凛子は恐る恐る画面を開いた。
送信者の名前を見て、ほんの少しだけ胸をなでおろす。
同期の京佳だった。
凛子を含め、同期の新入社員は126人。そのうち女性社員は35人。
年月が経つにつれ、結婚や出産を機に退職する者、育児休暇を経て時短勤務で復帰する者が現れた。
だが、フルタイムの正社員として残ったのは、凛子ただ一人。
復帰した同期たちにとっても、「凛子がいるから、また戻ってこられた」という安心感があった。
それだけに、彼女の結婚が決まったときは「ついに最後の砦が……!」と話題になり、特に女性陣は大盛り上がりだった。
「新入社員のとき、あんなに大変そうだった凛子が結婚できて嬉しい!」
そんな声があちこちから上がった。
その中でも、一番気が合ったのが京佳だった。
京佳は「第一次結婚ブーム」の同期の中でも一番乗りで、しかも相手は同じく同期の男性だった。
同期の女性たちが次々と寿退社や育児を理由に退職する中、彼女は育休を取るだけ取って、時短勤務ながらも職場復帰を果たした二児の母でもある。
まず、コーヒーを飲むクマのスタンプが送られてきた。凛子は時計を見ると休憩時間であろうとわかった。
そして次に、短いメッセージ。
『なんかリーダー今日荒れてるけど、喧嘩した?』
凛子はヒヤッとした。
リーダー=雅司のことだ。
「荒れてる」という言葉を、雅司に対して京佳が使うことは滅多にない。
職場では穏やかで通っている雅司。
たとえ理不尽な要求をされても、パワハラ気質の上司が相手でも、感情を荒げることはなかった。
そういう雅司だからこそ、凛子は安心していたのに――。
『なにがあったの?』
あえて返答せず、質問で返す。
こんな返し方でよかったのか少し迷ったが、送信ボタンを押した。
すると、すぐに返信が来た。
「なんでやねん!」
関西風に突っ込むクマのイラストのスタンプがまず送られてきて、その後、短い文章が続く。
『いや、こっちが聞きたいわよ……部下や他の人から凛子に聞けって言われてさ』
『なんだか当たりが強いらしいし、なんかプライベートであったんじゃ、って思ったから……まさか凛子となにかあったのかなぁって』
ウワァ。
凛子は思わず頭を抱えた。
まさかどころではない。
だが、雅司が職場で荒れるほどだったのか……。
どうしよう、どうしよう……。
やはり、すみ子の助言どおりスマホは見ないほうがよかったかもしれない。
どう返信するか悩んでいると、さらに京佳からメッセージが届いた。
『ちょっとさ、不安だったんだよ……凛子のことが』
不安?
その言葉に、ふと退社したときのことが蘇る。
オフィスで、同期たちに送り出されたあの日のことを。
※※※
オフィスの真ん中で、雅司と並んで立つ凛子。
同期をはじめ、上司や部下たちが周囲を囲んでいる。
部下の女性から手渡された花束に、思わず涙がこぼれた。
その涙につられるように、周りの人たちももらい泣きする。
「凛子先輩……戻ってきますよね……いなくなっちゃうの嫌です!!!」
不安そうな顔で訴える部下。
その声に、他の同僚たちも「そうだよ」「また戻ってきてね」と口々に続く。
本当なら、まだここで働きたかった。
引き継ぎも完全には終わっていないし、成長を見守りたい部下もいる。
やり残したことが、まだたくさんある。
それでも、もう決めたことだった。だから、せめて最後は笑顔で。
そう思っていたのだが。
「凛子さんがいなくても、この職場は回るだろ」
雅司の言葉に、空気が揺らいだ。
「それに、凛子は復帰しないよ。僕のサポートをするために、家に入るんだ。家事も料理も初心者だから、今から辞めて修行しなきゃだし」
軽い調子で続ける雅司。冗談のつもりなのかもしれない……凛子はそう思った。
「それに、子供ができても仕事も家事も育児も中途半端になるだろ? 彼女が僕を一生懸命支えてくれたら、僕は出世もできるし――彼女がわざわざ働かなくても大丈夫だよ。なぁ?」
彼は笑いながら、周囲を見渡した。けれど、誰も笑わなかった。
同期も、先輩も、部下たちも。一瞬、場が凍りついたようだった。
凛子は手の中の花束を、ぎゅっと握る。笑顔のまま動けなくなった。
おかしい。なぜこんなに重たい空気になっているのか。
(……なんで?)
