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第三章 君と出会った

第17話 雨の中で君と出会った

 彼の体には、手作りの看板がぶら下がっていた。雨で文字は滲んでいるが。


「お笑いライブチケット当日券あります! 漫才エベレストナンバーワン優勝! ピンピンズ他、若手芸人多数出演!」


 凛子は思わず目を瞬かせる。何もかもがぐちゃぐちゃで、現実味がなかった。


「はい」


 戸惑っている凛子に、彼は黙って傘を差し出し、そっと彼女をその中に引き入れた。

 さらに、その傘の柄を凛子の手に持たせ、自分の手をすっと引いた。

 彼の手は驚くほど冷たく、それでも、その所作にはどこかぬくもりがあった。


「なにやってんの。風邪をひきますよ。それに……また雷、来ますし」


 凛子は、ありがとうと口に出したかった。けれど、声にならなかった。


 ただ、彼の傘の中にいることが、救いのようで。


 彼は何も言わず、凛子の手を引いた。

 そのまま近くの建物の軒下へと連れて行ってくれる。


 屋根の下に入ると、ようやく雨の音が遠ざかった気がした。


 とその瞬間、どこからともなく若い女性たちがわらわらと現れて、次々にタオルを差し出してきた。彼女たちは大丈夫? 風邪引くよ! と声をかけてくれた。


「な、なに?」


「僕が拭くとセクハラになっちゃうから、お願いしていいですか?」


 そう男が言うと女の人たちは凛子の体をしっかり拭いてくれてタオルを被せてくれた。もう凛子は意識朦朧の中立ってるのもやっとだった。

 中には救急車呼んだ方がいいかしらという声が聞こえて凛子は慌てて首を横に振る。


「とりあえず楽屋に行こう。体が冷えてるだろうし、温めて様子見よう。おいで……」



 人で賑わう会場の中、凛子は何がなんだかわからないまま、彼に手を引かれて楽屋の奥へ連れていかれた。彼自身もかなり雨に濡れている。


「そいやルームウェアもグッズであったから……サイズ合うかな?」


 彼は独り言を言う。グッズ? と凛子は思いながらも


「……そんな、大丈夫です」


 と答えると……。彼は凛子の目をしっかり見つめた。


「大丈夫じゃないよ。どう見ても訳あり。あんな雨の中、びしょ濡れで走ってきて……判断力なんて残ってないでしょ。とりあえず着替えて、温かい飲み物飲んで、少し落ち着いて」


 そう言うと、彼はそっと凛子の手を握った。

 その手は冷たかったけれど、不思議とぬくもりがあった。


「……はい」


 と凛子は答えざるおえなかった。




「ルームウェアもグッズであったから……サイズ合うかな? あ、下着も今、女の子のスタッフさんが買ってきてくれてるから」


「下着まで……」


 凛子は顔を赤らめた。濡れた服に張りついた下着を意識してしまい、目を伏せる。


 男から手渡されたのは、派手なピンク色のルームウェア。

 胸元には「pinpinz」と大きくプリントされている。


「ピンピン……あの、ピンピンズ?」


 思わず声が漏れる。漫才をしていた姿が脳裏に浮かんだ。

 男がぶら下げていた看板の「お笑いライブ」の文字ともつながる。


「下着も買ってきたよ!」


 そこへ、別の女性スタッフがファストファッションの紙袋を持って駆け寄ってきた。


 凛子はお礼を言って袋を受け取る。そっと中を覗くと、黒い下着とブラトップが入っていた。


(……男性の前で開けるんじゃなかった)


 慌てて袋を閉じる。


「お代はいいから、早く着替えてください。袋もあるし、そこのポットには温かい飲み物もあります。……じゃ、僕はここで!」


 彼はバタバタと楽屋を出ていった。


「あっ……」


 お礼、言えてない。

 立ち上がろうとしたけれど、もう彼の姿はなかった。

 凛子はその背に向かって、ぺこりと頭を下げる。


 ──そして、着替えることにした。



 部屋の鍵を閉めて服を脱ぐと、どれもこれもびしょ濡れだった。

 スマホは幸運にも防水で、電源を入れると無事についた。

 通知欄には家族からの着信やメールが並んでいる。


 カバンの中もずぶ濡れ。髪の毛はまだぽたぽたと水を滴らせていた。

 帰り方を考えながら、美琴に連絡しようかと迷う。


(……下着、サイズぴったりだったな)


