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第29食:苦悩するインフルエンサーと楽しいキーマカレー

麻衣まいがインフルエンサーの活動を始めたのは、中学を卒業する頃だ。中学受験のストレスから、誰かとちょっと交流したいな、勉強のためになるアカウントとつながれば親にも文句は言われないだろう、と思ったのである。しかし気づいた頃には、高校の新生活を発信することで、徐々にフォロワーが増え、紹介をすればするほど、お金が舞い込むようになっていく。


学校での生活はつまらなくて、正直なところ、学校なんて行かなくてもいいんじゃないか、と思う。インフルエンサーでしっかり活動していけば、収入にもなるし、時間も自由だし、何より楽しかった。キラキラ輝くさまざまな世界は、麻衣をインフルエンサーMaiに変化させていく。今ではすっかり、自分が麻衣なのか、Maiなのか、わからなくなってきていた。


そうなると、最近のMaiって可愛くないよね、とコメントが入るようになる。安っぽいものを使ってる、と言われ始め、ちょっとでもプチプラ感を出してしまったら、どんなに高いものでも映えない。焦って次々投稿したり、動画発信をしても、鳴かず飛ばずが続いた。今は、他の人気なインフルエンサーとコラボをしてもらって、何とか人気を維持できている状態。


疲れた。


そう思った時に、両親が離婚してしまい、家の中はすっかり様変わりした。母は父と離婚してから、仕事と男に走り、麻衣に関心を払わなくなった。口癖は「あんたはお金を持ってるでしょ」だった。別にこんなことになるために、お金を稼いだわけじゃない。楽しいこと、好きなことをしただけで、そこにお金がついてきたのだ。

母は、もう麻衣に料理をしてくれない。幼い頃は、さまざまな家庭料理、お弁当、おやつ、なんでも作ってくれていたのに。ここ近年は、そんな料理太るから、と文句を言って麻衣は母の料理を口にしなくなった。自分のせいだと思うと、麻衣はインフルエンサーとしての楽しみが消えていくのを感じる。


大学受験が近づいて、麻衣は少し焦っていた。大学の資金はあったとしても、自分の勉強がついて行かないのだ。だから、周囲のインフルエンサー仲間に相談する。

「ねえ、大学なんか行かないよね?」

「え、Maiちゃん大学行かないの?私は推薦取ったよ」

「うん、大学くらいは出なきゃねー、その方がこれからの活動に箔がつくってママも言ってるし?」

周囲のキラキラしている女子たちは、みんな頭が悪いと勝手に思っていた。だから、大学受験なんか真面目に受けるわけがない、と。でも他の子たちは皆、親に相談をしたり、相談に乗ってくれる第三者がいるのだ。麻衣にはそれがいなかった。父は出て行って、母もほぼ帰ってこない。麻衣にあるのは、自分で稼いだお金とスマホの中にあるキラキラに着飾った自分だけ。


それから、麻衣は更新は少しずつ続けるものの、これからどうしたらいいのかわからなくなってくる。相談できる人なんていなかった。インフルエンサーの活動のために、見栄えのいい男子を彼氏候補としていたぐらいで、本当に好きだったわけじゃない。同じ画面に入って、おかしくない人。センスがよくって、羨ましがられるような人じゃないと、自分の横には置きたくなかったのだ。


そんな時、麻衣のSNSに偶然飛び込んできたのは、田舎のペンションとカフェだった。下手な動画の編集は、素人がやったんだろうな、という印象しか受けない。でも、素朴な庭、可愛い小さなカフェ、そして笑顔の女性オーナーが可愛らしかった。

かつて、母もあんな笑顔で麻衣に食事を作ってくれていたはず。幼い頃の思い出は、小さなプラスチックのお弁当箱に、可愛いおにぎりやウインナーを詰めてもらったこと。両親に手を引かれて、公園に行ったこと。母が作ってくれたお弁当を開いたら、みんながびっくりするくらい可愛かったのだ。美味しいご飯に、甘いおやつ、記念日には両親がそろってお祝いしてくれた。

