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第20話 前に進もう

 一方凛子。


 家に帰ると、玄関には晃とすみ子が待っていた。

 ピンク色のスウェット姿の凛子を見るなり、二人とも一瞬目を丸くしたが、すぐにすみ子が一歩前に出て、黙って凛子を抱きしめた。

 晃もまた、何も言わず、そっと凛子の背中を軽く叩いた。


「……大人気ないことをしました。ごめんなさい」


 凛子がうつむいて謝ると、すみ子はその背中を抱いたまま、ふっと息を漏らして笑った。


「ほんと……でも、あんた、すごいわよ。私が若い頃には、できなかった。こんなにエキセントリックなことなんて、ひとつも……」


 それは、若い頃に嫁いできたすみ子が、義父母の厳しさに耐え、声を上げられなかったあの日々を思い出しての言葉だった。

 時代もある、環境もある――けれど、何より自分が黙って耐えるしかないと思っていた。

 でも、娘には違っていてほしかった。


 すみ子の隣で、晃は黙っていた。

 あの頃、何もできなかった。長男として親に逆らえず、すみ子の苦しみに背を向けていた過去がある。

 そして、今。凛子が経験した一連のことを見て――自分がまた、娘に同じ思いをさせてしまったのではないかという、重く鈍い悔いが胸の底に残っていた。


 すみ子の言葉を、晃は黙って聞いていた。

 過去をなかったことにはできないけれど、せめて今、寄り添いたいと。言葉にはできずとも、そんな想いが、その背中ににじんでいた。


 後ろにいた美琴も頷いた。


「……あっちの本性、マジで見えたよ。あれ、絶対地獄だったでしょ。今回、ちゃんと破談になってよかったと思う」


 凛子はゆっくりと首を横に振った。

 よかった、と簡単には言えない。

 けれど、もう終わらせなければならないとは、はっきり感じていた。


「その格好はともかくね。とりあえずお風呂入りなさい。書類の手続きとかは、明日でいいから」


「……うん」


 凛子が家に入ろうとしたとき、晃の視線がふとそのスウェットにとどまった。


「……それ……ピンピンズの……」


 不意につぶやいた言葉に、凛子は答えなかった。



 風呂場から上がり、スウェットももらったものを着たまま。こんな明るい色の服は着たことがなかっただけに、少し違和感ある。

「30代でこの色はちょっとなぁ……」

 髪を乾かしながら、凛子は脱衣所の鏡をぼんやりと見つめた。


 美琴も、夫とのことで大変なのに。


 そう思うと、胸の奥がじんわりと痛んだ。

 夫とうまくいっていない美琴の話は何度か聞いていた。

 自分のことで巻き込むなんて、本当はしたくなかったのに――結局、心配をかけ、送り迎えまでさせてしまった。申し訳ないと凛子はタオルを洗濯カゴに入れながら、そっと息をついた。



 部屋に戻り、スマホは開くとまた雅司からのメールがありそうで怖くて開けなかった。


 ノートパソコンを開いて百田からもらったチラシを見ながら検索する。

 事務所のサイトがでた。やはりピンピンズが大きく出ている。他にも何組か芸人の写真があり、凛子は数組ほどどこかで見たことある……と言いながらもその中から探し出したのは……。


