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第35話 宗馬、欲しかったものをもらう

(確かに、子供連れだとはぐれないように常に気を張って見張っとかないといけないから、ゆっくり水槽を見る余裕なんか無かったな)


 宗馬は改めて、小さな子供を何人も連れて歩いている母親たちに尊敬の念を抱いていた。


(大人の男三人がかりで小学校高学年の女の子を遊びに連れて出るだけでこのザマだもんな)


「まぁそもそも今日は俺たちが楽しむために来たわけじゃないから」

「それはそうだけど、でもせっかく同じ時間を過ごすなら楽しんだ方が良くない?」


 水槽から分厚いガラスを通して差し込む光が、青くて暗い影を翼の顔に落としている。薄暗い館内で眺める翼の顔はゾッとするような凄みのある美しさを秘めていて、空飛ぶ海洋生物と同じくらい現実味が無いように感じられた。


「……綺麗だ」

「えっ?」


 思わず言葉が口から漏れていたことに気が付いて、宗馬は慌てて言い直した。


「魚が!」

「本当だね。宗馬はどの魚が好き?」

「クラゲ」

「クラゲ?」


 翼は大型魚がギュンギュン泳ぎ回る水槽をみてぶっと吹き出した。


「クラゲコーナーもう一度見に行く? さっきはゆっくり鑑賞できなかったでしょ?」

「や、でも光莉ちゃんたちが戻って来たら……」

「アシカショーしばらくかかるし、スマホだってあるんだから問題無いよ」


 そう言うと、翼はベンチから立ち上がって宗馬の手を引っ張った。


「ちょっと!」

「暗いし誰も気付かないって」


 そう言って笑いながら、翼は光莉と春樹が向かったのとは反対方向の廊下へ宗馬を誘った。



 透明な体がジュエリーの様に美しく神秘的なクラゲの展示には、最近ではどこの水族館も相当な熱と力を入れて工夫を凝らしているようだというのが宗馬の見解である。


(映えるもんな、クラゲ)


 この水族館では特に、わざわざクラゲを展示するためだけに相当広いスペースを使用していた。クラゲコーナーというよりクラゲエリアである。壁にはめこまれた大型水槽はもちろん、おしゃれな形をした小型の水槽が至る所に置かれ、大小様々な大きさや形のクラゲたちが青や緑や紫の光を浴びて、ふわふわと宙を舞うように水槽内を浮遊している。


「綺麗だ」


 翼が宗馬を見ながらにっこりと笑ってそう言った。


「最近どこの水族館もクラゲに力入れてるよな」

「そうなの?」

「SNS映えするから……って、知らないのか?」

「俺、あんまりクラゲって好きじゃなくて」


 宗馬は驚いて翼を振り返った。


「クラゲってそもそも好きとか嫌いとかの土俵に立つ生き物なのか? 見た目が苦手とか?」

「俺、昔クラゲに刺されたことがあって」

「ええっ? そんなことある?」

「宗馬、あんまり海は行かないんだっけ? 山の方が好きって言ってたもんね」


 また好きなものが合わなかった。とても些細でどうでもいいような違いだが、一つでも多く翼との共通点を見つけたいと思っている宗馬にとってはチクリと刺さる現実だった。


「……翼は何が見たかったんだ?」

「え? 何の話?」

「いやだって、クラゲはあんまり好きじゃないって……」

「ああ、そういうこと」


 翼は苦笑しながら、虹色の光に照らされた幻想的なクラゲの群れを見上げた。


「クラゲが見たかったよ」

「いや、だから……」

「宗馬が見たいものを一緒に見たい。それじゃあダメなの?」


 ダメというか、よく分からない。今まで翼ほど趣味の合わない相手はいなかったから、相手に合わせるのが当たり前になっていた。ちっぽけで些細なことでも、相手に喜んでもらえることが宗馬にとっての喜びであり、また存在意義でもあったから。


