(はぁ、なんで俺があいつらの尻拭いなんか……)
真っ二つに折れたホウキを手に事務所に続く階段をカンカンと音を立てて上りながら、宗馬は心の中で二人の若手に向かって悪態をついた。
宗馬の務める
(正直事務所に上がるのって嫌なんだよなぁ。だから祐樹のやつ、慎二に向かって烈火の如く怒ってやがったんだな)
灰色のスチール製のドアを引いて事務所の中に足を踏み入れると、早速奥の席に座っている経理の男性とバチリと目が合った。
(げっ!)
この小さな町工場の財務を全てその手中に収める経理の金子は、金縁メガネの奥から神経質そうな目でこちらをじっと見た後、フイッと視線を再び手元の書類に落とした。
(いや、言いたいことがあるならハッキリ言って! 言わなくても分かってるけど)
現場で作業する工員は基本的に汚い。工場は吹きっさらしの土の地面で、辺りには鉄屑や
(特に経理は経費に関わることに関しては神経質で鋭い。汚れた服はクリーニング代、事務所の汚れは清掃代ってな感じで、チャリンチャリンッて俺たちのこと見てるんだろうな。あ、しかも今の俺は壊れた備品を持ってるから、さらにマイナス経費だ)
「ちょっと下地さん、手にべったり油付いてますよ! その手でその辺触らないで下さいね!」
すかさず綺麗好きの事務の岡田が飛んできて宗馬の目の前に立ち塞がった。これ以上の事務所内への侵入は許さないという確固たる意志が全身からゆらゆらと立ち上っているようだ。
「ていうかそのホウキどうしたんですか?」
「あ、これは……」
「あれっ、どうしたんですかそれ?」
突然後ろから声をかけられて振り返ると、事務所の奥にある更衣室から長身のイケメンが出てくるところだった。
「ああ、瀬戸君」
岡田の表情が一変する。ゴキブリを見ていたような目から、まるで韓流スターを見るような熱っぽい視線に激変だ。
「何でホウキが真っ二つ?」
「すみません、ちょっと現場でやらかして。新しいのもらえませんか?」
金子の目がギラリと光を放ったような気がしたが、その視線を遮るように瀬戸がにこやかな表情で宗馬の手からホウキを受け取ってくれた。
「岡田さん、新しいの出してあげてよ。こっちは俺が処理しとくんで」
「は~い」
(いい年したおばさんなのに心は乙女なんだな……)
「でも意外だな、下地さんがホウキ真っ二つに折るなんて。何か問題があるなら言ってね。納期ちょっと短すぎた?」
「あ、いや……」
「ただいま戻りました!……ってあれ、宗馬?」
名前を呼ばれてギョッとして振り返ると、スーツの襟元を緩めながら事務所に入ってきた翼が驚いたような表情でこちらを凝視していた。
「あ、お疲れ様です」
「工場にいなかったからどこ行ったのかと思ったら、事務所にいたんだ」
「天野さん、現場に行ってたんですか?」
金子の鋭い声がすかさず飛んで来て、翼は苦笑しながら玄関マットに靴の裏を擦り付けた。
「製品できてるかちょっと気になって」
「工場に行くならヘルメットを着用して行って下さいよ。何かあった際に労災に関わるんで」
「すみません。てか下で若手が二人でギャーギャー騒いでましたけど」
「あいつらまだやってんのか」
思わず宗馬がため息をついた時、岡田が新しいホウキを持って戻ってきた。
「はい、もう折らないで下さいね」
「すみません、ありがとうございます」
「そのホウキ、左野が踏んで折ったって聞きましたけど」
「えっ?」
岡田と瀬戸が驚いて宗馬を振り返り、金子もメガネの奥の瞳を光らせた。
「あれ、下地さんがキレて折ったって聞きましたけど」
そんなこと一言も言ってないんだけど。
「右京が置いていたホウキがいい感じに段差の上に乗ってて、そこに左野が思いっきり踏み込んで折ったそうですよ」
「なんだ、それならそう言ってくれれば良かったじゃないですか」
岡田が咎めるような目でこちらを軽く睨んでいる。まるで私が悪者みたいじゃないですかと言わんばかりの表情だ。
(そんなこと言ったって、こんな些細なことでいちいち言い訳がましい説明なんてしてられるかよ)
「ちょっと左野のやつ軽くシメてくるんで」
「ええっ! やめて下さい!」
「冗談ですって。現場に軍手忘れてきたんで、一緒に下りましょう」
イケメン二大巨塔のもう一人にニコリと微笑まれて、眉間に皺を寄せていた岡田の表情が途端に緩む。
(やれやれ……)
カンカンカン、と新品のホウキを持って階段を下りていると、ガンガンガンガンッ! と慌てて翼が宗馬の後を追ってくる音が、鉄の階段全体を振るわせながら響き渡って来た。
「待って!」
仕方なく立ち止まって振り返ると、ヘルメットを掴んだ翼がちょうど宗馬のいる位置にまで追いついて来たところだった。
「一緒に下りようって言ったのに」
「会社で馴れ馴れしくするのはやめてもらえますか?」
「どうして?」
「自分の性癖を会社の人間には絶対知られたくないからですよ」
もう知られている達也と翼を除いて。
「大丈夫だって。別に男性社員同士で仲良くしてたっておかしくないし、誰も気付かないって」
そうなのだろうか? 自分にやましい気持ちがあるせいか、どうしてもついそういう目で周りを見てしまう。
「それより俺、ナイスアシストだったでしょ?」
「え?」
「さっきのホウキの話。誤解されたままだったら、きっと宗馬のことキレやすくてヤバいやつだって噂が会社中に流れてるところだったよ」
「別にいいですよ。給料からホウキ代差っ引かれるわけでもなし」
階段から一番下の地面に降り立ったところで、翼が宗馬の顔を覗き込んできた。
「良くないって。どんなに些細なことでも、自分に非のないことで責められる筋合いなんかないだろ? それに悪い印象が付いてしまうと、全然関係ない場面で不利になることがある」
「工場長は分かってくれてるので大丈夫です」
「工場長?」
一瞬、笑っている翼の口元がピクッと痙攣したような気がした。
「それは……」
「あっ、下地さんすみませんでした!」
何かを言いかけた翼だったが、若い工員が二人こちらに走って来るのを見てすぐに態度を切り替えた。
「お前ら、先輩パシリに使ってるんじゃないぞ!」
(今、なんて言おうとしたんだろう?)
笑顔で若手に説教する翼の横顔を見ながら、宗馬は歯切れの悪い翼の言葉の続きを考えていた。