それからの麻衣は、そのペンションのSNSをフォローする。そして時々更新される情報をただ眺めていた。純子が作る料理は、家庭料理ばかりだし、出てくるおやつも豪華なものはない。素朴とはこのことなのだろうか、と思うほどのものだ。茶トラの猫が出てきたり、庭が写って、花が咲いているのも見えた。

繰り返されるペンションの日常。疲れた麻衣の心に、その場所はかつての自分がいた場所のように思えてならなくなってきたのである。


麻衣は、いつかそのペンションに行きたいな、と思うようになる。そんな時、ついに母と喧嘩をして、家を飛び出し、スマホと少しの荷物だけを握ってこのペンションにやってきてしまったのだ。

ペンションの名は「リガーレ」ラテン語で「結ぶ」という意味だと、スマホの検索ではすぐに出てきた。


「リガーレ」

初めて聞く言葉なのに、まるでずっと知っていたかのように感じる。そして、麻衣はついにそのドアを開いたのだ。本当は予約が必要だとわかっていたけれど、そうすればすぐに自分の身元が分かってしまう。それなら、無理やり押しかけて一晩泊まればいい、と思った。お金を払えばいいだろう、そんな考えしか、麻衣にはなかったのである。



そして、今に至る――――麻衣は、純子に対していい態度ではなかった、と思う。しかし母と喧嘩したばかりで、周囲を警戒しすぎた。もしかしたら、未成年だと知った純子が、警察に届けているかもしれない。普通ならそうするだろう。そうじゃなかったら、純子の方が罪に問われるかも。迷惑ばっかりかけて―――と怒鳴る母の声を思い出した。ベッドの上で縮こまり、大きなため息をつく。

こんなに人との関係で悩むなんて、思わなかった。本当はもっと上手にやれると思っていたし、インフルエンサーの活動も順調だったはずなのに。

「お母さんのせい……」

自分を疎む母の声、言葉。外にいる男と楽しんで帰ってきて、麻衣には関心を向けない。父と離婚したのも、母のせいだと勝手に決めつけた。本当は離婚なんてしてほしくなかったのに。幼い頃のように、またお弁当を持って、楽しく暮らしていけると思ったのに。


その時、ドアがノックされた。また純子が来たのか、と思うと、今度は夕食だという。時計を見れば、そんな時間だった。自分から夕食には呼んでくれ、と言ったのだから、純子は間違っていない。

「あの、お部屋に運びましょうか?」

「そんなこと、できるの?」

「はい。お客様が少ない時はできますよ」

つまり、今のここはお客が少ないということだろう、と麻衣は思った。でも、今は誰にも会いたくないから、ちょうどいいと感じた。

「うん、お願いします」

「はい、ではお持ちしますね」

純子は、麻衣に敬意を払ってくれたと思う。ドアを開けない麻衣の気持ちを尊重し、純子はこのペンションのオーナーなのに、勝手にドアを開けない。客だからそうしているのだろう、とも思うが、そういう純子の優しさを求めて、麻衣はここを訪れたことを思い出す。


しばらくして、またドアがノックされた。今度はドアを開いた麻衣だったが、純子が持ってきてくれた料理を見て、目を輝かせる。

「普通のメニューで申し訳ありません。でもお野菜をたくさん使いました」

「え、美味しそう……」

「スパイスは控えめにしているので、辛くはないと思います」

そこにあったのは、トマトや野菜が見え隠れしているカレーだ。白米は少なめ、サラダが多い。小鉢の中には、白菜の和え物、ほうれん草のサラダ、人参をのグラッセなど、細々としたものが並んでいる。

「少しずついろいろな種類の小鉢を準備しました。少しずつ楽しめますから、楽しいと思いますよ」


楽しい―――それは、かつて幼い麻衣が母の作ってくれたお弁当箱を開いた、あの瞬間を思い出させてくれた。


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