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第35食:かずくんと絵本

昼寝をしている子ども2人を見守りながら、荒尾は自分の好きな本を見ていた。純子はいろいろとペンションの仕事などがあるらしく、子どもたちを見守る役目を荒尾が買って出たのだ。しかしわからないことも多いので、何かあればすぐに呼ぶ、という約束にしている。

寝る子は育つ―――その言葉どおりなのか、2人はニャーの側でよく寝ていた。巻き込まれたニャーは大変そうだが、こんなお客は滅多に来ないのだから、たまにはそうやっているのもいいだろう、と荒尾が勝手に思う。荒尾にとって、ニャーは自分を悦子のところまで案内してくれた変わったヤツだ。少しくらい苦労してみろ、と荒尾は思いながら、何かあれば助けてやるよ、と少しだけ『同士』のような感覚で思った。子どもの相手は大変だもんな、と思いながら、自分が具体的に子どもの相手をしたことがあっただろうか、とも思う。


周囲は家庭を持ち、子どもに恵まれた者が多い。少子化だと言われているけれど、街を歩けば一定数のベビーカーや子どもを見る。泣いたり、走ったり、そんな姿を見れば愛らしいとも思うが、母親の大変さを想像したくない。あのままの調子で家の中でもそうならば、どれだけつらいことか。夫の手伝いがあればいいが、思うこともあったが、そこに自分が立っているという想像もなかなかできなかったのだ。

会社にいれば、トップ営業マン。プレゼンをさせれば右に出る者はおらず、後輩の指導も完璧に近い。上司からの評価も高く、何かあればすぐに荒尾を頼ってくるほど。給与も同年代より高いという認識があり、同時に―――休めていない自分にも気づいた。営業の仕事は、ある程度は幅がある。近年では無理な接待、酒の席などはなくなったが、それでも就業時間終わりに電話がかかってきたり、納期ギリギリの電話など日常茶飯事だ。

あれほど注意しろ、と言っていたミスをしてしまう後輩。話ばかりして、なんの作業も進んでいない女子社員。今日は飲みに行かないのかい、と飲みニケーションとハラスメントのギリギリを責めてくる上司。そんな人間の中で、中野瀬純子だけは真面目に仕事をしていたように思う。もとは管理栄養士の資格を取って、大学を出ている女性。小柄で仕事が早く、コミュニケーション能力も悪くない。周囲とも上手にやっているタイプ。そんな彼女に対して、荒尾は少しばかり好意を持ち始めていた。


そんな矢先、彼女の退職を知るのだ。


開いた本が手から落ちそうになって、必死に取り繕う。純子の退職を知った日のことを思い出して、荒尾は少し取り乱していた。そのうち話そう、そのうち何かのタイミングで―――と先延ばししていただけなのに、彼女の方がいなくなってしまったのだから。いつも、営業の指導をする時は、先を考えてすぐに行動に移すように、と言っていた自分が、なんて失態をしてしまったのだろう、と思う。

同時に、自分の休みがほとんど休みになっていないことにも気づいた。何かと鳴り続ける電話。時間外の対応。まとまらない資料を持ち帰り、作り直したり、整理したり。その繰り返しの中、荒尾は自分がきちんと休んでおらず、無理もたたって純子のことを先延ばしにしてしまった、と結論付けた。


だから、ここに来た―――と思っている。


しかし、ゆっくり過ごすつもりが、買い出しに出たり、コーヒーを淹れたり、玄米おじさん夫婦に会ったり、インフルエンサーを見たり、子どもの面倒を見ることになるなんて。荒尾の中のペンションとは、こういうものではなかったはずだが、今ではこの生活が楽しくなってきている。

いつも、目覚ましで無理やり起床していたのに今では自然に起きることができた。三食とおやつは、どれも美味しい。パン屋に行くのも、野菜を買いに行くのも、どれも楽しくて、いい思い出になった。あと数日―――それをここで過ごすことになるが、どう過ごしていこうかと思っていた矢先にやってきた、子どもたち。