 そんなことを思いながら、着替えを終えたそのとき──


 コンコンッ


 ドアがノックされた。



「失礼しますー」


 さっきとは違う女性が楽屋に入ってきた。

 首からぶら下げた「STAFF」の文字、ショルダーバッグにはノートと筆記用具がぎっしり詰められている。

 凛子は直感的に、彼女がライブスタッフの裏方だと察した。


「大丈夫ですか?」


 そう言いながら女性は、慣れた手つきでお茶を淹れはじめる。

 凛子は「自分で……」と声をかけようとしたが、その手際の良さに何も言えず、お茶を受け取った。


「……ありがとうございます。すみません、いろいろと……。あの、私を助けてくれた男の人……髪の毛が長くて、少し背が高くて……」


 今どきの若者といった印象のその青年が脳裏に浮かぶ。


「あー、シンね」


「シン……?」


「うん」


 女性はそう言って、部屋の隅のテレビをリモコンでつけた。


「あ、私、百田歩美。ここの事務所のマネージャーです」


「マネージャー……さん……」


 凛子が名乗ると、百田も微笑んで会釈する。


「……欅凛子といいます」


「ふぅん……凛子さん」


 百田はちょっと興味深そうな顔をしてテレビの画面に目を戻す。


 そこには、ライブホールの様子が映っていた。

 たくさんの観客が席を埋め、ざわめきが聞こえる。

 軽快な音楽とともに、2人の若い男性がスタンドマイクを持って登場する。


 ──拍手が沸き起こる。


「あの子よ。さっき傘を差し出したの。シン。ズットチョウシニノッテルズの葛木シンっていう、駆け出しの芸人」


 凛子は画面を見つめる。

 そこには、あのときの青年が映っていた。堂々とした立ち姿と笑顔。

 お笑い芸人だったのか……。


 ──そして、ふとよみがえる記憶。


 雅司と口論になり、実家に戻ったあの日。駅前でチケットを手売りしていた、あの青年……。


(あ……)


 傘の青年とチケットの彼。同じ顔、同じ声、同じ髪。


(あのときの彼だったんだ)




『最近どう?』


『調子に乗んなよ』


『ズットチョウシニノッテルズです! よろしくお願いします!』


 舞台の上でテンション高くはしゃぐ彼は、さっきまでの静かで優しい青年とはまるで別人だった。


「うちの事務所は、ピンピンズってコンビで有名なんだけどね。知ってる?」


「……は、はい。漫才エベレストナンバーワンで優勝した……」


「ああ、それは知ってるか。そうよね、そうね」


 百田は凛子がそれ以上詳しくないことを察して、ひとりで納得したようにうなずいた。

 凛子も、ああ、ここはあのピンピンズが立ち上げた事務所のお笑いライブ会場なのか、と今さらながら理解した。


 でも正直、ピンピンズ以外の芸人はまったくわからなかった。


「この子たちはまだ前説ばかりでね、テレビにはあんまり出てないのよ」


「へぇ……」


「ほかにも、ベーパイとか、九段下とか……」


 たしかに、客席の拍手もまばらだった。

 百田が挙げた名前にも、凛子はピンとこない。知らない芸人ばかりだ。


「ベーパイならわかると思ったんだけどなぁ……まだまだかなー」


 百田は少し苦笑して、画面を見つめた。


『いい加減にしろよな!』

『ありがとうございましたー!』


 元気よく声を張り、ズットチョウシニノッテルズのふたりは舞台を去っていった。


 その後、ピンピンズがステージに登場し、テレビから聞こえてくる大歓声は音と振動となって楽屋の中にも響いてきた。

 さすが賞レースを勝ち取ったコンビだ、と凛子は納得する。こんなすごい人たちが、今この建物の中にいる――父に自慢したいくらいだった。


 ……ああ、と現実に引き戻される感覚があった。


 それよりも助けてくれた、あのシンに会いに行こう。


 凛子が立ち上がると、百田が声をかけた。


「シン、多分すぐ次の現場があるから、今は会えないと思うよ」


「えっ……他の舞台とか?」


「バイト。今日はコンカフェって言ってたかな。相方くんも一緒でさ」


「コンカフェ?」


「なんだっけなー……不思議の国のアリスがモチーフのコンカフェだったかな?」


 百田はスマホを操作しながら、思い出すように言った。


「不思議の国のアリス……コンカフェ……」


「まぁそっちは芸人の仕事じゃなくて、プライベートだから。他にも掛け持ちしてるよ。芸人一本で食ってくのは、やっぱり大変だからね」


 百田は苦笑いして肩をすくめた。


「……そうなんですね。大変ですねぇ」


「よかったら、また不定期でこっちでもライブやるし。ここで毎週やってるから、ぜひ来てみて。これ、私の名刺とチラシ。QRコード読み取ればサイトもあるし。SNSもフォローよろしくね」


「ありがとうございます……」


 名刺には「(仮)東海ベイシーズ チーフマネージャー 百田歩美」と記されていた。受け取ったチラシには、あの葛城シンの姿が載っていた。モデルのように端正な顔立ち。笑っていた――テレビで見るより、ずっと近くに感じる。


「……次に会えたら、ちゃんとお礼を言おう」



 会場から出ると、同じようにライブを終えたたくさんのファンたちがあふれ出していた。


「あ、さっきの……」


 誰かの声に凛子はぎょっとする。身を隠したかったが、着ているのはあの派手なピンク色のスウェット。目立たないはずがない。


(ああもう、なんでこんな格好で……)


 とはいえ、じっとしているのも耐えられず、凛子は濡れた靴のまま走り出した。


 外に出ると、さっきまでの土砂降りが嘘のように雨は止んでいた。だけど、どこへ向かえばいいのかわからない。


 見知らぬ駅前。人の流れ。濡れた髪が首筋に張りついて、寒さが背筋を走る。


 堪忍して、スマホを取り出す。


 震える指で画面をなぞりながら、ふと口をついて出た。


「……美琴……ごめん……私……」




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