「今日はペンションは閑古鳥なのかい」
不意に赤坂に尋ねられ、荒尾は首を傾げた。どうして自分にそんなことを聞くのだろう、と思ってしまったからである。
「そうですね、俺たち以外にお客はいなくて」
「そうかい。じゃあ、少しゆっくりしていくか?」
「中野瀬次第です」
ペンションのオーナーは純子である。純子がどうしたいか、今後の予定などは、すべて彼女が決めるべきことだ、と荒尾は思った。
「おっと、そうだったな、和弘くんはお客だった」
「あの、最初から客なのですが……」
「今じゃすっかり、あのペンションの一員だなぁ」
そんなことを言われて、荒尾は素直に喜んでもいいのだろうか、と思う。自分にとって、あのペンションは有給休暇を過ごすため、純子に最後の挨拶をするために来たようなものだ。それなのに、まるで大事なメンバーのように言われてしまっている。
つまりは、ご近所さんにとっても、自分は重要なご近所さん仲間なのだろう。変な話、荒尾自身はそんなに近所と交流をしていたわけではない。しかし、時々やってくる赤坂や、純子と仲のいい悦子、買い物に行く先など、さまざまなところで荒尾は人と出会ってきた。確かに、ペンションの客としては、少しばかり図々しいというか、存在が大きいというか。
「純子ちゃんも、君みたいな知り合いがいてよかったよ」
「え、そうですか?」
「ああ。あの子を尋ねてくる人なんて、いなかったもんなぁ」
そうなのか、と荒尾は思った。純子の人間関係について、詳しくは知らない。しかし、せっかくペンションをしているのだから、少しくらい誰かが来てもいいのではないだろうか。
それからしばらくして、洗い物を済ませた純子は、ペンションの片付けがあるからと言って、赤坂の家を離れた。子どもたちは、もうすぐ長男夫婦が迎えに来るとのことなので、それまで預かることになる。
「すみません、荒尾さん。荒尾さんがペンションにいるのも、あと少しなのに」
純子は、まるで自分のことのように話す。しかし荒尾は、気にしていない、と言った。
「たまにはこんなこともあるさ」
「でも、お客さんなのに」
「この子たちもお客だろ?」
「そうですけど」
純子にとって、ペンションに来てくれる人は、年齢性別関係なく、大事なお客様だ。以前からの知り合いである荒尾でも、大事なお客として扱っている。そういうプロ意識のようなところは、荒尾から見てとても好感が持てる部分だった。
「まあ、俺は騒がしいのが得意じゃないが」
「そ、そうですよね」
「でも、こういう騒がしいのは楽しいと思ったよ。子どもの体温が高くて、手が小さくて。絵本って意外に面白かったんだな、と思ったしな。風呂に入れるのも大変で、でも、すごくいい経験だったし、楽しかった」
そんなことを話す荒尾の横顔は、会社では見たこともないような落ち着いた、清々しさを持った笑顔だった。子どもたちとのことを、こんなに楽しかったと言ってくれる荒尾に、純子は心の底から感謝する。
本来ならば、純子が赤坂の手伝いとして、子どもたちの面倒を引き受けるのはありえる話だ。悦子にはいつも世話になっているし、何かと助け合っていることが多い。だから、日ごろのことも考えると、悦子の怪我が完治するまでは、何か手伝ってやりたいと思うのが純子の本音だ。しかし実際には、1人でできることなど限られているし、子どもを持ったことのない純子にとって、子どもの面倒を1人で見ることは、とても大変なことだっただろう。
だからこそ、お客とはいえ、荒尾がいてくれたことは、純子にとってとても心強かった。
ペンションへ戻ると、純子は子どもたちと荒尾に、おやつは何がいいか、という話をし始めた。大変だった思い出ばかりを考えても、前に進むことはできない。今できること、今考えられることをする方が、純子らしい生き方だ。
