工場の中は機械音や鉄を削る音、リフトが走り回る音が常に響き渡っていて基本的にうるさい。大声で喋らないと相手の声が全く耳に入らないため、必然的に会話は叫ぶように行われる。若手の左野と右京がしょっちゅう怒鳴り合っているのも元々の気質もあってのことだろうが、環境的な要因が若い彼らの人間性に影響を与えてしまった可能性も否めなかった。
「慎二! 次こっち運んどいて!」
「了解!」
今のは怒鳴っているけど別に怒っているわけではない。
「これ……で、そっちは……だから……」
「山梨さん、声小さすぎて何言ってるか聞こえません!」
これはちょっと怒っている。
「おい左野!」
「はい、工場長!」
「お前ここの材料どうなってんだ? さっき言ったのにまだ直ってないけど」
「すみません、漏れてました」
「漏れてましたじゃないんだよ、漏らしてましたなんだよ! まるで自分は悪くありませんみたいな言い方するんじゃない!」
「すみません!」
「分かったらさっさと直しとけ!」
これは……かなり怒っている。
高野工場長は普段はひょうきんで落ち着いた大人の男性だったが、こと仕事に関してはかなり口うるさく厳しかった。工場の長として、工員の安全を守る立場として、当然のことだと思う。小姑のように目を光らせ、わずかな綻びも見逃すことなくズバズバと指摘して改善していくことが、高野のするべき仕事であり役割なのであった。
宗馬が高野に話しかけようと近づいた時、彼がおもむろに作業着のズボンの後ろポケットに手を突っ込んだ。
「はい、高野です。……はい、はい……は?」
宗馬の見ている前で、高野の表情がみるみるうちに険しくなっていく。
「ちょっとそれは……いや、まあ納期の遅い分と入れ替えればなんとかできますけど……はい、はい、分かりました。今回だけですからね。はい、失礼します」
電話を切った高野はいらただしげにハッと短いため息をついた。
「事務所からですか?」
「ああ、また浜辺だよ。短納期の注文取ってきやがった。あいついっつもこれだよ。本当勘弁して欲しいわ」
一日に作る製品の量を決めて作業の計画を練る、生産計画を立てるのは工場長の高野の仕事だ。作業効率や納期を考慮して作るのだが、このようにイレギュラー案件を差し込まれると途端に計画が狂う。もちろんある程度は柔軟に対応していくが、注文が多くてスケジュールがパンパンの時は調整が難しい場合もあるし、そもそも計画に変更が多いとミスの原因になりかねないため、あまり現場からは歓迎されない。
「あいつそもそも自分の案件ちゃんと管理できてるのか怪しいんだよな」
「浜辺さんですか?」
「ああ、こないだも特急案件だって言うから慌ててスケジュール調整したのに、実は納期来年の間違いだったんだよ。あそこに転がってるあれがそうさ」
高野は出来上がった製品を一時的に置いている倉庫の手前に転がされている鉄の塊を指で指し示した。
「え、あれ来年分だったんですか」
「そうだよ、最悪だよな。さっさと出荷して欲しいけど相手側も在庫なるべく抱えたくないだろうし、しばらくうちに置いとくしかないだろうなぁ」
高野は事務所と工場を繋ぐ階段をチラッと横目で確認した。
「……人には得手不得手があってだな、浜辺は別に悪い営業じゃないんだ。ちゃんと新規案件取ってくるのはあいつぐらいだし。相手をヨイショして懐に入り込むのが上手いんだな。まあ営業らしい営業って言えばそうだ」
確かに、初めて聞く取引先は大抵が浜辺の担当になっている場合が多い。
「だけどあいつは整理整頓だとか、管理する能力だとかが悲惨なくらい欠如してるんだ。人に教えるのも適当だし。新人営業が入ってすぐに辞めちまうのも、まあ八割方あいつが原因じゃないかな」
(マジでか)
宗馬は思わず最近入ったばかりの新田の顔を思い浮かべていた。確かにたまに見かける新田の顔は、いつも自信なさげに下を向いているような印象だ。すでに転職のカウントダウンは始まっているのかもしれない。
「その点他の営業はそこまで尖ってないけど、良くも悪くも無難な仕事をしてる印象だな。もうちょっとガツガツ注文取ってきて欲しいけど」
「天野さんとか瀬戸さんとかは、けっこうバリバリやってるイメージなんですけどね」
「そうだな、あの辺のキラキラ営業に今後は期待するかな。ただああいう要領良さそうなやつらって、バレない程度に上手いことサボってたりするからなぁ」
「あ、確かに浜辺さんよく裏でサボってますよね」
「あれは要領いいとかじゃなくて、なまじ立場が上だから分かってても誰も何も言えないだけだ」
(それは職権乱用と言うのでは?)
