七十万円? 婚約指輪? 給料何ヶ月分?
(うっそだろ? あのたぬきジジイ、俺の価値を七十万なんて法外な値段に設定しやがった!)
「あ、ごめん! こういうのは人によって値段が違ったりするから、あんまり言わない方が良かったかな。俺は知り合いの紹介で登録したから相談料はサービスしてくれたらしくて、宗馬の方がもうちょっと払ってるんじゃないか?」
青ざめた様子の宗馬を見て翼が慌ててフォローを入れようとしたが、もちろん全くの逆効果であった。
(逆だよ逆! お前の方が倍近くふんだくられてるぞ! 一体どういう基準で価格設定してるんだ?)
「婚活の相場は総額七十五万くらいなんだって。だからそれより五万も安くて、しかもズルズルと時間をかけずにすぐに最高の人を見つけてくれるんだから、超お得だよって言われて。確かにその通りだった。宗馬もそう思わない?」
(全くそう思わない!)
ニコニコ笑う翼を見ながら、宗馬は引き攣った笑顔で冷や汗をダラダラと全身から滝のように流し続けていた。
(なんでだよ、お前営業部だろ? どうしてそんな営業トークに引っかかってるんだよ? うちの会社大丈夫か?)
しかしこれでうっかり破談を切り出すことができなくなってしまった。
(七十万も払ったのに俺から断ったりでもしたら、精神的苦痛マジで半端ないだろ。下手すると自殺でもしかねないレベルだ)
少なくとも、自分ならそうするかもしれない。
しかし、七十万の期待を背負うのも正直かなりのプレッシャーだ。
「……翼はさ、その、俺のことそんな理想的な相手だって思えるのか?」
「え、どうして?」
「いやだって趣味とか好みとか全然合わないし、住んでる世界もなんか違うっていうか……」
「ああそれよく言われるんだよね」
よく言われる?
「宗馬の言いたいことも分かるよ。俺も本当に宗馬の理想の相手なのかって正直不安に思ってるし。実際人種が違って落ち着かないって既に言われてるし」
「あ、ごめ……」
「でもそれって今すぐ分かることじゃないと思うんだ。まだお互い初めて意識し合ったくらいの段階だろ? 卜部さんだって、本当に相性のいい相手は一緒に過ごしてみないと分からないものだって言ってたし。だから付き合わなくてもいいから、まずは俺のことを知ってもらうチャンスをくれないか?」
翼はダイニングテーブルの上に乗っている宗馬の手を上から押さえるようにギュッと握った。
「体の相性はすごく良かったんだ。卜部さんのお墨付きだし、俺たちきっといいパートナーになれるんじゃないかな」
宗馬はポカンとして真面目な表情の翼の顔をまじまじと見た。
(だ、大丈夫かな? 七十万無駄にしたくないあまり、無理矢理俺のことを理想の相手だと思い込もうとしてるんじゃ……?)
そんなことは口が裂けても聞けないが。例え間接的だったとしても、人の命を奪うような真似だけは絶対にしたくなかった。
「それに真逆だけど、相性抜群な部分もあるよ。ヤる時上か下かどっちか? はいせーの、上!」
「下」
「ほら!」
(ぎゃー!)
反射的に答えてしまって、宗馬の頬がかっと火照った。
「今更そんな恥じらわなくても……」
「だって覚えてないし」
「だからもう一回ヤる?」
「却下」
「ガード固いなぁ」
慌てて両手を翼の手の下から引き抜いた宗馬に、翼は完璧な笑顔を向けながら提案した。
「とりあえず来週末デートしよう」
デートか。嫌な予感しかしなかったが、お互いのことを知るためには避けられないイベントだ。
「そうやって正反対の向こう側から少しずつ近寄っていけばいいじゃないか」
(いや、俺たちの場合、お互いのことを知れば知るほどどんどん亀裂が深まっていく気がするんだけど……)
◇
「こんな所にホウキ出しっぱなしにしてんじゃねえよ!」
「いちいち片付けてる余裕ねぇんだよ! ちょっと隅っこに置いてただけじゃろうが!」
「意図的に置いてたみたいな言い方するんじゃねぇよ! どう見てもこれ投げてたじゃろうが!」
「なんでホウキ出してただけでそこまで言われなきゃならんの?」
「俺が踏んだからだよ!」
週明け、大声で怒鳴り合っている工場の若手社員を生温い目で見つめつつ、宗馬の話を聞いていた同期の山梨達也が、この場に不釣り合いな穏やかな声で呟いた。
「俺はその相手の人に賛成だな。今はまだ相手のことをほとんど知らないんだろ? お互い歩み寄って相手のことをもっと知ったら良い関係になれるかも」
「目の前に互いのことを知り尽くしてるのに怒鳴り合ってる連中がいるんだが?」
「ああ、あの二人そういえば宗馬と同じ高校出身の後輩なんだっけ?」
「六つも下だから被ってないけどな」
宗馬は空になったスポーツ飲料のペットボトルをポイッとゴミ箱に投げ入れた。
「とにかく俺は卜部さんを信用するよ。俺も最初は半信半疑だったから。宗馬の相手も一見合わなさそうに見えても、絶対最強に相性のいい相手なんだって」
「達也の相手ってどんな人?」
達也は宗馬の元社員寮のルームメイトで、お互い同性愛者であるとカミングアウトした仲だ。なので宗馬は達也の相手も男であることを知っていた。さすがにどこの誰かという所までは教えてもらっていなかったが。
「どんな人か? う~ん、そうだな……穏やかで優しくて、怒ったところとか見たことないような、そんな人だよ」
「趣味とかは?」
「共通の趣味はアウトドアかな。今度一緒にキャンプ行くんだ」
(うわ、三百六十度どこからどう見てもお似合いのカップルじゃないか)
宗馬は達也とは十年ほどの付き合いになるが、彼が声を荒げたところなどこの十年間一度たりとも見たことがなかった。正統にして王道の相性の良さである。
(その点俺と翼の相性ははっきり言って奇をてらい過ぎだろ。もっとすんなりしっくりくる相手が絶対他に居ただろうに……)
「あ、ちょっと海田さん! この指令書の寸法間違ってるんですけど! 気をつけて下さいよ!」
「え、うそ、ごめん」
「てめえ、自分が苛立ってるからって目上の人に向かってその口の聞き方はないじゃろ!」
「や、悪いのこっちだから……」
「仕事のミスに年齢とか関係ねぇんだよ!」
「てかこれ海田さんが営業のハンコ押してるだけで、作ったの別の人間じゃねえか!」
「ああ~、海田さんが被弾してるよ。俺ちょっとあいつら止めてくるわ」
達也は慌てて立ち上がると、怒鳴り合う若い工場職員を前にオロオロしている背の高い営業職員に助け舟を出しに駆けて行った。
「……いいねえ、若い連中は」
突然後ろから声をかけられて、四人を見るのに集中していた宗馬はギョッとして思わず飛び上がった。
「あ、工場長」
缶コーヒーを左手に持った高野工場長が、ニヤニヤ笑いながら宗馬の後ろに立っている。
「仲良いよなぁ。あいつら幼馴染なんだって?」
「地元一緒ですからね。仲がいいかどうかは知りませんけど」
「仲良いだろ? あんな風に怒鳴り合える人間そうそういないぞ」
「祐樹のやつ海田さんにも怒鳴ってましたけど」
「マジか~。なんであいつはあんなに血の気が多いんだ」
工場長はため息をつくと、おもむろに右手に持っていた物を宗馬に向かって差し出した。
「ところでさ~、なんかホウキが一本折れてるんだけど、なんでか知ってる?」
(げっ!)