経験したことがないことは、一度してみたい。それが楽しくて、それが面白い。そんな気がしてならないのだ。だから荒尾は、このペンションで何があっても純子と一緒に過ごしてきた。そこまで考えて、パタンと本を閉じる。


「お、俺は」

今、何を考えていた?まるでこれかも純子との生活が続いていくかのような、そんな気持ちになっていたのだ。いずれは、その腕に我が子を抱いて。でも、自分たちは『まだ』そんな関係ではない。いや、そもそもそんな関係になりたくてここに来たわけではなかった。彼女の無事を確かめたかったし、最後に挨拶もできなかったから―――荒尾はたくさんの理由を並べ立て、自分に言い聞かせる。

「俺は……」

これからどうしたいのだろうか。もうすぐこのペンションを離れ、会社に戻ることになる。そうすれば、また営業マン荒尾の復活だ。しっかり充電できたから、またバリバリ営業ができるはず。後輩の指導も、うるさい女子社員も、面倒な飲みニケーションも、すべて飛び越えていけるはず。

しかし、そこに純子はいないのだ。それを思うと、苦しくなる。

「ねー、かずくんはなにしてるの?」

「うお!?起きたのか!?」

見れば、そこには目をこすって起きるケイくんとまーちゃんがいた。可愛らしい目が、荒尾を見つめている。

「かずくん、はやおきだね」

「いや、俺は寝てないんだよ」

「ちゃんとおひるねしないと、おおきくなれないって、おじいちゃんがいってたよ!」

確かに、玄米おじさんは米農家にしては高身長だ。あの人に言われたなら、子どもは信じてしまうだろう。そう言って今まで寝かしつけてきたのだろうか、と荒尾は思った。

「俺はいいんだよ、もう身長は伸びないから」

「え!かずくん、そのままなの?」

子どもは、人間の身長がこのままどんどん伸びていくと思っているのだろうか。そんな絵本でも読んでもらったのかもしれない、と思いながら、荒尾は子どもの相手をしていた。しかし、これくらいの子は面白くて、手がかかる。さまざまなことを尋ねてきたり、面白い方向に考えたりするのだ。

「かずくん、はんばーぐができるまで、えほんよんでください!」

「絵本!?読んだことは……いや、あるか、俺も子どもだったな……」

絵本なんて読んだことない、と言いながら、荒尾は自分もかつては子どもだったことを思い出す。少し大人びた子だったから、祖父母がたまに喫茶店なんてところに連れて行ってくれたのだ。あれも確かに楽しい思い出だったけれど、読書ができるようになるまでは、絵本を読んでもらうことが好きだったのを思い出す。

こうして、荒尾はケイくんとまーちゃんの選んだ本を読むことになった。


純子は、部屋の片づけを終えてキッチンに入る。今日は子どもたちのリクエストでハンバーグだが、量は多くないし、簡単に作れるので、実のところありがたかった。子どもだから、凝った料理を突然言い出すと、ちょっと大変だなぁ、という印象があったのである。材料は買ってきてもらったし、これだけあれば十分だろう、と思う。

ハンバーグはしっかりとした肉感のあるハンバーグと、野菜などを入れ込んだふんわりしたハンバーグなど、さまざまな工夫ができる。特に野菜が嫌いな子がいる場合は、見えないように刻んで入れればいい。純子も後者の野菜入りハンバーグを選択した。ニンジン、ピーマン、玉ねぎなどを細かく刻み、ひき肉と合わせていく。

いざ捏ねようか、と思った時、純子はとても耳馴染みのいい声を聞いた。


それは、荒尾が真剣に絵本を読んでいる声。

子ども2人はしっかりとその世界に入り込んでしまうくらい、荒尾の膝を占領して、楽しんでいた。


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