ボルダリングジム内のトイレで自身を慰めながら、翼は先ほどの自分の失態を思い起こして、泣いていいのか笑っていいのか分からないような気分に苛まれていた。
(あれはちょっとまずかったかな……)
最近の自分はがっつき過ぎているというか、歯止めが効かないというか、自分でもちょっとどうかしていると思う。
(宗馬は外で触れ合うのは嫌いだと言っていた。これ以上調子に乗ってたらマジで嫌われるかもしれない)
とはいえさっきのは不可抗力だろう、と言い訳している自分もいる。あんな体勢を目の前で見せられたら……
(ああ~、健全にスポーツに取り組んでいる全国のみなさん、本当にごめんなさい。決して他の人をこんな邪悪な目で見ているわけではありませんので)
今度はどこかの誰かに心の中で謝りながらも、先ほどの宗馬の体勢とあの夜の絶景を脳内で再生して、翼は無事に処理を終えた。
「はぁ~……」
元々宗馬は翼の好みどストライクだった。背が高くて筋肉質、多少荒っぽい所はあっても目元は涼しげでどことなく品があり、この世の酸いも甘いも理解している大人のような雰囲気を醸し出しながら、その実瞳の奥には子供のような純粋さを残している。
とはいえ翼は、自分はきっと女性と結婚することになるだろうと思っていたし、宗馬も当然彼女がいるものだとばかり思っていた。それで宗馬のことは、自分とは一生プライベートで関わることのない芸能人くらいの感覚で眺めていたのだった。
(それがまさか、相性最強の運命の人だと他人からお墨付きを貰うほどの関係だったなんて!)
しかも一番の懸念点であった宗馬の恋愛対象問題も解決したのだ。男の自分なら最初の難関を既に突破している。体の相性もバッチリで、翼からすればこれ以上何の問題も無いように思えた。
(趣味が合うか合わないかなんて、そんなに気にするようなことかな? 俺は別に一生ホラー映画なんか観れなくたっていいんだけど。ていうか一生観れないなんてことないし。一緒に観れないってだけで)
しかし人間関係において、恋人との関係において、そして最終形態の家族関係において重視するポイントというのは人それぞれ異なるものだ。そこを間違えると一緒にいることが極めて困難になる。宗馬には宗馬の譲れないポイントというものがあるはずなのだ。
(そのポイントってのが致命的に解決不可能な部分で無いことを願うばかりだな。シラフじゃ生理的に俺のことが無理とか言われたらお終いだ)
ここ最近の触れ合いで確認した感じ、そこの部分は一応大丈夫そうではあったが。
(ああぁ、付き合わなくていいからなんて最初に言わなければ良かった。でもあの時はああでも言わないと、趣味が合わなすぎる俺のこと完全にシャットアウトされてしまうような気がしたから。でもじゃあどのタイミングで付き合おうって言えばいいんだろう?)
翼が譲れないポイントの一つが、自分の物を他人に絶対に触られたくないという点であった。自分でもちょっと異常だと思うのだが、ペンや消しゴムなどの細かいものでもついピクッと反応してしまう。それが替えの利かない人間なら尚更だ。
(でも彼氏でもない俺が、宗馬に近付く人間を牽制する権利なんてないし)
彼は本当は俺の運命の人、俺の人なのに。
(いやいやそもそも束縛系彼氏は嫌われるぞ。それに近くにいる人間の大半がヘテロなんだ。ヘテロ……のはずだ)
なんだか大人の余裕のある工場長に、腹に一物ありそうな瀬戸、最近やたら懐いている様子の新田など、全員が全員翼にとっては鬱陶しいハエのような存在だった。
本当は俺のモノだと表立って主張して、俺のモノに触れるんじゃないと、近付いて来るハエは全て追っ払ってしまいたい。いや、むしろハエ叩きで叩き潰してしまいたいくらいだ。
(そういう所がネジ飛んでるのかな……)
もっと彼のことをよく知らなければ。何が良くて何がダメなのか、譲れないポイントはどこにあるのか。
(それまではまぁ、バレない程度の力でハエどもを追っ払うしかないか……)
翼はため息をつくと、うるさいハエを追っ払うような仕草で首を振ってから個室の扉を開けて外へと出て行った。
◇
まさに晴天の霹靂とはこのことである。
「海田さんが? 一体どうして?」
「俺と海田さん、あの日は一緒にゴルフ用品を買いに出掛けててさ。その時お昼どうしますかって話してた時に教えてくれたんだよ」
(いや、どうして海田さんが知ってたのかって話なんだけど……)
「海田さんはそのまま帰っちゃったけど、俺は気になったから行ってみたってわけ」
「ストーカーですか?」
「違うよ、つけ麺が気になったんだって」
「さっき俺たちに会えるんじゃないかって行ってみたって言ってたじゃないですか」
「あれ、そうだっけ?」
(実際それで俺らの弱みを握ったわけだし)
「いいじゃん、俺も同じ会社なんだし、ハブにしないでよ~」
だったらあの動画を消して欲しい、と言いたかったが、他のメンバーの前なのでそれはぐっと堪えた。
「なんの話してるの?」
そうこうしているうちにようやく翼が戻って来たため、座っていたメンバーが次々と立ち上がった。
「なんでもない。秘密のハ、ナ、シ」
「は?」
茶化すような瀬戸の言い方に翼の眉が吊り上がったため、宗馬が慌てて割って入った。
「つけ麺屋の話をしてただけだって!」
「ああ、こないだ一緒に行った所?」
「下地さん、天野さんとつけ麺食べに行ったんですか?」
右京にそう聞かれ、宗馬はギクリとして彼を振り返った。
「あ、うん、まあそんな感じ……」
「営業の方と仲良かったんですね」
別に翼と食事に行くこと自体は悪いことではないのだが、動画を撮られた件もあるのであの日のことはあまり色んな人に知られたくないのが正直なところだった。
「しょ、食事に行くくらい普通だろ?」
「それだけじゃないよ~。この二人、同じケータイストラップお揃いで付けてたりするんだよ~」
「ちょっ!」
今日の瀬戸は本当に厄介だ。一体何が目的なのだろう?
「あれはたまたまストラップが被っただけで……」
「そう? まあよくあることだよね。実は俺も同じの持ってて被っちゃってさ~」
「は?」
今度は明らかに翼の目の色が険しく変化した。
(ちょっと! いつものキラキラ笑顔はどこ行った?)
「なんでお前も同じの持ってるんだよ?」
「だからたまたま被っちゃったんだって。有名な映画のグッズなんだから仕方ないでしょ?」
「ワザと被らせたんだろう?」
「なんでそんなこと言われなきゃならないんだよ。自分たちだってたまたま被ったくせに」
「あのぉ、そろそろ移動したいんですけど、良いですか?」
右京の言葉に翼ははっと口をつぐみ、瀬戸はニヤニヤしながら宗馬に向かってウィンクした。
「それじゃ、また後でゆっくり話そうね、宗馬」
「いや、もう……」
「あ、あのっ!」
突然本日の主役である新田が割って入って来て、宗馬は思わず目を丸くした。
「え、何?」
「ぼ、僕も、実はつけ麺好きなんです!」
話戻しやがったこいつ! しかも翼がなんだかジトッとした視線でこちらを見てくるんだが……
(これ、焼肉屋に行っても続くんだろうか……)