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第31話 宗馬、あの日の記憶が蘇る

 前述の通り、高野の頼み事を断るなどという選択肢は宗馬の中には無い。


「ちょっと狭いかもしれないけど、男同士だし別に問題無いよな?」

「だ、大丈夫ですよ!」


 もちろん男同士なので問題ありますなどと言えるわけがない。

 シャワーを借りた後、高野が「おやすみ~」と自分の部屋へ行ったのを確認してから、宗馬は和室の襖を音を立てないようにそーっと開いた。


(ま、まあ、酔い潰れてぐっすり寝こけてたんだ。そう簡単に起きたりはしないだろう)


 豆電球のオレンジ色の明かりの下、百八十センチの巨大ないも虫のような格好で死んだように布団に包まっている翼は、宗馬が襖を開けても全く動く気配が無い。開けた時と同じように静かに襖を閉めてから、宗馬は恐る恐る寝ている翼の顔を覗き込んだ。


(あ、なんかちょっと寝苦しそうだな)


 ボルダリングジムでは動きやすいスポーツTシャツとジャージを身につけていた翼だったが、当然店を出る前には街歩き用の私服に着替えていた。確かベージュのチノパンに、シンプルなブルーのカッターシャツを着ていたはずだ。宗馬はそうっと翼の被っている布団を捲ると、カッターシャツの首元のボタンをいくつか外して緩めてやった。


(俺は今日は畳の上で寝るか。流石に細マッチョの男二人で一つの布団は狭すぎるだろ。よっぽどくっつかないとはみ出すし、それじゃ暑くて寝られな……)


 突然ガッと手首を掴まれ、宗馬はぎょっとして危うく叫び声を上げそうになった。


(ぎゃ~!!!)


 そのままもう片方の腕でガシッと首をホールドされて、今し方ボタンを外して開け放たれたばかりの翼の胸に顔面を押し付けられるような形で、宗馬は翼の上にばったりと倒れ込んだ。


「ちょっと! お前起きて……」

「く~……」


 宗馬の耳元で、翼が子供のような寝息を立てた。こんなにがっちり人のことを掴んでいるにも関わらず、当の本人は夢の世界にいるようである。


(嘘だろ、こんなことってある?)


 しっとりと汗ばんだ厚い胸から、制汗剤に混じった翼の男の匂いがする。彼の匂いが鼻腔に入り込んだ瞬間、まるで施錠されていた扉の鍵がカチッと開いたかのように、突然宗馬の頭の中に強烈な記憶が蘇ってきた。


(あっ!)


 この胸と同じ匂いのするベッドに寝かされて、離れようとする翼の胸ぐらをぐいっと掴んで自分の方に引き寄せる。驚いたような翼の目の中に欲情の炎が閃き、そのまま熱い口付けを交わす。ズボンも下着も自分で脱いで乱暴にベッドの下に放り投げたが、カッターシャツだけは翼がキスをしながらボタンを外して脱がせてくれた。

 そしてそれから……


(うわああああああああ!!!)


 翼の胸に押し付けられた顔から沸騰した汗がドバッと吹き出す。あまりの熱さに翼が飛び起きないのが不思議なくらいだ。


(完っっっっ全に俺の方から誘ってんじゃん!)


 タチが悪いなんて生優しいもんじゃない。あの日の自分は最低最悪の酔っ払いだったのだ。


(『俺は天野さんとの相性はあまり良いとは思えません』とか偉そうに言ったくせに、なんで自分の方から積極的に誘っちゃってんの俺? そりゃあ翼も混乱するわ!)


 さらに不可抗力な反応がじわじわと宗馬の下半身に起きつつあった。


(さ、最悪だ! ぐっすり寝てるこいつの横でこんな……)


 しかし、あの日の記憶と匂いが繋がってしまった今、宗馬にはどうすることもできなかった。『すごく良さそうだったのに』と言った翼の言葉が耳に蘇る。彼は全くもって明らかな真実を自分に教えてくれていたのだ。

 宗馬は翼にホールドされて自由の利かない火照った顔を必死に動かして、なんとか寝ている翼の顔を見上げた。白い肌にすっと高い鼻、悩ましげに閉じられている瞼の端の曲線も美しく、見れば見るほど完璧な造形を作り出している。


(男でも女でも絶対夢中になるような外見なのに、俺なんかにいつまでも縛られていていいんだろうか?)


