カーラは黒い空間の中にいた。
以前来たような、朧げな記憶のあるところ。
前も後ろも上も下も、ただただ漆黒の中。何処からどこまでが自分なのか、自分と闇との境界も曖昧な感覚に襲われる。
境界を確かめるために自分の体に触れてみた。
手に触れた身体は硬い機械の身体ではなく、柔らかく暖かい。間違いなく自分がこの世界で生を受けた時の身体だった。
境界を知った瞬間、暗闇の中でスポットライトを浴びたかの様に自分の姿が浮き上がった。
白いワンピース姿には見覚えがあった。あのアルケーの机の上にあった、写真の中のカーラが着ていたワンピースと同じものだ。
カーラは自分の手を見つめた。肌色の、血の通った手。爪があり、指先がわずかに震えている。
「これは……私?」
空間の奥から、微かに水音のようなものが聞こえた。ぽちゃん、ぽちゃんと、一定の間隔で何かが滴るような音。
カーラはその方向に歩き出す。足元は見えないのに、確かに歩いている感覚がある。
やがて、その音の源が見えてきた。
それは鏡だった。闇の中にぽつんと浮かぶ、縁に金の装飾が施された楕円形の古びた姿見。
姿見の上から水が滴り、ぽちゃんと水滴が落ちていた。
鏡の中には――彼女自身の姿があった。だがその背後に、黒い霧がまとわりつくように揺れていた。
「あなたは……誰?」
カーラが問うと、鏡の中の彼女が口を開いた。
「私はあなた……もう一人のあなたよ」
「私?」
「そう、あなたが戦った過去の私」
「ヌシを内に抱いた過去のわたし……」
「ヌシがいる……?」
「そう、あなたの中にヌシは溶け込んでいる。あなたはヌシでもあり、カーラでもある」
「私はカーラよ、それ以外の何者でもないわ」
「あなたはカーラ。そしてヌシでもあり、わたしでもある」
「わからないわ」
鏡の表面が波打った。鏡の中のカーラが水面から浮き上がるように姿を現すと、カーラに近寄り抱きしめた。
「……!」
動くことが出来なかった。
鏡の中のカーラが愛おしそうに両手をカーラの頬に当て、少し開いた口びるを寄せた。
暖かく柔らかい感触を感じた刹那、カーラの意識に記憶が津波のように流れ込んで来た。生まれてから、一万年後に目覚めるまでの全ての記憶だ。
それはまるで、自分の奥底に封じた弱さと欲望が、自分を包み込むような感覚だった
ヌシの意識と言えるものも入ってくる。混沌とした闇が濁流に浮かぶ油のように入り込んできた。
カーラは情報の濁流に翻弄され、思考を奪われ白い光の中に意識が溶け込んでいくのを感じた。
黒の世界が白の世界に反転していった。
「おい!目を覚ませ!」
遠くで加藤の声が聞こえる。
「お姉さま!」
これはルリの声だ……
「カーラ!起きろ」
ノーマンの声が呼んでいる?
