凛子があれやらこれやら抱えた夜。ピンピンズが漫才エベレストナンバーワンで優勝した。
そして翌朝――。空は曇天、よくない天気が続く。
だが朝からテレビをつければ、どの番組にも彼らの眩い笑顔と多幸感に溢れた姿があった。
「優勝おめでとうございます!」
「今の気持ちはいかがですか?」
「いやぁ、夢みたいですね! でも僕らの漫才はまだまだ進化しますから!」
と優勝の決め手となったネタを披露してスタジオを退散した。
このあとは他局のバラエティ、人気芸人ラジオの生放送、昼からは漫才エベレストナンバーワンで争った他の芸人達と集結して舞台で漫才、合間合間に新聞や雑誌の取材、そして夜には地元東海ベイシーズでの舞台でライブをやるという。
玄人には知られていたものの、決してメジャーではなかったピンピンズ。
そんな彼らが今、まさに引っ張りだこになっている。
ワイドショーでも特集が組まれ、「ダークホース」と言われながらも本番で見せた強さが称賛されている。
彼らの快進撃を、誰もが祝福していた。
明るく笑うピンピンズの二人。
だが、その笑顔の裏にある覚悟を知る人は、どれだけいるのだろう。
彼らはもともと大手のお笑い芸能事務所、ベイシーズという事務所に所属していた。
だが、芸人が飽和状態になり事務所がサポートしきれない状態が続き、売れない後輩の若手芸人たちが退職していく現状に疑問を抱き、数人の後輩を引き連れて独立した。
そして、新天地として選んだのが――この東海地区だった。
「もし優勝したらその賞金は全部、新しい事務所と若手たちのために使います!」
大会前から、ピンピンズの二人はそう公言していた。(この発言の後に「……ちょっとは自分らの分も欲しいけどな」と漏らしつつも)
『ピンピンズ、漫才エベレストナンバーワン優勝賞金を元手に若手芸人支援プロジェクト開始! 独立して新事務所立ち上げへ!』
それが優勝と共に現実的になり、仮で構えていた建物を事務所とライブハウスにし、定期的にピンピンズや彼らについてきた若手芸人たちがお笑いライブを開くようになり次第にファンも増えていき、ピンピンズはもちろんのこと他の若手たちも仕事が増えていったのだ。
でも、凛子の世界は――。
凛子は、スマホでピンピンズの活躍のニュースをぼんやりと見つめる。
――戦って、勝ち取ったものを、次につなげる。
それができる人たちなのだ……と思いながらため息をついた。
ただ嵐に巻き込まれるように過去の出来事に囚われている。
比べる必要なんてないのに、情けないくらい、自分がちっぽけに思えた。
そしてそんな凛子の前に、妹の美琴がひょいっと一万円札をひらひらさせながらやってくる。
「ほい、お父さんから回収した」
「……え?」
「だれが優勝するかどうかでお父さんと賭けしてたでしょ? 私負けちゃったー」
そう言って、ポンと凛子の手に乗せる。すっかり賭け事をしていたのを忘れていたし、父の助言で決めたようなものである。
「美琴、いいよ、そんなの……」
「いいのいいの。美味しいご飯食べに行きな。外に出るの怖いと思うだろうけどさ、日中は雅司さんもいないでしょ? あっちの親もこっちまで来ないだろうし……」
凛子は晃を見る。すると、晃が新聞をめくりながらぼそっと口を開く。
「別にいいぞ。凛子の好きに使え」
「そうそう! 姉ちゃん、ピンピンズのこと全然知らないのに『お父さんが言うなら』って賭けてたじゃん」
美琴がぷくっと頬を膨らませる。
「お父さん、ダークホースとか言ってたけどさぁ……忙しいのにどこから仕入れるのさ」
晃はこの時ばかりまた饒舌になる。
「忙しくても仕事以外でデータ収集してはいたからな。ダークホースと言われながらもあのコンビは去年も決勝に行ってるし、ここ数年のネタの完成度も高かった。優勝候補の一角だったからな」
「やっぱ公務員って考え方が堅実だよねぇ……」
美琴とすみ子は感心する。
「せっかく勝ち取った一万円なんだから、有効活用して」
美琴はふっと真顔になって、母のすみ子を見る。
「お母さん、頼んだよ」
すみ子は無言で、そっと凛子の背をさする。
「……大丈夫、大丈夫」
家族の優しさ凛子の心にじんわり染み込んでいく。
「あ、そうだわ……銀之助くんのドラマ見なきゃ」
