最初は強気で意気込んでいた宗馬だったが、目的のお店が近づいて来るにつれて少しずつ鼓動が早まり、背中にジワリと冷や汗が染み出すのを感じていた。
(……やばい、ちょっと緊張してきた。本当にこのお店で良かったんだろうか?)
やはり無理に辛い物縛りにしなくても、コースのフレンチだったりとかお祝いや記念日の定番のお店を選んだ方が良かったのではないだろうか。
「……宗馬、大丈夫? 緊張してるの?」
「べ、別に」
「でもなんか汗かいてるように見えるけど」
「今日ちょっと暑いからだろ」
(大丈夫。俺が選んだ店は星を幾つか取ってる感じの有名店だ。料理自体に華やかさは足りないかもしれないけど、味は色んなブロガーたちが保証しているし間違いないはずだ)
正午より少し早めに来たつもりだったが、目的の店の前に着いた時には既に順番待ちの列ができていた。
「あ、この店って……」
赤い看板を目にした瞬間、翼の目がぱっと輝いた。
「激辛つけ麺のお店だ!」
「知ってるのか?」
「うん、激辛好きの人たちがよくネットに上げてて、一度来てみたいと思ってたんだ。でも宗馬大丈夫なの?」
もちろん、勝算があったからこそこの店を選んだのだ。宗馬は自信たっぷりな表情で頷いて見せた。
「つけ麺って実は俺たちの地元のご当地グルメなんだ。俺も学生のころ学校の近くの店によく通ってた」
「ご当地グルメだったんだ。それは知らなかった」
「地元民でも実は知らない人多いんじゃないかな」
長く居座って会話を楽しむカフェとは違って、回転率の高い店は長蛇の列のわりにすぐに順番が回ってきた。宗馬は翼と一緒に赤いのれんをくぐると、空いているカウンター席に腰を下ろした。
「なるほどね、辛さのレベルが好きなように選べるんだ」
感心したようにお品書きを眺めている翼の横で、宗馬は再びうんうんと頷いていた。お品書きと言ってもメニューはつけ麺一択で、トッピングと辛さを選べば完了である。
(この店の売りは辛さレベルをゼロから百倍まで選べる所だ。百ってもはやつけ麺のつけ汁と言えるのかよく分からない代物だが、まあ物好きな連中がネタ作りで注文するぐらいで、まともな舌の人間なら十倍くらい、辛い物好きで二十倍、ちょっとぶっ飛んでるやつで五十倍くらいが普通らしい)
「これなら辛い物苦手な宗馬でも、ゼロ倍なら余裕で食べられそうだね」
「いや、ゼロは流石にちょっと物足りないかな。ゼロだと唐辛子が全く入っていないことになるから、まあせめて一倍は……」
その時、隣の席でププッと吹き出すような声が聞こえて、宗馬は思わず声のした方へ視線を向けた。宗馬の隣のカウンター席に座っている学生と思しきいがぐり頭の男の子が、宗馬の方を横目で見ながら馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
(……えっ、今この子、俺のことを笑ってた?)
「一倍なんてゼロと大して変わらないよ。それなのに偉そうな言い方しちゃって、つけ麺のこと舐めてんの?」
「……え、もしかして俺に話しかけてる?」
「そうだよ。この店で一倍なんて甘っちょろい辛さのつけ麺頼もうとしてるのなんてお兄さんだけだよ」
なんだその言い方。なんでたかがつけ麺の汁の辛さぐらいのことでそこまで言われなければならないのか。
「……じゃあそういう君は何倍を頼むんだい?」
「俺はいつもは十倍を頼んでるけど、まあこれが一番ストレス無く食べられる辛さってだけで、別にそれ以上がムリってわけじゃない。今日は少し暑いしピリッとした刺激が欲しい気分だから、十五倍くらいいっとこうかな」
十五倍! ていうか普段より五倍も上げてるけど大丈夫なのか? そもそもこの単位って一上がるごとにどれくらい辛さレベルが上がるものなのだろうか。例えば地震は震度が一上がっただけで、エネルギーは約三十二倍も跳ね上がるのだが、このつけ麺屋の辛さレベルの一メモリを果たしてこの少年のように侮っても大丈夫なものなのだろうか?
