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第15話 決断

 凛子は湯船につかりながら、ぼんやりと天井を見上げた。


 美琴は、泣きながら話してくれた。


 彼女が実家に戻ってきたのは、決して姉のためだけではなかった。

 美琴は、夫との離婚で揉めていた。そして、すでに話はついていたという。


 両親は、凛子の結婚が決まっていたこともあり、美琴の離婚の件を水面下で進めていたらしい。

 凛子が結婚して家を出たら、そのタイミングで美琴と子供たちが実家に戻る――。

 それが、両親の計画だった。


 けれど、凛子の結婚が破談になれば、その予定は崩れる。


 美琴は、姉の今回の結婚には反対したい気持ちもあった。

 だが、それを言えば、自分たちの生活の場が狭くなるのも事実。


「……そういうことか……」


 凛子は湯船の中で、ゆっくり息を吐いた。


 すみ子も、決して美琴だけを優先しているわけではない。

 ただ、小学生の孫二人と美琴だけでも手いっぱいなのに、そこに凛子まで加われば、生活の負担が増える。

 家事を回せるのは、すみ子しかいないのだから。


 美琴は、これまで何度か凛子が失恋を経験するたびに心配していた。

 自分自身、早くに結婚したが、夫婦関係は当初から上手くいっていたわけではなかった。

 それでも親を心配させたくなくて、ずっと一人で耐えてきた。

 だが、どうにもならなくなり、離婚を決意して、ようやく親に打ち明けたのだという。


「頼りたくなかったけど、もう無理だった……でもお父さんとお母さんもお姉ちゃんのことで疲れ切ってた。だから限界の限界まで私は耐えてたの、ごめんね……姉ちゃん」


 そう言って涙をこぼす妹を前に、凛子は何も言えなかった。溌剌な彼女がボロボロと涙をこぼしていく。


 そんなそぶりは一度もなかったのに、いいや……気づかなかった、自分のことで精一杯だった自分が姉として、申し訳ない。

 胸の奥が重く沈んでいく。


 凛子は目を閉じた。


 この家も、もう私の居場所ではないのかもしれない。


 かといって、雅司たちの要望を飲んでまで、住む場所を確保すべきなのか。

 それで本当にいいのか……。


 また、メールの着信音が鳴る。

 見ない。


 さっき、ふと着信画面を見てしまった。

 雅司だった。


 もう無理だ。


 この一週間、凛子はほとんど家から出ず、最後には部屋からも不必要には出なくなっていた。

 誰かと顔を合わせるのも億劫で、美琴やすみ子が気遣って話しかけてくれても、素直に応じることができない。


 今の自分は、どこにも馴染めない存在のような気がする。


 ふと、湯の中で指先を握る。

 温かいはずの湯が、どこか遠く感じた。




 あっという間に、一週間が経った。


 凛子は、ずっとメールを見なかった。

 だが、連絡は家の方に入ったらしく、すみ子が応じた結果、話し合いの場は結婚式場の応接室で行うことになった。


 当日、美琴は両親と凛子を式場まで送ってくれた。


「……姉ちゃん、無理しないでね。お父さんも、お母さんも」


 そう言い残すと、彼女は振り返ることなく帰っていった。


 晃はスーツを着込み、すみ子も凛子もフォーマルな服装だった。

 凛子は、昨夜ほとんど眠れなかったせいで、朝からコンタクトが上手く入らず、今日は眼鏡をかけている。


 式場に到着すると、先に応接室へと通された。

 一週間前に対応してくれたスタッフが、神妙な面持ちで案内し、飲み物を運んできた。


 相手は、まだ来ていない。


「凛子、話を聞いてから判断しなさい」


 父の晃が静かに言う。


「お父さんたちは、お前が聞いて決めたことに賛同できるようにする……だから、相手に影響されず、感情的になるな」


 凛子は頷いた。

 すみ子は、無言のまま、きゅっと口を一文字に結んでいる。


 やがて、約束の時間を五分過ぎた頃だった。


 雅司を先頭に、三人が入ってきた。


 一週間ぶりに会う雅司。

 あんなに愛し合い、あんなに近くにいたはずの人が、たった一つのズレで、一気に「無理な相手」になってしまった。


 いや、本当は最初からズレていたのだ。


 凛子が気づかなかっただけ。

 いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。

 どうしてもっと早く、この違和感を直視しなかったのだろう。


 しかし、考える間もなく、話し合いは始まった。


 だが――。


 口火を切ったのは、雅司ではなく、その父親・徹だった。


 本来、この話し合いは、凛子と雅司のもののはず。

 けれど、雅司は一言も発さず、ただ黙って座っている。


 まるで、自分の意志ではなく、誰かにすべてを委ねているかのように。


 雅司は徹の話が終わると凛子の方を見た。凛子は久しぶりに目を合わせると少し怖くなる。

「さぁどうする、凛子さん……」



 結婚を続けるか、破談にするか。


 それがこの場の本来の目的だった。


 だが、雅司の家族――雅司、父・徹、母・光江――の態度は、まるで違った。彼らは「穏便に済ませて結婚を続ける」という方向に、話を持っていこうとしている。


「もちろん、凛子さんの気持ちを最優先にすべきだとは思っています」

 徹が、落ち着いた声で言う。


「ただ、結婚をやめるとなると、やはり影響が大きいですよね。式場のキャンセル料もかなりの額になりますし、お世話になった方々へもきちんとお詫びをしなければなりません」


