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第7話 憂鬱

 次の朝、凛子は新居のベッドで目を覚ました。隣では雅司がいびきをかいている。


 昨夜は食事を済ませ、風呂に入り、その後このベッドで愛を交わした。


 それ自体は特に問題ではない。だが、昨日の出来事を思い返すと、どこか不完全燃焼のような気分が残っていた。


 正直、凛子はセックスをあまり好きではなかった。雅司が嫌いなわけではない。


 けれど、これまで良い恋愛をしてこなかったせいか、心から満たされることがなかった。


「おはよう」


「……おはよう」


 もう少し一人で微睡んでいたかったが、雅司が目を覚ましてしまった。彼は凛子の長い髪を指で梳いた。


「すごく伸ばしたね」


「うん。白無垢で結いたいなって思って」


「でも、もう少し黒い方がいいよ。今度、僕の親戚の法事があるから、そのときあまり明るい髪色だと、ほら……」


「ほら」の言葉の曖昧な含みに、凛子は軽く引っかかる。


 だが、それ以上に憂鬱なのは、また親戚の集まりに行かねばならないことだった。

 今回が初めてではない。婚約が決まった際、一度、雅司の実家の法事に同行し、親戚たちに紹介されたことがある。


 雅司は仕事一筋で結婚が遅れたこともあり、親戚たちは「ようやく結婚か」と喜んでいた。しかし、凛子が30歳を超えていると知ると、態度が一変した。


「あら、その年齢なら、子どもは年子で産まないと高齢出産になっちゃうわね」


「見た目は若いけど、30過ぎか……売れ残りをもらったのかね」


 そんな言葉を浴びせられた。他の新婚や既婚の女性たちも、見知らぬ親戚や年配者から「子どもはまだか」「二人目は?」「三人も産んだの?お盛んだね」などと好き勝手に言われていた。

 さらに女性たちは、ほとんど座る間もなく家事を手伝わされていた。まだ婚約者の立場の凛子も例外ではなかった。慣れない家で働かされ、当然のように雅司の母・光江の毒舌を浴びる。雅司がいなければ、すぐにでも帰りたかったほどだった。


 あの親戚の家に、どうしたら行かずに済むだろうか。遠方ならともかく、そうではない。しかも、年に2、3回は集まりがあるらしい。


 結婚式にも呼ぶのなら、また顔を合わせることになるのだろう。それを思うと、現実から逃げ出したくなった。


 凛子はベッドを抜け出し、キッチンへ向かった。

 カウンターキッチンに広い作業台。ここで自分が料理をする——まだ、その姿が想像できない。

 冷蔵庫を開けると、昨夜モールの食品売り場で買ったサンドイッチやフルーツが目に入る。しかし、それだけではない。昨日から気になっていた冷蔵庫の中身。すでに、何かが入っていた。


「母さんが気に入ってる調味料を分けてもらったんだよ。これさえ使ってれば間違いないよ」


 雅司が当たり前のように言う。


「まぁ今日はいいけど、これから毎週末、母さんたちを呼んで、ここで料理を教わろうか。父さんにも食べてもらおう」


 そう言いながら、二人でどのサンドイッチを食べるか選ぶ。


 インスタントのペーパードリップコーヒーを淹れ、リビングで朝食をとる。

 ここで夜を過ごすのは、凛子にとって初めてだった。今までは、日中や夜に雅司と過ごしても、実家に帰っていた。こうして朝を迎え、共に朝食をとるのは、結婚を控えた今が初めてだった。


