一方凛子。
家に帰ると、玄関には晃とすみ子が待っていた。
ピンク色のスウェット姿の凛子を見るなり、二人とも一瞬目を丸くしたが、すぐにすみ子が一歩前に出て、黙って凛子を抱きしめた。
晃もまた、何も言わず、そっと凛子の背中を軽く叩いた。
「……大人気ないことをしました。ごめんなさい」
凛子がうつむいて謝ると、すみ子はその背中を抱いたまま、ふっと息を漏らして笑った。
「ほんと……でも、あんた、すごいわよ。私が若い頃には、できなかった。こんなにエキセントリックなことなんて、ひとつも……」
それは、若い頃に嫁いできたすみ子が、義父母の厳しさに耐え、声を上げられなかったあの日々を思い出しての言葉だった。
時代もある、環境もある――けれど、何より自分が黙って耐えるしかないと思っていた。
でも、娘には違っていてほしかった。
すみ子の隣で、晃は黙っていた。
あの頃、何もできなかった。長男として親に逆らえず、すみ子の苦しみに背を向けていた過去がある。
そして、今。凛子が経験した一連のことを見て――自分がまた、娘に同じ思いをさせてしまったのではないかという、重く鈍い悔いが胸の底に残っていた。
すみ子の言葉を、晃は黙って聞いていた。
過去をなかったことにはできないけれど、せめて今、寄り添いたいと。言葉にはできずとも、そんな想いが、その背中ににじんでいた。
後ろにいた美琴も頷いた。
「……あっちの本性、マジで見えたよ。あれ、絶対地獄だったでしょ。今回、ちゃんと破談になってよかったと思う」
凛子はゆっくりと首を横に振った。
よかった、と簡単には言えない。
けれど、もう終わらせなければならないとは、はっきり感じていた。
「その格好はともかくね。とりあえずお風呂入りなさい。書類の手続きとかは、明日でいいから」
「……うん」
凛子が家に入ろうとしたとき、晃の視線がふとそのスウェットにとどまった。
「……それ……ピンピンズの……」
不意につぶやいた言葉に、凛子は答えなかった。
風呂場から上がり、スウェットももらったものを着たまま。こんな明るい色の服は着たことがなかっただけに、少し違和感ある。
「30代でこの色はちょっとなぁ……」
髪を乾かしながら、凛子は脱衣所の鏡をぼんやりと見つめた。
美琴も、夫とのことで大変なのに。
そう思うと、胸の奥がじんわりと痛んだ。
夫とうまくいっていない美琴の話は何度か聞いていた。
自分のことで巻き込むなんて、本当はしたくなかったのに――結局、心配をかけ、送り迎えまでさせてしまった。申し訳ないと凛子はタオルを洗濯カゴに入れながら、そっと息をついた。
部屋に戻り、スマホは開くとまた雅司からのメールがありそうで怖くて開けなかった。
ノートパソコンを開いて百田からもらったチラシを見ながら検索する。
事務所のサイトがでた。やはりピンピンズが大きく出ている。他にも何組か芸人の写真があり、凛子は数組ほどどこかで見たことある……と言いながらもその中から探し出したのは……。
「葛木シン……」
ズットチョウシニノッテルズとしてのコンビ写真、そして相方の佐藤というメガネ姿の男の横に葛木シンがいた。
まず凛子はびっくりする。
「えっ……23歳?!」
凛子はシンの年齢と自分の年齢の差を計算した。
「9歳下……?! んで、隣の人……佐藤っていう人は30歳……お笑い芸人でさえも年下になっていくぅううう」
凛子は30歳を超えるとやはり年齢を気にするようだ。確かにあどけない表情からすると若いというのはわかったのだが。
シンは調理師免許を持っている、元劇団員。5年前に入所、以前は別の人とコンビを組んでいて、今の相方とは2年目になるらしい。
「そいや……コンカフェって言ってたけど……なんだろう、コンカフェ」
凛子はその言葉の意味がわからなかった。カフェなのか、何かの略なのか。それに加えて“不思議の国のアリス”のコンセプトと聞いて、ますます混乱する。