「……まあ俺も地元じゃいつも三倍くらいは食べてたし? 地元の方が本場ってのもあるから、おそらくだけど辛さレベルも向こうの方が高いと思うんだよね。地元の三倍がこっちの十倍くらいの辛さになるんじゃないかな」
「え、宗馬?」
隣で翼が困惑したような表情でこちらを見ている。
「へえ、じゃあお兄さん今日はどうするの? いつも通りの味を求めて十倍くらいにしとくの?」
「いや、今日は暑いし俺も十五倍くらいにしとくわ」
「そっか~じゃあ辛い物が苦手って言うお兄さんが十五倍なら、俺は二十倍にしとくかな」
「いやいやまだ社会にも出ていない学生さんのお子ちゃまが二十倍にするなら、大人で社会人の俺は二十五倍で」
「おっ、そこの人二十五倍挑戦するのかい? うちの店、三十倍を食べ切ってくれたお客さんは写真を撮って壁に飾らせてもらってるよ。あと最初の一回だけ、次回つけ麺一杯無料券も進呈してるんだけど」
店長のその言葉に、額を突き合わせていがみ合っていた宗馬と学生は同時にパッとカウンターを振り返った。
「三十倍で!」
◇
「……二人とも、そんな無理する必要なんて無かったのに」
呆れたようにそう呟く翼に半ば抱えられるように店を出た宗馬の元へ、何とか一人で立ってはいるものの明らかに気分の悪そうな様子のいがぐり頭の学生がフラフラと近づいてきた。
「……お兄さんよ、今日はいい勝負だったな」
いい勝負も何も、宗馬は目から火を吹きながら半分食べるのがやっとでギブアップし、学生も三分の二ほど食べた所で気分が悪くなって棄権することとなった。結局二人の後始末をしたのは、自分が頼んだ八十倍の激辛つけ麺をいとも容易く平らげて笑顔で写真に写った翼であった。
「……また会うことがあれば、次こそは必ず決着をつけようぜ」
「いや、もう二度と会わないと思うけど」
「いやいや、初めて来たお店で隣に座っていきなり激辛勝負になるなんて展開、普通ありえないでしょ。きっとお兄さんとは何かの縁があるんだと思うね」
そう言うと、少年は「さようなら~」と手を振って去って行った。
「……宗馬、大丈夫?」
「うん……あ、もうちょっとお水頂戴」
翼は宗馬を近くにある公園のベンチに座らせると、ペットボトルの水を手渡した。
「そんな子供相手にムキにならなくて良かったのに」
宗馬はゴクゴクと勢いよく水を飲むと、ペットボトルからぷはっと口を離した。
「ゼロと一は全然違うよ」
「えっ?」
「あのガキのつけ麺の話と、翼の契約の話は全然関係ないんだけどさ、それでもつい勝負したくなっちゃって」
宗馬は苦笑しながら、ベンチに並んで座っている翼の秀麗な顔を見上げた。
「それに翼の好きなもの、ちょっと食べてみたかったんだ。あいつのおかげで勢いがついたっていうか、一人じゃとてもあんな辛いの頼む勇気出なかった。結局食べきれなくてお前に迷惑かけ……」
ふわっと口に柔らかい感触が重なって、宗馬ははっと目を見開いた。そのまま軽く口内を舌で撫でた後、翼はすぐに口を離した。浅過ぎることも深過ぎることもない、絶妙な深さの口付けだった。
「……それでどうだった? 食べてみた感想は」
宗馬の顔に熱が上がり、舌で触れられた口内の粘膜がだんだん痺れを帯びてきた。
「……辛っ!!!」