「きっと、これが毎朝の光景になるんだろうね」


「そうだね。君が朝ごはんを作って、僕が食べて、コーヒーを飲んで、見送ってもらう……そんな毎朝」


 雅司が穏やかに微笑む。そして、コーヒーを口に運びながら続けた。


「気づけば、ここに子どもがいて。一人、二人……」


 子どもの話が出ると、凛子はただ頷くしかなかった。


「そのうち手狭になるかもしれないね。もっと給料が上がったら、景色のいい場所に引っ越すのもいいかも」


「そうね……」


 今のマンションは、凛子の親戚が所有していた物件だったこともあり、格安で借りられた。しかし、雅司にとっては、いずれ手放したい場所なのかもしれない。


 凛子には特に不満はなかった。実家にも近く、スーパーや病院、店もそろっている。


「もちろん、朝ごはんは今日みたいなサンドイッチじゃダメだからね。ご飯を炊いて、魚を焼いて、サラダもしっかり。フルーツも忘れずに」


 雅司の言葉に、凛子は実家の朝食を思い浮かべた。


「うちは、前日の残り物が多かったかな」


「ギリギリ、それでもいいけど……」


 雅司は苦笑しながら、コーヒーを飲み干し、食べ終えた包装紙をゴミ袋に入れた。

「あとさ……」


 凛子はようやく自分の話を言い出せた。


「しばらく避妊せずしてるじゃん……でも妊娠しなくて。やっぱり早めに不妊治療始めた方がいいのかなって」


 すると雅司は


「不妊治療ー? まだまだ。それは一年以上経ってからのことでしょ。僕の同期も君の同期もそんな感じだったし」


 と。確かにそうだけど、と凛子は言葉を飲み込んだ。が……。


「それに赤ちゃんも空気読んでるんじゃない?」


 凛子はその言葉に目を丸くした。


「まだ結婚式まで半年だしさ、もし今妊娠したらせっかく時間かけて選んだドレスも着れなくなるし、顔も浮腫んだり……ましてや式を延期とか……本店とか遠くからくる出席者も僕のところ多いんだから。ましてや……式の最中に気持ち悪くて吐いたとかみっともないでしょ。そもそも籍入れる前に妊娠とかデキ婚って……互いに30超えてるのにさぁ……」


 雅司は、あくまで理屈を淡々と並べるように話す。

 普段、彼は仕事では冷静で、真面目な人間だった。その一方で、仕事を離れると意外と冗談を言うこともある。たまに凛子を笑わせようと、ふざけた言葉を口にすることもあった。

 凛子はそのギャップが好きだった……はずなのだが。


 その会話の横でつけっぱなしのテレビからは、漫才エベレストナンバーワンのCMが流れた。昨夜見かけた若手芸人のことが、ふと頭をよぎる。


「今夜なんだ……」


「どうせ、優勝者は決まってるんだろ。出来レースだよ」


「美琴も同じこと言ってたわ。でも、お父さんはそうじゃないって」


「ふうん……まあ、ネットニュースですぐ結果が出るだろうし」


 雅司は興味なさそうにテレビを消した。凛子も、もともと芸能には関心がないほうだった。


「さて、今日中にある程度終わらせないとね。僕も仕事を持ち帰ってるし。午前中、少し時間をくれる?」


「えっ……?」


「分かってるでしょ、凛子ちゃん。僕、忙しいんだから。君たちを養うためにも、仕事しないと」


「……うん、そうだけど……」


 凛子は、今日の作業リストを見つめた。紙吹雪の代わりに、小さなリボンを用意し、参列者に撒いてもらう案を考えている。市販のものを購入すれば簡単だが、雅司が


「100円ショップのリボンを切って作れば安上がりだ」


 と提案したのだ。


「仕事が終わったら、すぐ手伝うから」


 リボンを切り、結び、のり付けし、アイロンをかける——それなりに手間のかかる作業だ。二人でやれば午前中には終わるだろう。


「分かった……まずリボンを切って、それから結んで……」


 作業の準備を始める凛子を横目に、雅司は飲みかけのコーヒーを持って書斎へと消えていった。


「……」


 静かになったリビングで、凛子は手を止め、少しだけ天井を見上げた。

 だがのんびりしているそんな時間はない。午前中は全部一人で終わらせなくてはいけない。


「できるできる、昔会社で一人雑用やってたパワーで乗り切るっ!」


 と気合を入れて早速始めた。


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