宗馬がなんとなくモヤモヤとした気持ちを抱えながら持ち場に戻ろうとした時、不意に後ろからポンポンと肩を叩かれた。
「宗馬」
「うわっ!」
鶯色の作業着に、「安全第一」という文字の印刷された白くてツルツルのヘルメットを被った翼が、ニコニコしながら宗馬の後ろに立っていた。
「なんだよ、俺になんか用?」
「いや、工場長にちょっと聞きたいことがあって下りてきたんだけど、ついでだし宗馬の顔でも見て行こうかと思って」
今はそこまで作業が立て込んでいるわけではなかったため、宗馬は作業場の冷蔵庫から缶コーヒーを一本取ってきた。
「飲む?」
「ありがとう。宗馬の分は?」
「俺はブラックは飲まないからこっち」
そう言って宗馬は作業場の隅にある机に置いてあったカフェオレのペットボトルを取り上げた。
「甘いの本当好きだね」
「肉体労働だからカロリー消費するんじゃね?」
「俺も脳の消費カロリーは負けてないと思うんだけど」
宗馬は思わず作業着の下に隠れている翼の胸をじっと見つめた。
「……え、何?」
「いや、お前そう言えば営業の割には結構いい体してたな、と思って」
翼の部屋で目覚めたあの朝、上半身裸の姿でキッチンから微笑んでいた翼の肩は逞しく、腹筋も綺麗に割れて、まるで大理石の彫刻のように雄々しく美しい輝きを放っているかのように見えた。デスクワークがメインの社会人からはにわかには想像し難い肉体美だ。確かに抱かれたら……ちょっと想像してしまって、宗馬はゴクリと唾を飲み込んだ。
「本当に? 俺着痩せするタイプらしくて、あんまりそんな風に褒められたことってないんだけど」
「ジムとか通ってるの?」
「毎日筋トレしてるだけだよ。普段から肉体労働してる宗馬たちにはとても及ばないだろうけど」
翼は少し照れたように微笑むと、缶コーヒーを手の中で転がしながらようやく本題を口にした。
「あのさ、俺、今回新規の顧客開拓に成功したっぽくてさ」
「えっ?」
ちょうど工場長と話していたばかりのタイムリーな話題に、宗馬は驚いて無意識にカフェオレのペットボトルをバキッと指で凹ませていた。
「そりゃすごい。おめでとう……ってか、ありがとう。仕事取ってきてくれて」
「まあ最初は様子見もあるだろうし、ここで気に入られて継続的に注文をもらえるようになって初めて成功って言えるんだろうけど」
冷静な分析とは裏腹に頬が緩むのを抑えられない様子の翼に、宗馬もつられて思わず笑顔になっていた。
「良かったな。とりあえず努力が認められて」
「それでさ、今週末空いてる?」
「今週末……は、特に何もないけど」
「俺はもうちょっと資料で詰めたい部分があるから忙しいんだけど、どうしても一緒に過ごしたくて。お昼だけでも一緒に食べに行こうよ」
……え、お昼、ご飯だって?