目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第14話 居場所

 なんだかんだで日が過ぎ、その間、凛子は自分の部屋とリビングを行ったり来たりして過ごしていた。


 美琴は仕事が終わると戻ってきてくれて、一緒に晩御飯を食べる。

 家族四人で食卓を囲む。それは、美琴が嫁いでからずっとなかった光景だった。普段は三人、まぁそれには慣れっこではある。



「ごめんね、美琴……」


 申し訳なさが胸をよぎるが、美琴は笑って


「気にしないでよ。てかどんどん食べよーよ」


 と言ってくれる。


 家族もまた、いつも通りに接してくれた。

 説教じみたことも言わず、ただ変わらない温かさで。


 その穏やかな空気に包まれながら、凛子の強張っていた心が、少しずつほどけていくのを感じた。


「雅司との時間も、最初はこんな感じだったのに……」


 ふと、思い返す。だが、結婚の話が具体的になるにつれ、少しずつ変わっていった。まるで、雅司が今まで猫を被っていたかのように。いや、そうではなく、雅司の両親が介入し始めたことが大きかったのかもしれない。


 交際中、雅司はよく


「自分は長男だから、しっかりしなくちゃ」


と口にしていた。

 凛子の父・晃も長男だった。祖父母が存命だった頃、父は今よりも厳格で、寡黙ながらも一家の大黒柱としての責任を強く感じていたように思う。それは、昭和から平成にかけての話だ。


 だが、今では時代も変わり、晃もかつての厳しさを手放している。そのあたりからかすみ子は自由度が増してきた気もするが昔からの名残でしっかり父を慕い、家事をしている。


 厳格な家風も、もう過去のものになったのだろう。


 だからこそ、普段の雅司の穏やかさを思えば、彼もそういう考えに縛られているとは思えなかった。いや、思えなかったはずなのに。


「きゃー、銀之助ー!」


 食事中、すみ子の大好きな銀之助がCMに映った。その瞬間、彼女は箸を置いて歓声を上げる。

 かつて祖母がいた頃は、どんなに素敵なタレントでも「カッコいい」と口にするだけで――


「不倫みたいなものだ」


「夫がいるのに不満なのか」


 とたしなめられたらしい。


 そのせいで、一時期すみ子は好きな俳優の話を控えていたと、凛子は聞いていた。


 ……だが今はそんなことを気にする様子もなく、晃の前でも堂々と「キャーキャー」と声を上げる。


 そして晃もまた、それを気にする素振りすら見せず、黙々と食事を続けていた。


 そんな中、晃のスマホが着信音を鳴らした。


 彼は普段、食事中にスマホを触ることはない。

 しかし、画面に表示された名前を見た瞬間――


「……ちょっと出るわ」


 そう言い、箸を置いてスマホを手に取り、席を立った。


 凛子はその声の調子から、おそらく友人だろうと察した。


 と、その瞬間、背筋にひやりとしたものが走る。


もしかして……


「凛子、どうしたの?」


 すみ子が、彼女の変化に気づいて顔をのぞき込む。


「う、ううん……なんでもない」


 そう答えながらも、扉の向こうで話す晃の姿が気になって仕方がなかった。


 父は友人の少ない人だったが、一番親しい相手とはよく会い、ゴルフに行くこともあった。


 その「友人」にまつわる、忘れたい記憶がふと頭をよぎる。


 胸の奥に、ざらりとした嫌な感触が広がった。


 電話を終えた晃が席に戻ってきた。表情はほとんど変わらない。


 けれど、凛子はじっと彼の顔を見つめた。


「あなた、どうしたの?」


 すみ子が声をかける。

 長年連れ添った夫のわずかな変化を、見逃さなかったのだろう。


 晃は椅子に腰を下ろし、短く答えた。


「……てつやんだった」


 やっぱり、と凛子は思った。


 てつやんこと、久留米哲也。

 晃の旧友で、家族ぐるみの付き合いがある人物だ。

 長年、不動産会社で堅実に働き、55歳で早期退職。

 その後すぐに妻を亡くし、今は自身の不動産会社を経営している。


 その哲也が仲介した物件が、雅司と凛子の新居だった。


「哲也さんが……って、まさか」


 すみ子も事情を察したようだ。

晃は静かに頷く。


「……来週、入居するんだってさ。引越し業者、もう決めたのかって」


「え?」


「トラックを停める場所を確保しなきゃいけないから、事前に知らせてくれって言われた」


 凛子は息をのんだ。

 正直凛子は1ヶ月前に決めたかったのだが雅司が忙しいやら他の業者との比較はとかで全く決まってなかった。そして一週間前……こないだの時に式の準備の時に決めるはずだったのだができなかった。