ハッと目を覚ますと、そこはメカニカルなアームに囲まれた、ドックの上だった。
無機質な光景は、自分は機械の体なんだと嫌でも思い知らされる。
「目を開けたぞ!」
アルケーがカーラの顔を覗き込んだ。
「気分はどうだい?」
「初めて機械の体で目覚めた時よりはマシかしら。アルケー」
カーラは自分の手を見ると、握ったり開いたりした。そして、周りを見わたした。
「ここは、ラウルス・プリーマ号の船内ね……」
アルケーは片眉を上げて「ほう」と感心と驚きの混ざった声を出した。
「初めて君にあげたプレゼントを覚えているかい?」
カーラはふっと笑って答えた。
「量子力学の学術書ね、The Observer’s Paradox: Consciousness and Quantum Collapse『観測者の逆説――意識と量子崩壊』一斤の食パンよりも厚みのある本だったわ。とってもあなたらしいと感じたのを覚えてる」
そして、ルリを見つけると愛おしそうな顔でルリを見つめた。
「ルリ、あなたが生きていてくれてよかった」
そういうと、ルリを引き寄せてそっと抱きしめた。
「……お姉さま」
ルリもカーラを抱きしめる。ルリがわずかに体を震わせた。
「身勝手なものね。私は機械の体になった時に本気で死のうと思うくらい絶望したの。そこをヌシにつけ込まれたわ。でも、今ルリを見た時、たとえ機械の体でも生きてくれていて良かったと思ったの」
カーラは目を伏せた。
「本当、身勝手……」
ルリはカーラの手を握ると首を横に振った。
「わたくしは、機械の体でも、お姉さまが生きたいと思ってくれたことが……いちばん、嬉しいです」
カーラは、そっと目を閉じた。
「ありがとう、ルリ……あなたがいてくれて、本当によかった」
カーラはアルケーの方を向くと、真剣な表情になった。
「アルケー、私をマザーオーブにリンクさせたのね? わたしの中にはヌシがいるわ。そんな危険な事をなぜ?」
「今の君の中にいるヌシは、ヌシであってヌシではない。逆もまた然りで、君は君であって君ではない」
「禅問答でもしてるの?」
「ヌシは君の無意識領域の中で融合してしまっているんだ。切り離そうにも切り離せない」
「私がヌシに取り込まれて、暴れるかもよ?」
「その可能性は否定しない。しかし、今の状態ならその確率はかなり低いと考えている。ざっと、向こう一年間で二千万分の一の確率だ。むしろ、再起動させた方が利がある」
カーラは苦笑した。
「ありがと……。本当にあなたは変わらないわね」
「マザーとリンクして、君の性能はかなり上がった筈だ。ルリと君に新しい機能も追加してある。暴走カーラとはかなり有利に戦える筈だ」
「あのさ、疑問なんだけど」
加藤が手を挙げた。
「暴走カーラを壊したら、未来のカーラがいなくなるんじゃないのか? ここにいるカーラはあの暴走カーラの未来に存在するカーラなわけだろ? なら倒したらダメじやね?」
「未来のカーラは過去のカーラを破壊することはできない。なぜなら、因果の連鎖が破綻するからだ」
「因果律の連鎖?」
「もし破壊した場合、破壊された時点で『未来のカーラ』という存在自体が成り立たなくなる。つまり、その行為は発生し得ない――行動自体が時間の中で自己キャンセルを起こす。だから、カーラが存在する限り、カーラを壊していないんだ」
「ごめん、マジで何言ってるのかわからねえんだけど……」
「簡単に言えば、世界の中には『起きたことしか存在できない』という前提があるんだ。
君たちが暴走カーラを破壊してしまえば、『彼女がここに存在している』という歴史そのものが消えてしまう。
そして、それを前提に動いていたこの世界もまた、存在理由を失う」
「……最悪の場合、この世界線は自己矛盾を起こして、消えてなくなる可能性がある」
「うまくいけば、時間が巻き戻って、全員が『何も知らない過去』に戻る。だが運が悪ければ――無限にループするか、存在そのものが未確定のまま凍結するかもしれない」
「つまり――暴走カーラを倒すことで何が起こるか。それは、やってみるまではただの確率論だ。だが、一度観測された時点で……すべてが確定し、もう引き返せなくなる」
「つまり、倒した瞬間に、全部が終わる可能性もあるってわけか……」
「君たちがいた時代も宇宙ごと消失する可能性もある」
「ちょっとまて。あたしの頭じゃ追いつけねえけど、あたしらの世界で済む話じゃねーのか? 責任重大なんてもんじゃねえじゃねーか!」
加藤は大きく息をついて、天を仰ぐと、カーラやルリ、ノーマンやアルケーを見渡した。
「……それでもやるしかねえのか?」
「そうだな……」
ノーマンが低い声で答える。
「そのためにこの世界に呼ばれたのかもしれませんわね」
ルリも頷いた。
「仕方ねーな」
「あと、もう一つ。さっきカーラが言ったラウルス・プリーマ号ってなに?」
「私たちの祖先が乗ってきた、宇宙船の名前よ」
「宇宙船!?」
「そう、地球からこの惑星に来るために乗ってきたの……長い、本当に長い話よ」
カーラはラウルス・プリーマ号建造までの話を始めた。