「マンションの解約料も発生するし、中にある家具家電の運搬費用だって馬鹿にならないわね」


 光江が静かに付け加えた。


 ――だから、今ここで仲直りして、予定通り結婚するのが一番いいのでは?


 彼らの言葉の端々に、そんな意図が見え隠れする。


「あのマンションはすでに契約していますし、今さら解約となるとどうするのよ……半額払っちゃったし。まぁ結局は雅司が働いて払っていくつもりだったけど……」


 光江の口調は、静かだが圧がある。


「……雅司は、どう思ってるの?」


 ようやく向けられた問いかけに、雅司はわずかに肩を揺らした。


「……俺は……」


 小さく唇を開き、一度目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げる。


「……もう、責めるつもりはないよ」


 その一言に、凛子の体が強張った。


「俺にも、言い方が悪いところがあったと思う。でも、もう終わったことだし、これ以上お互いに嫌な思いをするのはやめよう?」


 まるで、寛大な態度で許してやると言わんばかりの声音だった。


「……俺は、凛子さんと結婚したい。その気持ちは変わらない」


 優しく響く声。


「けど、もし凛子がどうしても俺と結婚できないっていうなら、それは仕方ない。でも、少なくとも、俺はもう怒ってないし、責めてもいない」


 まるで、悪いのは私だけだったみたいな言い方だ。


「だから、俺としては、今後も仲良くやっていけると思ってる」


 雅司の視線が、じっとこちらを見据える。


「……凛子は、どうしたい?」


 選択を迫られているのは、いつも私だけ。


 でも、そのどちらを選んでも、結局雅司の優位は揺るがない。


 胸が苦しい。


 光江と徹の表情を横目で見た。

 二人とも、


「息子はもう許したんだから、あとはあなたの判断次第よ?」


 という顔をしている。


 追い詰められている。


 ここで「結婚しない」と言えば、これまでのことを全部私のせいにされる。

「結婚する」と言えば、雅司の言いなりになり続ける未来が見える。


「……」


 喉が乾いて、声が出なかった。




「……それにしても、すみ子さん」


 光江の声が、静かに響く。


「あなた、お嬢さんを甘やかしすぎたんじゃありませんか?」


 すみ子の表情が凍りついた。


「家事もろくに教えずに育てたから、こういうことになるのよ。結婚するっていうのに、お嫁さんとしての自覚がまるでない。息子がどれだけ迷惑しているか、考えたことある?」


 すみ子は唇を噛みしめた。


「それとも、何かしら? これまで実家で好き放題してきたから、結婚生活の厳しさが怖くなった? それで駄々をこねてるんじゃないでしょうね?」


「……っ」


 すみ子の肩がわずかに揺れる。


「本当にね、母親の育て方って、大事だと思うのよ」


 光江はため息混じりに言った。すみ子が立ち上がろうとする。


 が、それより先に晃が立ち上がった。


「……」


 けれど、何も言えない。


 晃は、ただ静かに光江を見つめていた。


 凛子はふと、雅司に視線を向けた。しかし目を逸らされた。


 その瞬間、凛子の中で何かが決定的に壊れた。



 ぷつり、と、何かが切れた音がした。


 ――ダメだ。この男は、問題が起きても私を守らない。見て見ぬふりをする。


 そのたびに私は、苦しむことになる。


 昔、両親の姿を見てきたからわかる。


 母がどれだけ父の家族に耐えてきたか。

 父が、どれだけそれを見て見ぬふりをしてきたか。いくら今丸くなった父を見てもそれまで母が耐えてきたのを見てきた。


 同じだ。雅司も、結局はそういう男なのだ。そして凛子は水を一気に飲み干した。喉を潤して声を発した。


「……もういい」


 凛子は静かに立ち上がった。


「結婚、辞めます」


 一瞬、静寂が訪れる。


「凛子……?」


「雅司さん、ごめんなさい。でも、無理」


 雅司が驚いたように顔を上げた。


 光江の表情が強張る。


 晃とすみ子も、凛子の決断を受け止めながら、張り詰めた空気に息をのむ。


「こんな結婚、するくらいなら――私は一人で生きるほうがマシ」




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