 七十万の件がなければ、翼だっていつまでも自分に固執することは無いはずなのだ。


(……俺は一体どうしたら良いんだろう?)


 翼の事は嫌いじゃない。趣味は全然合わないけど、映画の時のように上手な打開策を考えてくれたり、仕事だって思っていたよりずっと真摯に取り組んでいる。笑顔は相変わらず胡散臭い時もあるが、ここ最近は様々な表情が見られるようになった。そして今ハッキリと思い出したこと……体の相性がメチャクチャ良い! 正直今すぐにでも抱いて欲しい。


(でも今の俺の価値って、言ってしまえば体だけなんだよなぁ)


 翼に提供できるのは相性のいい体だけ。後は驚くほど何も無い。ソファで休日にくつろぎながら好きな映画を一緒に観ることもできないし、彼の好物を一緒に分け合って食べることもできない。どこに行って何をしても、常にどちらかが我慢して気を使って、心から楽しむことはできないのだ。


(大金を払って手に入れた相性最強の運命の人っていう肩書きが、俺には重すぎるんだ)


 体だけのセフレとは違う。一生を一緒に過ごすパートナーを彼は求めているのだ。この程度の相手なのかとがっかりされるのが怖い。こんな相手に大金を払ってしまったと後悔してほしくない。

 だから一歩が踏み出せない。だから、翼が正気に戻って、自分の意志で離れて行ってくれるのを、現状を維持したまま待っている。今ならまだ間に合う。


(……ちょっと寂しい気もするけど)


 翼のはだけた胸に頬をくっつけたまま、宗馬はぎゅっと目をつぶった。翼はぐっすり眠っていて、この布団は工場長の家のものだ。この状況で宗馬にできることは、体の疼きを堪えて大人しく寝ることだけだった。


(こんな状況で眠れるか! って感じだけど……)


 それでも昼間のボルダリングの疲れも手伝って、いつのまにか宗馬は翼の胸の上でぐっすりと眠り込んでいた。



ーーこないだ旅行先で一緒に買ったストラップ、どうして使わないの?


『だってお揃いとか無いわ。恥ずかしいし』


 ーーペアリング、一緒に付けてくれないの?


『いちいち付けるの邪魔だし面倒くさい。縛られてる感じがして嫌だし』


 ーーでも、俺のこと好きって言ったよね?


『なんか思ってたのと違ったかも』



「はっ!」


 夢の中で段差から落ちた時のように、宗馬はビクッと体を震わせて意識を取り戻した。


(あ、俺、いつのまにか眠ってたのか……)


 なんだかひどく夢見が悪かったような気がする。


「う~ん……」


 翼が宗馬をホールドしたまま身じろぎしたため、宗馬は慌てて翼の胸をバシバシと叩いた。


「翼、起きろって!」

「え、何……?」

「ちょっとこの腕退けて!」


 そこでようやく翼は自分の腕に宗馬を抱いていることに気がついて、慌てて宗馬の首からバッと手を離した。


「えっ、ごめん! ……あれ、俺なんでこんな所に?」

「あ、実はここ工場長の家で……」

「ええっ? なんで工場長の家に?」

「それは昨日お前が……」


 宗馬が事の経緯を説明しようとした、その時だった。


「おはようございます!」


 若々しく元気な声と共に勢いよく襖がスパーンと両開きに開かれて、満面の笑みを浮かべた新田が開け放たれた襖の向こうに姿を現した。


「今朝は雲一つ無い良い天気ですよ。お二人ともいい加減起き……」


 胸元のはだけた大人の色気漂う翼の上に、目の縁を赤く染めたセクシーな宗馬がしなだれかかるように覆い被さり、驚いた表情で新田を振り返って凝視している。


(しまっ……!)


「きゃああああああ!!!」

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