その日の深夜前、とある店内にて。
「ハックション!」
勢いよくくしゃみをしたのは、ウサギの耳をつけた一人の店員だった。
「ねー、大丈夫? ラギぃ」
「大丈夫~!」
“ラギ”と呼ばれている彼の本名は、葛木シン。
芸人として活動する傍ら、この“アリスの国”をテーマにしたコンカフェでバイトをしている。今夜もライブを終えてすぐこの店で働くのだ。
ここでは、名字の「カツラギ」から取った「ラギ」という源氏名で呼ばれている。
そんな彼は、黒と白のボーダーベストにフリルのついたシャツ、蝶ネクタイという不思議な衣装に身を包み、目元にはさりげなくラメの光るアイライン。メイクもばっちり決まっている。
店内は薄暗く、それがかえって幻想的な空間を演出していた。天井からは懐中時計やトランプ柄のモビールが揺れ、壁には絵本のような装飾。奥の壁一面にはチェシャ猫やハートの女王のシルエットが描かれたアートが飾られている。
カウンターは小ぢんまりしているが、“夢の国”らしいカラフルな装飾が施され、帽子屋やトランプ兵、チェシャ猫など、アリスの物語をテーマにした店員たちが並んでいた。
「すっごいくしゃみじゃん~」
バーカウンター越しに、数人の女性客が笑い混じりに心配する。
彼女たちは常連のようで、あえてテーブル席ではなくカウンターに並び、店員との会話を楽しんでいる。
「うん、大丈夫。誰かが噂してるのかも、ゾクッとしちゃってさ」
ラギはくったくのない笑顔を見せながら、手元のシェイカーを取り上げる。チェシャ猫のイラストがついたオリジナルラベルのリキュールが、その隣に置かれていた。
「風邪じゃないといいけどね~」
「大丈夫大丈夫! それより、“夢見るチシャ”でいい?」
「出た、ラギのオリジナル!」
目を輝かせながら頷く客たちの前で、ラギは淡い紫色のリキュールをグラスに注ぐ。幻想的なグラデーションに、キャンディのような甘い香りがふわりと立ちのぼる。
ここは、“不思議の国のアリス”をコンセプトにしたカフェバー。
現実から少しだけ逃げたい人たちが、日常の延長線上にある夢を味わいに来る場所。
「そうそう……今日のライブどうだった?」
ラギが、カウンター越しに客たちへ尋ねる。ここに来ている何人かは、彼が出演する事務所ライブの“前説”を観に行ってくれているのだ。
「うんうん、もちろん良き! 舞台でのラギ……じゃなくて、ラギくんのビジュ、爆盛れしてた!」
「そうそう、メイクなしのラギくんも最高ー!」
ビジュアルを褒められて、ラギは照れくさそうに苦笑いしながらも、もっと感想をねだる。
「で、ネタはどうだった?」
ネタと言っても、まだステージに立てるのは前説だけ。それでも客たちは、目を輝かせて口を開く。
「うーん、どうだったかな……てか佐藤っちのツッコミ、早口すぎてさー」
そう言いながら、客のひとりがふと奥に目をやる。そこには、黒服としてホールの様子を見ていた佐藤の姿があった。
シンの相方・佐藤も、この店でバイトしている。ただし衣装は“不思議の国”とは無縁の黒スーツ。視線に気づいた佐藤は、ギョッとした表情で首をすくめる。
「佐藤っちの大げささが、ラギくんの落ち着いたところを引き立ててくれるのよね~」
「わかる~!」
そんな声に、シンは“ラギ”の表情に切り替え、手元のグラスに仕上げのチェリーを添える。
「さてさてー、召し上がれ~」
「きゃー!! すてきぃぃぃ!!」
幻想的なカクテルと、夢の国のような空間に、店内は歓声と笑い声で満ちていった。
※※※
営業が終わり、店員たちは次々とコスチュームを脱ぎ捨て、ため息をつく。ひと息ついたその手には、タバコや缶チューハイ。ウサ耳カチューシャも外し、店内からは非日常感はすっかり消えていた。
ラギからシンへと戻った彼も、ライターをカチカチ鳴らしながらタバコに火をつけようとする。
「先に掃除する!」
厨房の奥から黒服の佐藤がぴしゃりと声を飛ばし、ついでにシンの背を小突いた。
