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第32食:インフルエンサーの心を動かす写真を投稿した人物は?

今日にはもう家に帰らねばならない―――誰もいない、あの家に。麻衣はそんなことを考えながら、ゆっくりとベッドから起きる。久しぶりにお腹いっぱい食べたせいか、しっかり眠れた気がしたのだ。今までは、食事は写真や動画のためだったから、少しだけ食べた後は友人に渡したり、そのまま捨てることもあった。こういうことをしてはいけない、と思っていたけれど、こうしなければ太ってしまう。


周りには、太っていてもいい子はたくさんいた。学校でも、ちょっとふっくらした子から、とっても太った子まで、いろいろな子がいたけれど、どの子もそれなりに充実して生活していたように思う。むしろ、そんな子たちは麻衣に、化粧の仕方や可愛い洋服、美味しいスイーツを教えて、と言って崇めてくれた。だから、無下にはしなかったけれど、特別仲良くもしない、そんな間柄。

いつの間にか孤立してしまったのは、麻衣の方で、太った子たちはみんなクラスに仲のいい友だちがいたり、部活で楽しんでいたりする。キラキラ輝いていたのは、私の方だったのに―――そう思いながら、麻衣は毎日をただ孤独の中で生きるしかなかった。


とりあえず着替えて、簡単な化粧をして、朝食の席に向かう。ここは少しばかりお節介なオーナーがいるけれど、料理が上手で美味しかった。かつて、母もあんな風に料理をしてくれていたはずなのに、と何度も思ってしまうくらいに。

「帰りたくないな……」

ペンションの階段を下りながら、麻衣はつぶやく。そして、キッチンの方がにぎやかなことに気づいた。お客が来たのだろうか、と麻衣は思ったが、それなら自分とは関係ない。しかし、楽しそうな純子の声と―――

「お、かあさん?」

そこにいたのは、純子から借りたエプロンを付けた母だ。キッチンに立って、料理をしている。

「な、な、なんでお母さんがここにいるの!?」

「麻衣……よかった、心配したのよ」

「うそ、行先は、おしえて……」

「アンタのスマホ履歴とか、片っ端から調べたの。ごめんね、どうしても会いたくて」

そんなことを言う母を見て、麻衣は思う。今更そんなことを言ったって、母は家に帰ってこない。男と出て行って、仕事ばかりしている、と叫びたくなった。しかしそんなことをここで叫んでも、おかしい人間は自分の方だと言われそうで、恐くなる。

「麻衣、ご飯にしましょ」

「ごはん……?」

「そう!純子さんにね、台所を借りたのよ!」

その時見せた顔は、かつての母の顔だ。優しくて、料理上手。小さな麻衣の憧れの母。

「ほら、席に座って」

無理やり母に席に座らされ、麻衣は目の前に来たオムライスを見て、目を輝かせた。

「オムライス……!!」

黄色い卵に赤いケチャップ。シンプルだけれど、麻衣が小さな頃から食べていたものだ。

「……お父さんが出て行っちゃって、不安だったわよね。お母さんも、仕事ばっかりで」

母は純子からコーヒーをもらい、麻衣の前に座った。そして、優しい表情で麻衣を見ている。

「お父さんとお母さんの問題に、麻衣を巻き込んでしまったって思っているの。本当は、麻衣は自分の好きなことをしていいのに」

「……お母さんだって、新しい男の人がいるんでしょ?」

「え!?」

麻衣の言葉に、母は驚いたように声を上げた。まさか娘からそんなことを言われるとは、思っても見なかったのだろう。しかし、麻衣は真剣な顔で母を見つめている。

「その……新しい男の人はいないわ」

「うそ!私、見たもん。男の人と一緒にいるお母さんを」

「……それは、弁護士さんよ、麻衣」

こうして、母は麻衣に対して、何が起こっていたのかを初めてしっかりと説明することになる。父親の不貞行為があり、離婚を決意した母は弁護士に相談をしていたのだ。まだすべては終わっていなかったので、終わってから麻衣に話すことがいいだろう、と思っていたという。大学受験やインフルエンサーの活動など、麻衣のやりたいことができなくなることが、母にとっては一番つらかったからだ。

