煉瓦塀に緑の蔦の絡んだ外装の、昔ながらの小さな洋食屋『びすとろ下町店』。チェーンのファミレスに比べると値段は張るが、本格的で美味しい洋食が味わえるということで、昔から地元の人々に愛される下町の洋食屋だ。
チリンチリン、と鈴の音を鳴らしながら、入り口の扉が遠慮がちにギイッと音を立てて開かれる。店主が顔を上げると、馴染みの客のロマンスグレーの頭髪が目に入った。
「いらっしゃいませ!」
「よぉ、また来たよ」
「いつもありがとうございます」
近くの工場で働くこの高野という男性は、週に一度はここを贔屓にしてくれている常連客だ。いつもは小学生くらいの子供を一人連れて来るのだが、今日は若い男性が彼の後からゾロゾロと続けて店内に入って来ていた。
「お連れ様ですか?」
「うん、そう」
「何名様でしょうか?」
店主の問いかけに、高野は笑顔でぱっと手のひらを開いて見せた。
「五名様で」
◇
時は数十分前に遡る。
「メシって、急にどうしたんですか?」
驚いたような宗馬の声に、部屋の奥にいた達也も何事かと玄関まで慌てて出て来た。
「いやさ~、急にうちのかかあが来て光莉と一緒に遊びに出かけたから、俺暇になっちゃってさ。せっかく時間できたから、暇なやつ誘ってびすとろ行こうかなって」
「びすとろ下町店ですか?」
店の名前を聞いた途端、宗馬の顔がぱっと輝いた。
「そうそう。下地、あそこのハンバーグ好きって言ってたもんな」
チェーン店では味わうことのできない、甘くて深みのあるソースのかかった肉汁たっぷりのびすとろ下町店のハンバーグ。思い出しただけで口の中に唾が溜まってくる。
「行きます行きます! 達也、工場長がびすとろ連れてってくれるって!」
「えっ、俺もいいんですか?」
「当たり前だろ~。せっかくだから左野と右京も連れてってやろうかと思ってさ。下地、あいつら呼んできてくれる?」
「はい!」
若手二人が住んでいるのは奥の角部屋だ。宗馬はすぐに玄関でサンダルを引っ掛けると、工場長の横をすり抜けて廊下に飛び出した。
(ハンバーグもそうだけど、あそこの洋食どれも旨いんだよな。値段が値段だから、俺たち平の社員じゃなかなか行きづらいけど……)
しかし高野は違う。いくら下町の小さな町工場でも、工場長ともなればもらっている年収の桁が変わってくる。それで高野は暇があればこうやって自分の部下たちを食事に連れて行って
若手二人が一緒に住む角部屋の前に立った宗馬はインターホンを押そうとしたが、ガタンッ! と何かが倒れるような物音がしたのでピタッと指を止めた。
(え、なに今の音?)
「いいから脱げって!」
「嫌だ! あっ、そこは……!」
(ええええええええ~!?)
「どうした? あいつらなんかやってんのか?」
高野工場長がのんびりとこちらに向かって歩いて来る。
「あ、や、いやその……」
(何やってんだあいつら? ていうかあの二人ってそういう……ええええええ~?)
不測の事態に宗馬がどうしていいか分からず目を白黒させている中、高野は不思議そうな表情でドアの前に立った。
「押しても出ないのか?」
「いや、その……」
「インターホン壊れてるんじゃないのか? やっぱり俺のやり方が一番なんだって」
「いや高野さん、今はノックはしない方が……」
宗馬が止める間もなく、高野は右手を持ち上げてドアをノックするかと思いきや、いきなりドアノブを掴んでガチャリとドアを引き開けた。
(ぎゃああああ!)
「こいつら不用心だからいつも鍵開けっぱなしだぞ」
(不用心にも程があるだろ!)
「お~い、お前らメシ行こうぜ」
「あっ、工場長、ちょっとこれなんとかして下さいよ!」
(……え?)
宗馬が恐る恐る入り口から顔を覗かせると、左野に馬乗りになった右京が左野のTシャツを引っ張りながら、途方に暮れたような表情で高野を見上げていた。
(え……いや、何で?)
どうして襲ってる側の右京がそんな感じなの?
「何やってんだお前ら?」
「祐樹のTシャツにカメムシ入ってるっぽくて、でもこいつ頑なに脱ぎたがらないんですよ」
「だってこれ、どうやって脱げってんだよ? これ今脱いだら絶対顔の方にベチャッて来るじゃん! あ、ヤバイヤバイ、ちょっと慎二、早くこれ何とかして!」
「だから脱ぐしかないじゃろ!」
(……あ、カメムシがTシャツの前側に入っちゃってたのね……)
脱力する宗馬の前で、高野がつかつかと揉み合っている二人の側へと近づいて行った。
「バンザイで脱げばいいんじゃね? 右京、左野ちょっと押さえといて」
「あっ! そんなことしたらカメムシが顔の方に……ぎゃー!」
悲鳴を上げる左野に構わず、高野は無慈悲に彼のTシャツを剥ぎ取ると、丸めてポイッと玄関の外に放り投げた。宗馬が慌てて飛んでくる布の塊をさっと避けると、哀れな左野のTシャツは玄関から放り出されてクシャッと廊下の地面に落ちた。
「ほら、アホなことやってないでさっさと行くぞ」
「工場長~、シャワー浴びてから行ってもいいですか?」
「そんな誰も気にしないって」
「せっかくのメシがカメムシの香りとか絶対嫌じゃないですか」
まだ左野に馬乗りになっていた右京は、裸の左野の厚い胸板に鼻を近づけてすんっと匂いを嗅いだ。
「あれだけ揉み合ったのに潰れてなかったみたいだぞ」
左野は右京の頭をバシッと叩くと、何も言わずに洗面所へと駆け込んだ。
「全く、工場長を待たしてるんじゃないぞ~」
高野の不満げな呟きと、浴室から聞こえるジャーッというシャワー音を聞きながら、宗馬は左野のTシャツを恐る恐るつまみ上げた。チラッと見えた緑色の物体に触れないようTシャツの端を掴んで手すりにバサッと叩きつけると、緑色のそれはカランと手すりにぶつかりながら、宗馬の視界を外れて彼の居るべき世界へと戻って行った。
(そういや最近やたらカメムシが多いな。地元じゃ珍しくもなんともなかったけど)
「すんません下地さん、お待たせしました」
「いや、俺じゃなくて工場長に謝れよ」
「すんません、工場長」
「シャワー長すぎだろ。罰として今日はお前の奢りな」
「勘弁して下さいよ。俺破産しますって」
「冗談だって」
笑いながら部屋から出て来た高野に続いて、シャワーの熱で上気した顔の左野と苦笑いを浮かべた右京が続く。
(ああびっくりした。まさかあいつらがそんなわけないよな)
宗馬も右京と同じように苦笑すると、次の瞬間にはもうハンバーグのことで頭を一杯にしながら、自分の部屋に一人ポツンと取り残されている達也を迎えに行ったのだった。