「シン以外もな!」
「はーい……」
シンはタバコをしまい、仕方なく掃除用のモップを手に取る。だがその直後――
「ハックション!」
また盛大なくしゃみ。
「おい大丈夫かよ? さっきからずっと鼻声だったぞ……雨、ひどかったからなあ」
「大丈夫ー。それより、あのずぶ濡れだったお姉さんのほうがきっと風邪ひいてるって。僕はだいじょ……ぷしゅん!!」
再びくしゃみ。どうやら止まりそうにない。
「……お前、うつすなよ。次のライブ、前説じゃなくて“本チャンの舞台”に立てるかもしれない審査あるだろ」
佐藤が真顔で言った。
そう、東海ベイシーズの舞台は、ただ若手を並べて立たせているわけではない。
ネタを披露するには、まず審査がある。どのコンビもまず“ネタ見せ”をして合格した者だけが、照明の当たる本舞台に立てるのだ。
惜しいものは前説やMC担当。それすら通らなかった者は、出番はトークコーナー程度。ほかはチケットのもぎりやグッズ販売など、裏方に回される。
「本ネタ立ち、やっと見えてきたんだからな。風邪とかシャレにならねーからな、マジで」
佐藤の声は冗談めいていない。
「にしてもお前さ、この店では芸人の話はしないって言ったじゃん。ライブの勧誘以外はさ」
「んー、だって感想気になるじゃん……」
「でもまたビジュ最高ーとか、ネタじゃないところ言われてたけど?」
佐藤はシンのファンたちの言い方や仕草を真似る。それを言われてシンは苦笑いした。
「っすよねー、そこじゃなくてネタ見てくれよって感じなんだけど」
「観客席もシンじゃなくてラギくーんとか……他の客引いてたよ」
「だよねぇーくしゅん」
やはりくしゃみが止まらないシン。寒気も降るようで肩を擦り付ける。
「やっぱり風邪だ、さっさと帰って休め」
「まだ掃除するよ」
「帰れ、帰りなさい。まぁ一週間はネタ見せ以外は芸人の仕事ないからその代わり他の仕事してーって……」
佐藤はコンカフェのシフト表を見るとシンは出勤数が少ない。
「おい、シフト入ってなくていいのか?」
「大丈夫。……他の仕事、入れてるから」
どうやらシンは、もう一つのバイト先にシフトを入れているようだ。ただ、その詳細については話すつもりがないらしい。
「あっちよりこっちの方が稼げるのに。お前だったら……」
佐藤がぼそりと呟いたとき、シンは少し周囲を気にしてから声を落とした。
「……ここで働くの、ちょっと疲れた」
「は? 売れてないのにバイト辞めるとか……冗談キツいわ」
「辞めるとは言ってないよ。ただ……この仕事でできた固定ファンもいるしね。でもまぁ、そろそろ違う空気も吸いたいってだけ」
軽口のように言いながらも、どこか本音が滲んでいた。
「お前な……俺だって今、脚本の仕事抱えてんだよ。芸人の次に食ってけるのは、こういう裏方だ」
「あー、知ってる知ってる。次のやつ、採用されたらしばらく安泰なんでしょ?」
佐藤は元々シンと同じ劇団に所属していた。ネタ作りの手腕を買われて、今はコンビやライブの台本をいくつも手がけている。
「終わってから徹夜で台本……マジで死ねる」
「無理しないでね……プシュン!」
またくしゃみが出る。シンは鼻をすすりながら肩をすくめた。
「ほら、やっぱ風邪だろ。とっとと帰れ。薬飲んで、寝ろ!」
「はーい……」
ぶっきらぼうな佐藤の言葉に苦笑しながら、シンはふと鏡に映る自分を見た。
ラギ――“アリスの世界”の住人として振る舞うこの姿は、演技を身につけたシンには馴染みすぎていた。けれど、その“演じた自分”にどこか違和感も感じていた。
このまま、ずっとこうしていていいんだろうか。
顔だけのファンがどこまで応援してくれるのか。いつまで今のままでいられるのか。
バイトに追われてネタも浮かばず、同期のベーパイとは差が開くばかり。
まだ二十代。軌道修正だって、できるはず。――そう思いたい。
「あー、頭いてぇ……帰ろ。もう今日は何も考えたくねぇや」