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第13話 元職場

 凛子は恐る恐る画面を開いた。

 送信者の名前を見て、ほんの少しだけ胸をなでおろす。


 同期の京佳だった。


 凛子を含め、同期の新入社員は126人。そのうち女性社員は35人。

 年月が経つにつれ、結婚や出産を機に退職する者、育児休暇を経て時短勤務で復帰する者が現れた。

 だが、フルタイムの正社員として残ったのは、凛子ただ一人。


 復帰した同期たちにとっても、「凛子がいるから、また戻ってこられた」という安心感があった。

 それだけに、彼女の結婚が決まったときは「ついに最後の砦が……!」と話題になり、特に女性陣は大盛り上がりだった。


「新入社員のとき、あんなに大変そうだった凛子が結婚できて嬉しい!」


 そんな声があちこちから上がった。


 その中でも、一番気が合ったのが京佳だった。


 京佳は「第一次結婚ブーム」の同期の中でも一番乗りで、しかも相手は同じく同期の男性だった。

 同期の女性たちが次々と寿退社や育児を理由に退職する中、彼女は育休を取るだけ取って、時短勤務ながらも職場復帰を果たした二児の母でもある。


 まず、コーヒーを飲むクマのスタンプが送られてきた。凛子は時計を見ると休憩時間であろうとわかった。

 そして次に、短いメッセージ。


『なんかリーダー今日荒れてるけど、喧嘩した?』


 凛子はヒヤッとした。


 リーダー=雅司のことだ。


「荒れてる」という言葉を、雅司に対して京佳が使うことは滅多にない。

 職場では穏やかで通っている雅司。

 たとえ理不尽な要求をされても、パワハラ気質の上司が相手でも、感情を荒げることはなかった。

 そういう雅司だからこそ、凛子は安心していたのに――。


『なにがあったの?』


 あえて返答せず、質問で返す。

 こんな返し方でよかったのか少し迷ったが、送信ボタンを押した。


 すると、すぐに返信が来た。


「なんでやねん!」


 関西風に突っ込むクマのイラストのスタンプがまず送られてきて、その後、短い文章が続く。


『いや、こっちが聞きたいわよ……部下や他の人から凛子に聞けって言われてさ』


『なんだか当たりが強いらしいし、なんかプライベートであったんじゃ、って思ったから……まさか凛子となにかあったのかなぁって』


 ウワァ。


 凛子は思わず頭を抱えた。

 まさかどころではない。


 だが、雅司が職場で荒れるほどだったのか……。

 どうしよう、どうしよう……。

 やはり、すみ子の助言どおりスマホは見ないほうがよかったかもしれない。


 どう返信するか悩んでいると、さらに京佳からメッセージが届いた。


『ちょっとさ、不安だったんだよ……凛子のことが』


 不安?


 その言葉に、ふと退社したときのことが蘇る。

 オフィスで、同期たちに送り出されたあの日のことを。






 ※※※


 オフィスの真ん中で、雅司と並んで立つ凛子。

 同期をはじめ、上司や部下たちが周囲を囲んでいる。


 部下の女性から手渡された花束に、思わず涙がこぼれた。

 その涙につられるように、周りの人たちももらい泣きする。


「凛子先輩……戻ってきますよね……いなくなっちゃうの嫌です!!!」


 不安そうな顔で訴える部下。

 その声に、他の同僚たちも「そうだよ」「また戻ってきてね」と口々に続く。


 本当なら、まだここで働きたかった。

 引き継ぎも完全には終わっていないし、成長を見守りたい部下もいる。

 やり残したことが、まだたくさんある。


 それでも、もう決めたことだった。だから、せめて最後は笑顔で。


 そう思っていたのだが。


「凛子さんがいなくても、この職場は回るだろ」


 雅司の言葉に、空気が揺らいだ。


「それに、凛子は復帰しないよ。僕のサポートをするために、家に入るんだ。家事も料理も初心者だから、今から辞めて修行しなきゃだし」


 軽い調子で続ける雅司。冗談のつもりなのかもしれない……凛子はそう思った。


「それに、子供ができても仕事も家事も育児も中途半端になるだろ? 彼女が僕を一生懸命支えてくれたら、僕は出世もできるし――彼女がわざわざ働かなくても大丈夫だよ。なぁ?」


 彼は笑いながら、周囲を見渡した。けれど、誰も笑わなかった。


 同期も、先輩も、部下たちも。一瞬、場が凍りついたようだった。


 凛子は手の中の花束を、ぎゅっと握る。笑顔のまま動けなくなった。

 おかしい。なぜこんなに重たい空気になっているのか。


(……なんで?)


