしまう、といつも強迫観念のように思ってしまう。
「ゆっくりどうぞ。お皿は夕食の時に返していただければいいので」
そう言って、純子が去っていく。彼女は小さな器に盛られたミルク餅を写真に撮り、それから口に運んでみる。柔らかくて、甘い、モチモチのデザート。美味しい、と思って、器の中にあるきなこをたくさんつけて食べた。こんなに優しい甘さの食べ物は―――かなり久しぶりに食べたな、と彼女は思うのだった。