「もう業者決めたんじゃなかったのか? 手配は早めにしなさいと言ったよな……凛子」


「……うん……でも」


「……まぁ今この状況になったし……いいが」


 晃はそういう時美琴はうんうんという。


「……でも引っ越しの前日の土曜日に……話し合いだし……てつやんさんには今回のことは……」


「……それなんだが……」


 晃は言葉を慎重に選んでいるようだった。


「……結婚、無くなるかもしれんって伝えた」


「伝えちゃった……???」


 すみ子と美琴が同時に頭を抱える。凛子は俯いたまま、何も言えなかった。


「……まぁ、こういうことはよくある、というか……なんというか……」


 晃は言葉を濁した。

 哲也は長年不動産業をしているだけに、こうした「契約後のキャンセル」も珍しくないのだろう。

 結婚に絡む引っ越しが破談で流れることも、きっと何度も見てきたに違いない。


 それでも、凛子にとっては現実味がなく、ただ苦しく感じられた。


「今度の話し合いが終わるまで待つよ、と言ってくれた」


「哲也さんに申し訳ないわ……いろいろと条件つけてもらったりして」


 すみ子はため息をついた。

 契約時、物件の立地や価格、駐車場のことなど、かなり細かく希望を聞いてもらったのを思い出したのだろう。


「うん、でも……てつやんのところにな、雅司さんの両親が来たらしくて」


「えっ……」


 凛子はゾワッとした。何かやらかしたのだろうか。


 部屋の契約時、雅司の両親は同席しなかった。

「そこまで口を出すつもりはない」

 と言われていたから、少し安心していたのに。


「何の用だったの?」


「……もう少し安くならんか、とか、駐車場代はどうなるのか、とか。もしうちらが入居したらどうなるのか、とか」


「ええっ?!」


 凛子は思わず声を上げた。


「同居するつもりだったの?!」


 そんな話、一度も聞いたことがない。

 確かに、義両親は


「近くもいいけど一緒に住めたらさらにいいわよねー」


 なんて冗談めかして言ったことはあった。だが雅司はそのたびに


「いやいや、それはない」


 と笑ってかわしていたが……。


「……てつやんも、いろいろ他にも対応に困ってたみたいだ」


 晃が少し困ったように言う。他にも、というところにまだあるのかと……凛子は想像ついた。


「そんな中で、ふとてつやんが凛子のことが心配になってな。引っ越し業者の手続きもまだだったし、それで連絡してきたってことらしい」


 凛子は頭がくらくらした。


「もー、これは破談よ、破談!!!」


「そう! このままだとお姉ちゃん絶対不利!!!」


 すみ子と美琴が勢いよく立ち上がる。


「ちょ、ちょっと落ち着いて!」


 慌てて二人を抑えるが、晃も手を上げて


「お前らも落ち着け」

 と静かに諭した。


「破談したとして……あのマンションを解約したら、凛子はどうするんだ?」


「えっ……?」


「凛子はどこに住むんだ」


 その言葉に、部屋の空気がピタリと止まる。


「あ……確かに……」


 マンションを手放せば、当然、住む場所がなくなる。

 とはいえ、実家に戻ればいいだけでは……?


「……ここ、に戻っちゃダメかな」


 凛子は少し気まずそうに言いながら、ちらりと母と妹の顔を伺った。

 だが、さっきまで破談を主張していた二人が、途端に気まずそうに視線をそらす。


「……どういうこと?」


 不審に思った凛子が問いかけると、晃が言葉を選ぶように口を開いた。


「そのな……」


 だが、その言葉を遮るように、美琴が手を挙げた。


「ごめん、ここには姉ちゃんの戻るところないんだよ」


「えっ……?」


「姉ちゃんがここを出たら、私と子供がここに引っ越すの」


「――!!!」


 凛子は目を丸くした。晃も、すみ子も、無言で頷いている。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?