「まーちゃん、プリンたべたい!」
不意に言われたリクエストに、純子は驚いた。プリンを作ることは可能だが、それなりに時間がかかる。特に、冷やす時間がかかってしまうのだ。
「プリンかぁ、できるけど、茶わん蒸しになっちゃいそう」
純子のセリフに、荒尾が笑う。
「冷やす時間がかかるからな」
「そうですよ、でも少しあったかいプリンでもいいなら……」
ほんのりとあたたかさを持った、不思議なプリン。それも悪くはないかもしれない、と純子は思った。卵の色とバニラの香り。子どもたちにはカラメルソースなしで、荒尾と自分の分にはたっぷりかけようか。そんな想像をすると、口の中が甘くなっていくのを感じた。
「荒尾さん、プリン行きましょうか!」
「じゃあ、俺はあっちで子どもたちに絵本を読もう」
長く時間を過ごしているわけでもないのに、2人はもう最強タッグと言えるような、コンビネーションだった。
純子はキッチンに入り、卵と牛乳、砂糖、バニラエッセンスを取り出す。
すべてを丁寧に混ぜ合わせ、きれいに濾す。この作業をするだけで、プリンの滑らかさがまったく違うのだ。甘い卵液ができあがったら、型に流す。そのあと、沸騰してきたお湯の沸いた鍋に、蒸し器をセットした。
「火加減が大事だから……」
慎重に火加減を調整するのは、プリンの出来上がりにかかわるからだ。蒸しパンなどは強火で一気にした方がよいのだが、プリンはそんなことをすれば、液が沸騰して穴が開いてしまう。味に問題はないが、食感や見た目が悪くなってしまうので、避けたいもの。
「お母さん、プリンも茶わん蒸しも上手だったもんなぁ」
甘味と出汁の違いであるが、プリンも茶わん蒸しも、蒸す要領は同じだった。沸騰させずに、火を通し、卵液が固まるのを待つ―――このじっくりとした工程を待つことができれば、とても美味しいプリンが出来上がる。
プリンの出来上がりを待つ間に、今度はカラメルソースづくりだ。これはタイミングとスピード勝負。色が付き始めたら、焦げるまでが、とにかく早い。砂糖と水だけでできるが、この作り方を覚えておくとカラメルソースをたくさんいただくことができる。市販のプリンを食べていて、もうちょっと欲しいなぁ、という希望を叶えてくれることができるのだ。
手早くカラメルソースを作った純子は、そろそろと思って、蒸し器の中にあるプリンを確認した。卵液は固まり、バニラのいい香りがする。蒸し器から取り出して、粗熱を取ったら、少しだけ冷蔵庫へ入れた。
一方子どもたちの相手をしていた荒尾は、ケイくんとまーちゃんの2人がプリンを心待ちにしている姿を見つめている。可愛いもので、彼らはプリンが冷蔵庫の中で作られていると思っており、そんな会話を2人の中で繰り返していた。
2人は、冷蔵庫の中にはプリンをいっぱい作れる部屋がある、と話している。そして、それは誰にも言ってはいけない秘密なのだ、と。クスクス笑う2人は、自分たちの会話が荒尾に筒抜けであることは、何も知らないのだ。
「おっほん!お2人さん!」
わざとらしく荒尾が声を出すと、2人は飛び上がるようにして、彼を見た。
「今日はどの絵本がいいのかな?」
荒尾が尋ねると、2人は喜んでお気に入りの絵本を持ってきた。見れば、その絵本は年季が入っている。表紙が汚れているし、ページの端が折れているものもあった。しかし子どもたちが望む本だからこそ、これを読んでやろうと荒尾は思う。
キッチンまで聞こえる荒尾の声は、純子にとっても心地よい。彼がこんなに絵本を読むことが上手だと、誰が知っているだろうか。
いつもなら、プレゼン資料を読んだり、顧客相手に話をするばかりなのだ。
この声を聞きながら、いつか夜の眠りについてみたいものだ、と純子は思うのだった。