 ふと同期の女性たちを見ると、みんな苦笑いを浮かべていた。

 けれど、それは喜びや祝福の笑顔とは違っていた。


 中には明らかにいい顔をしていない人もいた。


(なんだろう、この感じ……)


 凛子は同期の中で最後の結婚として祝福されていたはずだ。

 けれど、雅司の言葉を境に、空気が重たくなった気がする。


 その違和感を深く考えることなく、笑顔のまま、その場をやり過ごした。




 ※※※


 寿退社の日、雅司の隣に立っていた自分。

 彼の言葉を聞いたときの、あの微妙な空気。


「……そうか」


 凛子は小さく呟いた。


 みんな、あの時から気づいていたんだ。

 雅司の言葉が、どれほど傲慢で、どれほどおかしいものだったのかを。


 でも、当時の自分は何も気づかず、ただ笑うことしかできなかった。

 彼を疑うこともせず、違和感を押し込め、素直に結婚を喜んでいた。


 なのに、昨夜の雅司の言葉を思い出した途端――まるで霧が晴れるように、すべてが繋がった。


「……そっか」


 呟く声が震える。

 雅司は、ずっとこういう人だったのかもしれない。

 ただ、自分が見ないふりをしていただけで。


 スマホを握る指が、京佳に返信を打とうとして、止まる。

 何をどう言えばいいのか、言葉がまとまらない。


 ただひとつ、胸に広がるのは後悔とも、悔しさともつかない、得体の知れない感情だった。


 そんな中、京佳から再びメッセージが届く。


『まぁ、喧嘩の一つや二つくらいあるよね。私もハネムーンブルーで旦那ともめたことあったし。そういうもんだよ、夫婦ってさ』


「夫婦」


 その言葉に、凛子はふと指を止める。


 結婚生活には、こういうこともあるものなのだろうか。

 京佳は、既婚者としてそう言ってくれているのだ。

 だけど、本当にそうなのだろうか。


『まぁ、なんとかこっちはうまくかわすから、体お大事にね!』


 くまのスタンプとともに送られてきたそのメッセージに、凛子の胸が少しだけ軽くなる。

 優しく気にかけてくれる人がいるだけでも、救われる気がした。


 本当のことを話せたらいいのに。

 だけど、京佳はもちろん、同期や部下、上司たちも結婚式に招待している。

 これからの話し合い次第では、どうなるか分からない。……破談になったら。


 そう思うだけで、気が滅入る。


 それに、“体を大事に” という言葉が、なぜか引っかかった。

 けれど考えても仕方がない。


『ありがとう、京佳。また何かあったら教えてね。体調は大丈夫よ』


 それが、今の凛子にできる精一杯の返信だった。


 すぐに、京佳からのメッセージが返ってくる。


『ならよかったわ。だってみんな言ってたよ。引き継ぎも途中なのに早く退職したから、妊娠したんじゃないかなーって』


「……え?」


 思わず、声が漏れた。


 妊娠? ありえない。


 たしかに引き継ぎは途中になってしまったけれど、それは部下が体調を崩したのと、自分の有休消化が重なったからだ。

 それを勝手に「妊娠」だと決めつけられていたなんて。


『リーダーに聞いても、はぐらかすし。でも結婚式もやるし、安定期に入れば大丈夫でしょ! 無理せずね! 休憩終わるから、じゃあね!』


 凛子はスマホを強く握りしめた。



 彼は、なんで否定しなかったのか? 周りの誤解を、訂正しなかったのか?


「……ありえない」


 最悪だ……と凛子は思った。


 スマホを置き、ベッドに倒れ込む。

 顔を埋めた枕が、じんわりと熱を持っていくような気がした。


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