その話を聞いて、麻衣はポツリと言った。

「私、一人ぼっちになっちゃったと思っていたの」

「ごめんね、麻衣」

「お父さんもお母さんもいなくて……フォロワーも少なくなっちゃって。その時、ここのペンションの写真を見たんだ」

それは田舎の些細な写真に見えた。でもきれいな青空に、豊かな自然。そして、茶トラの猫がのんびりとしている姿。オーナーは手作り料理の写真を投稿し、それがなぜか母の料理ととても重なった。

だから、どうしてもこのペンションに来たくなった。ここに来れば、休憩できるだろうし、のんびりできる。何もかもから解放されて、猫とゴロゴロできる―――しかし実際は、自分のわがままが出てしまって、純子にたくさん迷惑をかけた。

「私のために、ごはんを、つくってくれたの……」

麻衣の目から涙が落ちた。

「麻衣……」

「文句も言ったのに、それでも、私に合うようにって作ってくれた……」

それは、かつての母のように。麻衣が追い求めた愛情という存在のように、純子は麻衣を支えてくれた。


こうして、麻衣は母のオムライスを完食した。そして、それから母と一緒に帰る、と言う。

「純子さん」

麻衣は純子の側へやってきた。最初の何か隠した女性の雰囲気はない。年齢相応の、愛らしくて、明るい少女の顔だった。

「私、岩下麻衣って言います。インフルエンサーMaiは、これからちゃんと岩下麻衣で生きていきます」

「岩下様、この度はペンションリガーレへお越しいただき、ありがとうございました。今度はぜひ、お母様と一緒にお越しください」

「はい!」

母親と並んで去っていく麻衣は、これから大きな未来を歩んでいくのだろう。


2人を見送った純子は、何か忘れているな、と思って考えた。そして、もう1人のお客様のことをすっかり忘れていたことを、思い出す。

「やだ、荒尾さん!」

すっかり岩下母子のことばかりを考えていて、荒尾のことを忘れていたのだ。なんてことだ、と思って急いでキッチンへ戻る。すると、そこにはキッチンに立つ荒尾がいた。

「荒尾さん、ごめんなさい!朝ごはん、まだでしたよね!?すぐ準備します!」

「気にするな。勝手にした」

「勝手にした!!??」

純子の素っ頓狂な声が響く。知り合いと言っても、お客様だ。お客様のことを忘れて、自分は何をしていたのだろう、と思ってしまう。

「フレンチトースト。まだ朝ご飯を食べていないんだろ、中野瀬」

「あ……フレンチトーストだ」

「まあ昨日がパンケーキだったからな、どうかと思ったが、俺ができる料理は少ない!自慢じゃないがな」

自慢じゃない、と言いながらも荒尾はしっかりと焼き色のついたフレンチトーストを皿に盛りつけていた。昨日の蜂蜜を垂らして、コーヒーと一緒にいただく。ただそれだけのことなのに、甘いものは2人の心を緩やかにしてくれた。

「砂糖をかけても美味いんだ」

「粉砂糖ですか?」

「いや、普通の砂糖だ。ジャリジャリして、美味いんだぞ」

「ふふ、荒尾さんなら好きそうですね」

そんな庶民的な話をしながら、荒尾は岩下母子のことを口にした。

「あの母子は帰ったのか、無事に」

「はい。麻衣ちゃんと仲直りして」

「それはよかったな……片親だと大変だと聞くが、まあインフルエンサーがやれているんだから、あの子も大丈夫か」

「そういえば、麻衣ちゃんはうちの料理の写真を見たって言っていましたけど、私そんなにたくさん投稿したかな?って思うんですよね。私、写真があんまり上手じゃなくて」

「……まあ、最近はそういうのが流行っているからな。誰かが投稿したんじゃないのか?」

フレンチトーストにかぶりつきながら、荒尾は思う。


自分のSNSアカウントは、絶対に知られるわけにはいかないな、と。

そこには―――このペンションで食べた料理の数々が、丁寧な写真と説明で投稿されているから。



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