「葛木シン……」


 ズットチョウシニノッテルズとしてのコンビ写真、そして相方の佐藤というメガネ姿の男の横に葛木シンがいた。


 まず凛子はびっくりする。


「えっ……23歳?!」


 凛子はシンの年齢と自分の年齢の差を計算した。


「9歳下……?! んで、隣の人……佐藤っていう人は30歳……お笑い芸人でさえも年下になっていくぅううう」


 凛子は30歳を超えるとやはり年齢を気にするようだ。確かにあどけない表情からすると若いというのはわかったのだが。

 シンは調理師免許を持っている、元劇団員。5年前に入所、以前は別の人とコンビを組んでいて、今の相方とは2年目になるらしい。


「そいや……コンカフェって言ってたけど……なんだろう、コンカフェ」


 凛子はその言葉の意味がわからなかった。カフェなのか、何かの略なのか。それに加えて“不思議の国のアリス”のコンセプトと聞いて、ますます混乱する。


 検索してみようかと思ったものの、やらなければならないことは他に山ほどある。それに、こんなふうに何かを調べて現実逃避している場合じゃない。 


 だけど。


「ただ、お礼が言いたいだけ……」


 助けてくれた人に、ただ感謝の気持ちを伝えたい。それだけなのに、妙にそれが遠く感じて、胸がもやもやとする。


 気づけば身体も心も疲れきっていて、凛子は静かにノートパソコンを閉じた。




 そんなこんなで、また一週間が経った。


 この一週間も、やはり過酷だった。


 結婚式に招待していた人たちへの詫び状を書き、業者へのキャンセルの電話をかける。凛子は慌ただしい日々を送っていた。

 両親も親戚への連絡に追われ、家の中はなんとも落ち着かない空気に包まれていた。


「まぁ、人生いろいろある。がんばれ」

 そう言ってくれたのは、以前の職場の上司。


「今は体、大事にしてね」


 学生時代の友人からの優しいメッセージ。妊娠はしてないよ、とは返答したかったがやめておいた。


 思いがけず、励ましの言葉が次々と届いた。凛子はそのたびに頭の下がる思いだった。

 確かに、自分さえ我慢していれば、結婚は中止せずに済んだかもしれない――そんな思いも一瞬よぎる。


 でもこれは、わがままなんかじゃない。


 職場結婚だったこともあり、共通の知人は多い。雅司が今、どんなことを言っているのか、それも正直気にはなる。でも、そこにばかり気を取られていても仕方がない。


 そんな中、京佳から届いた言葉は――


『……不安が、カタチになったね』


 励ましの言葉が続く中で、彼女のその一文だけが、ズシンと胸に響いた。でも、そのあとに続いた言葉が凛子を救ってくれる。


『でも、本当に良かったと思うよ。たとえリーダーがまた何か言っていたとしても、私や凛子と一緒に仕事をしていた人たちは、ちゃんと見てるから。安心して。もう、気にせずに。今はゆっくり休んで』


 その文章を読み終えた瞬間、凛子の心がふっとゆるんだ。


 ああ、そうか。わかってくれる人はちゃんといる。


 気が緩んだせいか、ぽろぽろと涙がこぼれた。




 話し合いの日から数日、疲れとストレスに襲われ、凛子はほとんど外に出ることもなく、必要な手続きを淡々とこなす日々が続いていた。


 部屋には、乱雑に置かれた住宅情報誌と求人誌。つい先日までは、そこに結婚情報誌が積まれていたというのに――。


 そのとき、電話が鳴った。画面には「美琴」の名前が表示されている。


 彼女はあの日、凛子を実家まで送り届けたあとすぐに夫の元へ戻り、話し合いに臨んでいたはずだった。


『お姉ちゃん、なんとか決着ついたよ!』


 明るく響く声に、凛子は驚く。


「……離婚、したってこと?」


『そうそうー! っていうか、もうだいぶ前から準備してたの。姉ちゃんの知らないところで、少しずつ進めてたからスムーズにいったわ』


 あのマイペースな妹が、いつの間にこんなにしっかりしていたなんて。驚きしかない。


 凛子の同級生にも、離婚に踏み切った人はいたが、時間も手続きもとにかく大変だったと聞いていた。


『姉ちゃんも、やることやったら、あとはスッキリ切り替えていこうよ! 私なんか今の職場で正社員になるし、そこは抜かりなくやった! 家は……まぁ、しばらくそっちにお世話になるけど。将来的には社宅とか、ちゃんと考えてるから!』


 なんと頼もしい。少し前までは頼りなかった妹が、今はすっかり未来を見据えている。


 それに比べて、自分は――。


『腐っちゃダメよ! 32歳なんて、まだまだ若い! 私だって来年30で子どもいるけどさ! これからだよ、姉ちゃん!!!!』


 京佳のメールに続き、美琴のエールに、凛子の心がついに限界を超える。涙が、堰を切ったように溢れ出した。


「うん!!! 頑張る!!!!」


 そのとき、不動産冊子を見て凛子は思い出した。


「……あれ、そういえば……来週から住む予定だった物件、2ヶ月分の家賃……先に払ってたような……住まないままで無駄にするくらいなら――」



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