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第二章 地獄の始まり

第11話 振り返りたくない

「凛子さん、凛子さん!」


「は、はい!」


 過去のことに思いを巡らせていた凛子は、名前を呼ばれてハッと顔を上げた。


 いつのまにかうつむいていた。


 忘れたいくらい嫌なことを思い出してしまった……と思いつつ……外はまだ雨。窓の外に目をやると、ゲリラ豪雨のような激しさで水しぶきが地面を叩いている。


 声のする方を見ると、ずぶ濡れになったシンがタオルを頭からかぶっていた。


「ずぶ濡れじゃん……すごい雨だもんね」


「うん、本当に困ったもんだ……洗濯物も間に合わなくてさ。室内干しも限界あるかも。でも、雲の流れを見る感じ、凛子さんが帰る頃には止んでると思う」


 シンは苦笑しながら髪をタオルで拭き、濡れた前髪を指でかき上げた。

 ロン毛の彼のこの仕草は凛子にとってドキッとする。髪の毛のゴムを口に咥えて慣れたように髪の毛を集めて一つに結ぶ。


 少し背の高いシンは凛子と視線を合わせる。


「それよりも、これ……どうでした?」


 彼の指が指した先には、あと少しだけ残ったシン特製のキッシュ。


「すっごく美味しかった!」


 率直な感想を口にしたあと、凛子はハッとして口元を手で覆う。

 これは、シンが自分だけのために作った特別メニューだった。他の客には提供されていない。凛子は小さな声で続ける。


「ほうれん草とベーコン……このオーソドックスな組み合わせが最高に美味しくて。チーズもすごく合ってた。焼き加減も絶妙!」


「でしょでしょー!」


 シンは子どものように満面の笑みを浮かべると、すかさず説明を始めた。


「ほうれん草はビタミンAやCが豊富で、目や肌にいいの。それに鉄分も含まれてるから、貧血予防にもなる」


 ――あ、また始まった。と凛子は思いつつも別に嫌ではない。むしろ好きである。


 凛子は、彼の語る姿に微笑みながら耳を傾ける。

 シンは料理の腕がいいだけでなく、栄養の知識もしっかり勉強している。

 作る料理には常にバランスが考えられていて、彼の作る料理のおかげで日々の食生活も整っていると実感していた。


「ベーコンにはタンパク質が豊富に含まれてて、ビタミンB群も摂れるからエネルギーが長続きするんだよね。

 あと、卵やチーズも入ってるから、筋肉の維持や骨の健康にもいい! 疲れた体にもぴったり! しめじも入れたいところだけど……まぁこれだけ入ってたらいいかな。予算的にもこれだと採算いいし、多分」


 得意げに語るシンの横顔を見ながら、凛子はふっと笑みをこぼす。

 ――こういうところ、本当に好き……と気持ちが上がる。


「そうね。栄養たっぷりのものをお昼に食べると、午後の仕事も捗るわー。あっ……これって、次のお弁当に入れてもらえたりする?」


 凛子はほぼ毎日、昼休みに職場近くのこの喫茶店で昼食をとる。

 でも時間がない時は、この店で出している昼限定の弁当を受け取って、職場の休憩室で食べることも多い。

 彼は短時間でも食べやすいように、サンドイッチを小さく切り分けたり、小さなおにぎりを握ったりなど工夫をしてくれていた。


「もちろんもちろん! 一口サイズに切り分ければバッチリ!」


 シンは嬉しそうに頷き、そのままカウンター奥のマスターのもとへ駆け寄った。


「マスター、例のキッシュ……凛子さんからオッケーもらいましたっ!」


「お、そうかそうか。じゃあ採用だな」


「やったー! 今月3個目の採用ー!」


 カウンター内で盛り上がる二人を見て、凛子は苦笑する。


「……試作品のテイスティング、私でいいのかしら。安易にOKすると、すぐ採用されちゃうのよね」


 こうしてシンの新メニュー開発に巻き込まれるのは、今日に限ったことではない。

 だが、嬉しそうにする彼の姿を見ると、つい「美味しい」と伝えたくなってしまうのだ。


 その後、シンは再び戻ってきた。

 厨房はシンとパートの女性、時々シンと交代する中年の調理人、そしてマスターの四人で切り盛りしている。


 外を見ると、まだまだ相変わらず雨は降り続いていた。


「そういえば今日は夕方からネタ見せだっけ?」


「そうそう。ちょいと憂鬱だけど、凛子さんの顔見たら少し元気出た」 


「いえいえ。でもネタ見せしないと次のステップには進めないんでしょ?」


「……まぁね。新作レシピはバンバン思い浮かぶのに、お笑いのネタは全く不作です」


 項垂れるシン。


 彼はこの喫茶店で調理人として働いているが、それはあくまでアルバイト。

 高校時代からこの店にいて、今では料理を任されるほどの腕前になった。かなりの古株だという。


 でもシンの本業は、お笑い芸人。


 見た目はどこにでもいる普通の若者。いや、どちらかといえば調理人らしい雰囲気の方が強い。

 しかし繁華街の喫茶店で働きながら、特に騒がれることもない――つまり、まだ売れていない芸人なのだ。


「シンー、追加オーダー入ったから厨房に戻ってー」


 パートの女性が厨房から顔を出す。


「は、はい!!!」


 シンは勢いよく返事をすると、凛子に向き直る。


「じゃあ、まずはこっちの仕事を頑張るんで……」


「そうね。目の前の仕事を片付けないと」


「はぁ……今度はわざわざピンピンズの兄貴たちが指導してくれるからめっちゃくちゃチャンスなのにー」


 ぼやきながらも、厨房へ向かうシンの背中を見送りながら、凛子は心の中でエールを送る。


 頑張れ!


 そして自分も、昼休みを終えてまた仕事に戻らなければならない。


 ふと、手帳に挟んでいたシンの所属事務所のチラシを開いた。

 そこには、事務所の看板芸人であるピンピンズの写真と、誇らしげなキャッチコピーが載っている。


『漫才エベレストナンバーワン優勝!東海一の頂点コンビ!』


 2年前。


 あの年、ピンピンズは優勝を果たした。

 そしてその頃、自分は――。


 指先が無意識に紙を強く握る。

 胸の奥に沈めていた記憶が、雨音とともにじわじわと浮かび上がってくる。


 窓の外を見ると、まだ止まない雨。

 どこまでも降り続ける灰色の空。


 ――あの日も、こんなふうに激しい雨だった。




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