ファーストキスは特別とか言われるけど、実際その味を覚えている人間が一体どれくらいいるのだろうか?
「えっ、ファーストキスの味?」
ガガガガガガ! と凄まじい機械音が鳴り響く工場内で、宗馬は声を張り上げなくてもお互いの声が聞こえるように達也とピッタリくっついて会話を試みていた。これなら恥ずかしい話題を他の連中に聞かれる心配はないはずだ。
「そう言われてみるとあんまり覚えてないかもなぁ」
「さすがにいつ誰としたかぐらいは覚えてる?」
「それは覚えてるよ。高校の時初めて付き合った人だけど、あぁでもいつだったかは確かに思い出せない。確か夏だったような、いやクリスマスだったかな?」
季節真逆なんですけど。うろ覚えにもほどがあるな。
「ああダメだ、どうやってキスの流れになったのかも全く覚えてない。ファーストキスって人生の一大イベントのはずなのに、過ぎ去ってみると意外とこんなもんなんだね」
達也は自嘲気味に小さく笑った。
「味は覚えてる?」
「ここまで聞いといてまだ俺に何か有益な情報を期待できると思ってる?」
「確かにそうだな」
「てか味なんてよっぽど特徴的でないと記憶に残らないでしょ。甘いものが好きでよく飴を舐めてたとか、エチケットちゃんとしててキシリトール風味だとか。ああ、タバコなんてすごい印象強いかも」
達也には分かるまい。世の中にはもっと強烈なキスの味があるということを。
(翼とのあれは別に特別なファーストキスでも何でもないのに、多分一生俺の記憶に強烈に残ることになるんだろうな……)
宗馬も既にファーストキスは経験済みだったが、達也と同じように当時のことはほとんど覚えていなかった。あまりにも強烈な痺れるキスの記憶のせいで、ファーストキスどころか今までのキスの記憶は全て上書き保存されてしまったようだ。宗馬は別に雰囲気重視のロマンチストでも何でもなかったが、ここまでムードもクソもないキスには流石にドン引きだった。
(これが相性最強? で趣味が真逆の俺たちが起こせる奇跡の化学反応なんだろうか……)
「えっ、山梨さんファーストキスのこと全く覚えてないんですか?」
突然背後から声をかけられて、宗馬と達也はギョッとして思わず座っていた鉄材の上で飛び上がった。うるさい機械音のせいで、背後に左野が忍び寄って来ていたことに二人とも全く気が付かなかったようだ。
「お前いつからそこにいたんだよ? ていうかこの騒音の中でよく俺たちの会話が聞こえたな。耳良すぎじゃね?」
「耳が若いからじゃないすか?」
そんなことある?
「ちょうど良かった。祐樹はファーストキスのこと覚えてる?」
(いやちょうど良くない。あんまりこの話題を他の人間に広めたくないんだけど……)
宗馬の願いも虚しく、左野は興味津々な様子でひらりと鉄材を飛び越えると、達也の横にスタッと腰を下ろした。
「俺はまだなんですけど、当然ファーストキスのことは一生覚えていたいと思ってるんで!」
「えっ、まだなんだ。それは意外」
宗馬も達也に同感だった。背も高いしイケメンの左野は、学生時代彼女が常に絶えなかったと言われる方がむしろしっくりとくる。
「こう見えて俺、結構硬派なんです」
「なんか問題抱えてるとかじゃないよね? 性癖がえぐいとか、理想が異常に高いとか」
「ちょっとどういうことですか? なんでファーストキスがまだってだけでそこまで言われなきゃならないんすか?」
「まあまあ、褒められてると思って。それくらい左野が未経験なのが意外って話だから」
「あざます!」
単純な性格の左野は心から嬉しそうに笑うと、しみじみと余計な一言を付け加えた。
「俺は初めてを忘れ去るような、そんな擦れた大人には絶対にならないんで!」
「お前なぁ、童貞のくせに理想語ってんじゃねぇぞ!」
正確には自身も童貞の宗馬にヘッドロックをかけられた左野が「ギブ! ギブ!」と叫んでいる所へ、厳しい表情の高野工場長が突然ぬっと現れた。
「お前ら仕事中に何やってんだ?」
「げっ! 工場長、すみません」
宗馬が慌てて左野を離すと、左野は大袈裟にゲホゲホと咳き込みながら目に軽く涙を浮かべて高野の前に立った。
「だって工場長、材料入ってくるって言ってたのに全然来ないじゃないですか。俺たちにどうしろって言うんですか?」
「それが上のミスで、注文書が発行されてなかったみたいでな。明日には特急で入れてもらえるそうなんだが」
「マジすか。最悪じゃないですか」
「生産予定は大丈夫ですかね?」
宗馬の質問に高野はため息をついてから首を振った。
「今日の作業ができない分、かなりタイトになるな。多少納期の融通がきく取引先の分を後に回すしかないが……」
取引先によっては実際に製品が必要な日にちより、納期を早めに設定して注文を出してくる場合があった。付き合いの長い取引先ならその辺をお互い了承し合っているため、ある程度の納期の融通がきく場合があるのだ。
「ただな……」
高野が珍しく深刻な表情をしていたため、宗馬たちは思わず顔を見合わせた。
「ちょっと今回は面倒なことになりそうなんだよなぁ」
◇
「この取引先の注文入った時は材料の注文書を発行しなきゃならないの、お前分かってる?」
「す、すみません……」
「すみませんじゃなくてさ、分かってるかって聞いてんだけど!」
「すみません……」
新人の新田を怒鳴りつける浜辺の怒号のせいで、事務所内の雰囲気が一気に澱んで悪くなっていく。助け船を出してやりたいのはやまやまだったが、それどころではない問題が今の翼には火の粉のように降りかかっていた。
(これはまずいぞ……)
注文書の件は新田が忘れていたのかもしれないが、浜辺がちゃんと教えていなかった可能性も十分あった。自分が悪いのにそれを気づいているのかいないのか、都合が悪い時は真っ先に自分より立場の弱い人間を糾弾して責任を逃れようとするのが、浜辺の悪い癖であった。
しかし新田には悪いのだが、今の翼にとって責任の所在などどうでもいい事案であった。問題なのは、浜辺が自分の案件を無理矢理捩じ込んで、その結果翼の新規案件を後回しにしようとしていることであった。
(俺が新規で会得した取引先とは長い付き合いがないから、どれくらい納期を融通してもらえるものなのか正直さっぱり分からない。信頼関係を今から築いていかないといけない段階でいきなり納期遅れはまずいぞ)
しかし、この事務所内で最も古参の浜辺の発言力は絶大だ。多少横暴で理屈の通らないことでも、それを大声で主張されてしまうと誰も逆らうことができない。上の人間がこれだと、うまくいっている時はなんとか騙し騙しやれても、このように不測の事態が起こった時に泣きを見るのが下の人間なのだ。
「浜辺さん。そっちが特急なのは分かるんですけど、俺のも今回新しく入った注文でして、できれば予定通り進めて欲しいんですけど……」
「はぁ? そんなの今後も注文もらえるか分からないのに、優先する必要なんかないだろ?」
(今後も注文もらうために予定通り進めて欲しいんだけど)
実際浜辺の取引先でも、後に回して間に合うものはたくさんあるはずなのだが、それを管理するのが面倒なのか、浜辺の案件は大体が特急扱いなのだ。
(仕方ない。直接工場長に今の状況を確認に行ってみるか)
翼はため息をつくと、ヘルメットを掴んで事務所から工場へと続く階段を足早に下りていった。