そう言って、すみ子はリモコンを手に取る。
録画していた人気ドラマ『秋を求めて』を再生すると、画面には人気俳優・海原銀之助の甘い笑顔が映し出された。
凛子はこんな時くらい見なくても良いものだが……。
「お父さん、週末ずーっと漫才の本戦だけじゃなくて敗者復活戦まで見てたし、その上、凛子がいきなり帰ってきて雅司さんたちが来たりでバタバタだったでしょ?」
凛子は、少し申し訳なく思う。
家事と育児に追われたすみ子にとって、これは数少ない楽しみのひとつなのだから。
凛子はあまり興味はないがそれに付き合ってはいた。
「それにまだ一週間あるし、そう構えずリラックスしましょう」
と急に楽観的になるすみ子。彼女なりの凛子への励ましなのだろう。
しかし――『秋を求めて』が始まると、部屋の空気が変わった。
明るく華やかなドラマかと思いきや、物語が進むにつれて重苦しさが増していく。
銀之助演じる御曹司に近づきたい若い女性主人公。しかし、彼女には何度もヨリを戻しては別れる 「元彼」 がいた。喧嘩のたびに罵倒され、傷つき、それでも「最後は優しくしてくれるから」と彼を許してしまう。
そんな彼女に、友人が冷静な声で言い放つ。
『それ、どう見てもモラハラじゃない……?』
ピシッと、張り詰めた音がした気がした。
画面の中の会話なのに、凛子の耳には 「現実の言葉」 のように響く。
隣を見ると、すみ子も視線をこちらに向けていた。
凛子も、すみ子を見る。
互いに言葉はない。
「違うわ。彼は……確かにひどいことをいうかもしれない。でも……優しく、最後は抱きしめてくれる」
涙ながらに訴える主人公。だが、友人の声は鋭かった。
『それこそモラハラよ!!! 目を覚ましなさい! 早く別れなさい!!!!!』
重い沈黙。
「……まさか、こんな感じ?」
すみ子がぽつりと呟く。
凛子は、笑おうとした。だが、口元が引きつる。
「……どうだろうね」
その返事すら、自信がなかった。
『自覚症状はあるでしょう? もう周りから見たら完全にアウトよ!』
再び、画面の向こうから響くセリフ。
その瞬間――すみ子が 凛子のスマートフォンをひったくった。
「ちょっ、お母さん、何してるの!?」
驚いて取り返す。
「……そ、その通りよ! だめよ、電話やメールは禁止! 取り上げてもいいくらい!」
「そこまでしなくても……!」
慌ててスマホを机の上に置いたが、脳裏には 「昨晩のメール」 がよぎる。
雅司からの長文。まだ開いてすらいない。
だが、見なくてもわかる。あれはきっと、ネガティブなものだ。
『絶対に二人きりで会わないことよ!』
そのセリフが流れると、すみ子がじっと凛子を見つめた。
「……この一週間は、絶対に会わないこと!」
母の言葉に、凛子は視線を落とす。
「……会わないよ」
静かに答えた。
「会う気にもならないから。安心して」
外では雨が降り始め、やがて強くなる。
鈍い痛みが頭の奥に広がった。昨夜は、ほとんど眠れなかった。
凛子は、美琴からもらった一万円札をすみ子に差し出した。
「……何よ、これ?」
「美琴にもらったお金。家族で美味しいもの食べて」
「え、いいの?」
「うん。今あるものでもいいから。私、まだ眠いから部屋に戻るね」
スマートフォンを握りしめ、ふらふらと自室へ向かう。
「凛子……絶対、メールも電話もダメだからね!!!」
すみ子の声が背中に突き刺さる。
部屋に入るやいなや、ベッドに倒れ込んだ。疲れて眠いのに、眠れない。
このまま、結婚を無しにしたら……? 私は、どうなる?
寿退社した会社には戻れない。
それに、雅司がいる。そんな場所、行けるわけがない。他の職場にはバイト以外は就いたことがない。
貯金も、結婚式場の予約、税金の支払い、新婚旅行の手配――
どんどん減っていった。もう、ほとんど残っていない。
「はぁ……」
深く息を吐き出しても、胸の重さは消えない。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
着信。メール。
すみ子には「出るな」と言われた。
けれど、鳴り続ける画面を見ていると、指が勝手に動きそうになる。
――意を決して、画面を見た。