「それに俺、そもそも特に見たい魚なんて無かったし。好きな魚ならいるけど」

「どの魚?」

「サンマ」

「それは……美味しいから?」

「そう!」


 虹色の光に照らされた翼の笑顔は暗がりで分かりづらかったが、いつもの完璧な作り物ではなく子供のように無邪気な笑顔のように宗馬の目には映った。


「俺はさ、きっと宗馬が思ってるような人間じゃないよ」

「え?」

「あっ、こっちにお土産コーナーがある!」


 美しく幻想的なクラゲに魅せられた来場客が、そのままの勢いで思わず手を伸ばしてしまうよう絶妙に計画された位置に、お土産のクラゲグッズがズラリとディスプレイされている。


「すみません、これ下さい」

「ちょっと!」


 早速このコーナーを作った人間の術中にはまってお金を落とそうとしている翼を宗馬は慌てて止めようとしたが、翼はアプリでさっと会計を済ませ、既にビニールの外袋を破って中身を取り出していた。


「はい、これ」

「えっ?」


 可愛らしいクラゲのキャラクターが半分に割れたハートを抱えるデザインのストラップを見て、宗馬の心臓がドクンと跳ねた。


(これは……!)


 全く同じデザインというわけではなかったが、コンセプトは同じだ。半割れのハートをカップルでそれぞれ所持するタイプの、かつて一緒に持つのは恥ずかしいと言われた、苦い記憶のあるストラップ……


「流石にスマホに付けたらストラップだらけになって邪魔だし、会社の連中にもすぐに見つかりそうだから、鍵に付けちゃおうかな。俺は見られたって全然いいんだけど、宗馬は嫌なんでしょ?」


 翼はそう言いながら、キーホルダーのリングにクラゲのストラップの紐を通して、プラプラと宗馬の目の前で振って見せた。


「ほら、宗馬も付けてよ」


(あ……)


 足りなかったパズルのピースがピタリとはまるような、欠落していた何かが心の穴を埋めるような、そんな暖かく満たされるような感情が宗馬の胸の中に溢れてきた。


(これ、俺が欲しかったやつだ……)


 食べ物の趣味も、映画の趣味も合わせてやれないのに、全てをこちらが合わせていた和虎がくれなかったものを、翼は自分にくれるという。


(あ、どうしよう……)


 まともに翼の顔を見られなくて、宗馬は手元のストラップを見下ろすように思わず下を向いていた。銀色のクラゲが赤いラメの入った半割れのハートを抱いて、宗馬に向かって愛らしく笑いかけている。


(俺が……こいつにとって本当に価値のある人間だったら良かったのに)



「……別に送ってくれなくても良かったのに」

「一人で子守は大変でしょ?」

「だからもう子供じゃないって言ってるじゃん」


 宗馬は同じ社員寮に戻る自分だけで光莉を送るつもりだったのだが、結局水族館で別れたのは春樹だけで、翼は最後まで二人について高野の家まで戻って来た。


「お~、今日はありがとうな」


 インターホンを押した後、鍵を開けて皆を出迎えた高野を見て、宗馬と翼はぎょっとして思わず顔を見合わせた。


「え……高野さん、大丈夫ですか?」


 目の下に黒々としたクマがくっきりと浮かび上がり、声もしゃがれて顔色も良くない。明らかに朝別れた時よりも症状が悪化しているように見えた。


「お~、大丈夫……って、言いたいところなんだが、実を言うとあんまり良くない」

「えっ、おじいちゃん大丈夫?」

「夏風邪かな~?」


 ゲホゲホッ! と咳き込む高野を見て、光莉が慌てて祖父の背中をさすった。


「明日無理そうかな?」

「いやいや、大丈夫……ゲホッ!」

「いいよ、無理しないで」


 光莉は気丈にもそう言うと、おもむろに宗馬の服の裾をチョイチョイと引っ張った。


「明日は宗馬に来てもらうから」

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