ふと同期の女性たちを見ると、みんな苦笑いを浮かべていた。
けれど、それは喜びや祝福の笑顔とは違っていた。
中には明らかにいい顔をしていない人もいた。
(なんだろう、この感じ……)
凛子は同期の中で最後の結婚として祝福されていたはずだ。
けれど、雅司の言葉を境に、空気が重たくなった気がする。
その違和感を深く考えることなく、笑顔のまま、その場をやり過ごした。
※※※
寿退社の日、雅司の隣に立っていた自分。
彼の言葉を聞いたときの、あの微妙な空気。
「……そうか」
凛子は小さく呟いた。
みんな、あの時から気づいていたんだ。
雅司の言葉が、どれほど傲慢で、どれほどおかしいものだったのかを。
でも、当時の自分は何も気づかず、ただ笑うことしかできなかった。
彼を疑うこともせず、違和感を押し込め、素直に結婚を喜んでいた。
なのに、昨夜の雅司の言葉を思い出した途端――まるで霧が晴れるように、すべてが繋がった。
「……そっか」
呟く声が震える。
雅司は、ずっとこういう人だったのかもしれない。
ただ、自分が見ないふりをしていただけで。
スマホを握る指が、京佳に返信を打とうとして、止まる。
何をどう言えばいいのか、言葉がまとまらない。
ただひとつ、胸に広がるのは後悔とも、悔しさともつかない、得体の知れない感情だった。
そんな中、京佳から再びメッセージが届く。
『まぁ、喧嘩の一つや二つくらいあるよね。私もハネムーンブルーで旦那ともめたことあったし。そういうもんだよ、夫婦ってさ』
「夫婦」
その言葉に、凛子はふと指を止める。
結婚生活には、こういうこともあるものなのだろうか。
京佳は、既婚者としてそう言ってくれているのだ。
だけど、本当にそうなのだろうか。
『まぁ、なんとかこっちはうまくかわすから、体お大事にね!』
くまのスタンプとともに送られてきたそのメッセージに、凛子の胸が少しだけ軽くなる。
優しく気にかけてくれる人がいるだけでも、救われる気がした。
本当のことを話せたらいいのに。
だけど、京佳はもちろん、同期や部下、上司たちも結婚式に招待している。
これからの話し合い次第では、どうなるか分からない。……破談になったら。
そう思うだけで、気が滅入る。
それに、“体を大事に” という言葉が、なぜか引っかかった。
けれど考えても仕方がない。
『ありがとう、京佳。また何かあったら教えてね。体調は大丈夫よ』
それが、今の凛子にできる精一杯の返信だった。
すぐに、京佳からのメッセージが返ってくる。
『ならよかったわ。だってみんな言ってたよ。引き継ぎも途中なのに早く退職したから、妊娠したんじゃないかなーって』
「……え?」
思わず、声が漏れた。
妊娠? ありえない。
たしかに引き継ぎは途中になってしまったけれど、それは部下が体調を崩したのと、自分の有休消化が重なったからだ。
それを勝手に「妊娠」だと決めつけられていたなんて。
『リーダーに聞いても、はぐらかすし。でも結婚式もやるし、安定期に入れば大丈夫でしょ! 無理せずね! 休憩終わるから、じゃあね!』
凛子はスマホを強く握りしめた。
彼は、なんで否定しなかったのか? 周りの誤解を、訂正しなかったのか?
「……ありえない」
最悪だ……と凛子は思った。
スマホを置き、ベッドに倒れ込む。
顔を埋めた枕が、じんわりと熱を持っていくような気がした。