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第16話 修羅場

 凛子が言い切った瞬間、室内の空気が一変した。


「ああ?」


 光江の眉が吊り上がる。


「ちょっと、あなた何を言ってるの? 今さらそんなこと!」


 徹が割って入る。


「簡単にやめるなんて話じゃないんだよ。もう式場も押さえてあるし、関係者にどれだけ迷惑をかけると思ってるんだ?」


「そうよねえ、徹さん」


 光江が深く息を吐くと、凛子を睨みつけた。


「あなたみたいに好き勝手わがまま言って生きてきた人には、責任の重さなんて分からないんでしょうねぇ」


「……っ」


 凛子は拳を握った。


「第一、何よ? すみ子さん、あなたがあの子を甘やかしすぎたせいよ!」


 また始まった。すみ子への非難。


「そうやって育てたから、何かあったらすぐ逃げる。結婚の責任も果たせない、社会人としても失格よ!」


 すみ子の手が震える。


「……」


 凛子の父・晃は何も言わないまま、ただじっと頭を下げていた。


「それで? どうしたらいいの? キャンセル代はどうするの? 誰が払うの? けやき家が全額負担するのが筋じゃないの?」


「ですが……」


 すみ子が何か言いかけると、徹が冷たく遮る。


「辞めると言い出したのはそちらでしょう。だったら、その分は当然負担するべきだ」


「そちらは何も負担しないと?」


「おかしいですか?」


「すいません、すいません」


 と繰り返す晃の姿が、凛子をさらに苦しめた。思えば、不倫騒動で裁判沙汰になったあの時も、父はずっと頭を下げていてくれた。もうこんな思いをさせたくないと思っていた。


 そしてさらに罵詈雑言が飛び交う修羅場。その間も、雅司は黙っていた。


 凛子が視線を向けても、また目を逸らす。


「……」


 揉めたよりも一方的に罵られて最終的にはあちらの独断で全ての費用を折半することで合意した。


「本当は全てそちら負担ですけど、収入のないお嬢さんのことを思うとねぇ」


 もう、何も期待するだけ無駄だ。


 話し合いは、応接室の使用時間終了ギリギリまで続いた。




 先に雅司たちが出て行った。


 その後、それまでずっと黙って拳を握っていたすみ子が立ち上がって、閉まりきったドアにおしぼりを投げつけた。


「このクソババァ!!」


 すみ子が荒い息を吐きながら叫ぶ。


「だから私は、この結婚やめたほうがいいって言ったのよ!!」


「え……?」


「アンタが雅司さんを好き好き言うから、しょうがないと思ってたけど……あのババアたち、あっちの街では有名なクレーマーだったのよ!」


 凛子の血の気が引く。


「なんでそれを……」


「たまたま知り合いがあの家の近所にいて……“あそこの家の嫁になるの? やめときな”って、言われたわよ……」


 すみ子は震えて、もう言葉が出なさそうだった。


 晃は何も言わないまま、ただ拳を強く握りしめていた。


「まぁ、全額負担になるよりはマシだったろ」


 晃のかすれた声が、妙に遠く感じた。そのまま、何も言えずに建物を出る。


 その瞬間――ぽつぽつと落ちていた雨が、まるで凛子の心を映すように、一気に土砂降りへと変わった



 冷たい雨が降りしきる中、凛子はただ立ち尽くす。


(自分は、なんてことをしてしまったんだろう。両親をこんなに惨めにさせてしまった。


みんなの期待を裏切ってしまった。そう思うと、胸が張り裂けそうになる)


 結婚式まで後数ヶ月、両家の親族や友人、職場には招待状も送っていた。凛子の中で何かが音を立てて崩れた。


 迎えに来ていた美琴。人数分傘を持っている。


「お疲れさま。車すぐそこに停めたから……」


 そう言ってくれる優しさが、かえって苦しかった。


「お姉ちゃん……。ご飯でも食べに行こ」


 と美琴が手を差し伸べてくれたが……凛子は振り払った。


「……ごめん」


 震える声でそれだけ言うと、凛子は踵を返し、駆け出した。


「おい、どこ行くんだ!」


「凛子!」


 後ろから両親たちが呼ぶ声がする。


 でも、もう聞きたくなかった。


 もう、何もかも嫌だった。


 雨に打たれながら、凛子は走る。


 見知らぬ道へ。


 傘もない。行く宛もない。


 ただ、ただ、惨めで、泣きたくて。


「全部、私が悪いんだ……」


 何度も何度も、頭の中をその言葉がぐるぐると回る。


「もう、私は幸せになれない――!!」


 叫んだ声は、激しい雨にかき消された。

 足元はぐちゃぐちゃで、ヒールの靴はすでに泥に沈んでいた。


 凛子はただ無我夢中で走っていた。

 どこをどう走ってきたのか、もうわからない。見知らぬ街。知らない道。

 通り過ぎる人は誰も、彼女を振り返らない。むしろ冷たい目線。


 過去の恋愛の記憶が、次々に頭をよぎる。

 どうして私は、いつもこんな目に遭うの?

 雅司とならうまくいくと思った。

 今度こそ、幸せになれるって――信じてたのに。


 もう、全身ずぶ濡れだった。

 髪からは水が滴り、服も肌に張りついて冷たかった。

 でも、涙だけは止まらなかった。

 とめどなく溢れては、雨と混ざって、顔を流れ落ちていった。


 目の前がにじむ。


 立ち止まったときには、足が震えていた。

 どこにも行けない。助けてくれる人は誰もいない。

 傘もない。行き先もない。


「全部、私が悪いんだ……」


 唇を噛みしめながら、凛子は顔を覆った。


「私は……もう……」


 言葉の続きを飲み込んだその瞬間、雷が轟いた。


「きゃっ……!」


 思わず肩をすくめ、凛子は立ち止まった。

 びしょ濡れの髪が顔に張りつき、頬を伝う雨と涙の区別もつかない。


 行き交う人々は皆、傘を差して足早に通り過ぎていく。

 誰も立ち止まらない。誰も声をかけない。

 まるで、自分がこの世界から切り離された存在みたいだ。


「……さんっ」


 雨音にかき消されそうになりながらも、誰かの声が耳に届いた。

 気のせいかと振り返ろうとしたその時――


「お姉さん、なにやってんの」


 目の前に立っていたのは、傘を差した若い男だった。

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