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第15話 翼、契約を取る

「だーから、何でこれできてないんだよ!」


 事務所内に耳障りな中年男性の怒鳴り声が響き渡り、周りにいた人間は思わずビクリと体を震わせた。チラチラと迷惑そうな視線を投げる者、何事もなかったかのように仕事の続きを始める者、我関せずと無関心を装いつつ必死に耳をそば立てている者と、その後の人々の反応は様々だ。しかしそれらのどの反応にも該当しない行動を取っているのが、怒鳴られている張本人の新人営業の新田春樹だ。


「す、すみません。ちょっとよく分からなくて……」

「あぁ? 分からないからって放っといていいのか? 分からないなら聞けばいいだろ?」

「その……どこが分からないのかよく分からなくて」

「はぁ~、お前ほんっと使えないわ」


 わざとらしく大きなため息を目の前で上司である浜辺につかれて、新田はますます震えながら小さく身を縮こませている。


(浜辺さん教え方壊滅的に下手なんだよな。あんな風に怒鳴ったって何も解決しないし、若手も育たないだろ)


 翼は内心ため息をつきながら目の前のパソコン画面に集中した。自分が教えてやりたいのはやまやまだったが、取引先によって必要な資料や交渉方法が異なるため、浜辺の案件の内容を翼が正確に教えてやれる自信がなかった。


(浜辺さんだって自分の取引先さっさと幾つか引き継いでもらった方が楽になるってのに。あれじゃいつまで経っても自分で自分の首を絞めることになるぞ)


 翼はカチカチッとマウスをクリックして必要な書類を何枚か印刷すると、それをカバンにしまっておもむろに立ち上がった。一旦更衣室に入って鶯色の作業着から灰色のスーツに着替えると、オフィス内を振り返って総務に声をかけた。


「社用車の鍵借ります」


 経理の金子がすぐに立ち上がって、いかつい黒くて四角いキーホルダーの付いた車のキーを差し出した。


「寄り道は厳禁ですよ。最近ガソリン代高いんで」

「……はい、もちろんです」

「ちゃんとナビも付いてるんですから、道に迷ったとかも無しにしてくださいよ。こないだ瀬戸さんなんか、高速降り忘れたとかでとんでもない距離分のガソリンと高速代無駄に使ってくれましたからね」

「はぁ……」

「まあ天野さんはあんまりそういうことないのでそこまで心配してませんけど。瀬戸さんはやたらそういうのが多いんですよねぇ。地図読めないタイプの男性なんですかねぇ」

「ハハハハ」


 瀬戸はおそらく地図が読めないのではなく、わざと遠回りしてサボって帰ってきているのだ。サボっているだけならまだマシな方で、もしかしたら関係無い場所に寄り道して帰ってきている可能性もある。金子もそれに薄々気がついていて、こうやって翼に対しても嫌味ったらしく圧力をかけてくるのだ。


(俺に言われてもって言いたいところだけど、金子さんは瀬戸にも同じこと言って、全くあいつに響いてないから腹いせに俺に愚痴ってるだけなんだろうな。それか同期だし、俺もあいつと一括りにされてるのか)


 ネチネチした嫌味と一緒に受け取ったキーは何だか幸先さいさきが悪い気がして、翼は少なからず嫌な気分になった。今から大事な商談だというのに、本当にうちの会社はこういう所をしっかりして欲しい。


(せめて、俺の運命の人の顔でも見てから出かけられたらいいんだけど……)


 カンカンカン、と階段を下りた翼は期待を込めて工場内を覗いてみたが、入り口付近をホウキで掃いている右京が見えただけで、宗馬の姿はどこにも見当たらなかった。おそらく奥の方で機械を使っているか、製品をリフトで運んでいるところなのだろう。


(……仕方ない)


 わざわざ中にまで入っていくのは気が引けたため、翼はそのまま駐車場の方へ回って行った。


(運任せなんてのは運命の人を見つける時くらいで十分だ。仕事の運は自らの手で引き寄せよう)


 生鉄工業株式会社は百年近く歴史のある古い企業で、小さい町工場ながら昔からの顧客を多く抱えており、営業の人間からしてみれば非常に恵まれた会社であった。以前瀬戸が言っていたとおり、無理に新規顧客を開拓しなくとも、現在の取引先との関係を良好に保っていればある程度の利益は確保できるのだ。


(でもそのやり方がいつまで通用するかなんて分からない。実際昔ながらの取引先が店を畳んだりして、注文は現実問題確実に減ってきているんだ)


 それに営業を名乗る以上、やはり新規の顧客を会得してこそその手腕が問われるのではないだろうか?


(俺は自分の実力をここで証明して見せたい)


 父親のネームバリューという支配下から逃れるために、自分はわざわざ大企業から転職してこの小さな会社へやって来たのだから。



 取引先相手の社長はかなりの年配で、翼の話を聞くというよりも自分の話を聞いて欲しいタイプの人間だった。


「昔はこんな便利な機械なんか無くてな、職人たちが勘で製品を仕上げていたんだ」

「そうなんですね」

「その分事故も多くてな、指の無い職人なんかもいたもんだ」


 宗馬が現場で指を痛めている様が一瞬脳裏をよぎり、翼はブルッと身震いした。


「恐ろしい話ですね」

「おお、兄ちゃんはいかにも営業って雰囲気なのに、現場に思い入れのありそうな感じがするね」

「え、そうですか?」


 いつもの完璧な笑顔ではなく、どうやら素の表情が出てしまっていたようだ。


「そうさ。この資料だって詳しくてとても分かりやすい。自社の製品や自社の人間への愛が伝わってくるよ」


(時間をかけて作った甲斐があったな)


「うちは最近ずっと取引していた工場が後継がいないってんで店畳んじまってな、昔ながらのいい会社だったんだが」


 それは翼も知っていた。その情報を入手していたからこそ、必死でここに営業をかけるためにここ数日頑張ってきたのだから。


「おたくの所は他に比べて値段は一番高くも一番安くもない、まあ中間ってとこだな。もちろん安いに越したことはないが、品質を妥協したくはない。若そうな営業だしどうかと思ったんだが、試しに幾つか作ってみてくれないか」


(よしっ!)


 翼は心の中でガッツポーズを決めた。


(そらみろ浜辺! 瀬戸! 部下を怒鳴ったり仕事サボってフラフラしてる暇があったら、黙ってコツコツ努力しろってんだ。最終的に営業として花開くのは、声の大きい人間じゃなくて真面目に努力した人間なんだよ)


 きっとそういう人間にこそ、幸運の女神も微笑むというものなのだろう。翼はスーツのズボンの上から金色のボールのストラップにそっと触れると、心からの完璧な笑顔で取引先の社長に微笑んで見せた。


「こちらこそ、全力で期待に応えさせていただきます!」

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