検索してみようかと思ったものの、やらなければならないことは他に山ほどある。それに、こんなふうに何かを調べて現実逃避している場合じゃない。
だけど。
「ただ、お礼が言いたいだけ……」
助けてくれた人に、ただ感謝の気持ちを伝えたい。それだけなのに、妙にそれが遠く感じて、胸がもやもやとする。
気づけば身体も心も疲れきっていて、凛子は静かにノートパソコンを閉じた。
そんなこんなで、また一週間が経った。
この一週間も、やはり過酷だった。
結婚式に招待していた人たちへの詫び状を書き、業者へのキャンセルの電話をかける。凛子は慌ただしい日々を送っていた。
両親も親戚への連絡に追われ、家の中はなんとも落ち着かない空気に包まれていた。
「まぁ、人生いろいろある。がんばれ」
そう言ってくれたのは、以前の職場の上司。
「今は体、大事にしてね」
学生時代の友人からの優しいメッセージ。妊娠はしてないよ、とは返答したかったがやめておいた。
思いがけず、励ましの言葉が次々と届いた。凛子はそのたびに頭の下がる思いだった。
確かに、自分さえ我慢していれば、結婚は中止せずに済んだかもしれない――そんな思いも一瞬よぎる。
でもこれは、わがままなんかじゃない。
職場結婚だったこともあり、共通の知人は多い。雅司が今、どんなことを言っているのか、それも正直気にはなる。でも、そこにばかり気を取られていても仕方がない。
そんな中、京佳から届いた言葉は――
『……不安が、カタチになったね』
励ましの言葉が続く中で、彼女のその一文だけが、ズシンと胸に響いた。でも、そのあとに続いた言葉が凛子を救ってくれる。
『でも、本当に良かったと思うよ。たとえリーダーがまた何か言っていたとしても、私や凛子と一緒に仕事をしていた人たちは、ちゃんと見てるから。安心して。もう、気にせずに。今はゆっくり休んで』
その文章を読み終えた瞬間、凛子の心がふっとゆるんだ。
ああ、そうか。わかってくれる人はちゃんといる。
気が緩んだせいか、ぽろぽろと涙がこぼれた。
話し合いの日から数日、疲れとストレスに襲われ、凛子はほとんど外に出ることもなく、必要な手続きを淡々とこなす日々が続いていた。
部屋には、乱雑に置かれた住宅情報誌と求人誌。つい先日までは、そこに結婚情報誌が積まれていたというのに――。
そのとき、電話が鳴った。画面には「美琴」の名前が表示されている。
彼女はあの日、凛子を実家まで送り届けたあとすぐに夫の元へ戻り、話し合いに臨んでいたはずだった。
『お姉ちゃん、なんとか決着ついたよ!』
明るく響く声に、凛子は驚く。
「……離婚、したってこと?」
『そうそうー! っていうか、もうだいぶ前から準備してたの。姉ちゃんの知らないところで、少しずつ進めてたからスムーズにいったわ』
あのマイペースな妹が、いつの間にこんなにしっかりしていたなんて。驚きしかない。
凛子の同級生にも、離婚に踏み切った人はいたが、時間も手続きもとにかく大変だったと聞いていた。
『姉ちゃんも、やることやったら、あとはスッキリ切り替えていこうよ! 私なんか今の職場で正社員になるし、そこは抜かりなくやった! 家は……まぁ、しばらくそっちにお世話になるけど。将来的には社宅とか、ちゃんと考えてるから!』
なんと頼もしい。少し前までは頼りなかった妹が、今はすっかり未来を見据えている。
それに比べて、自分は――。
『腐っちゃダメよ! 32歳なんて、まだまだ若い! 私だって来年30で子どもいるけどさ! これからだよ、姉ちゃん!!!!』
京佳のメールに続き、美琴のエールに、凛子の心がついに限界を超える。涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「うん!!! 頑張る!!!!」
そのとき、不動産冊子を見て凛子は思い出した。
「……あれ、そういえば……来週から住む予定だった物件、2ヶ月分の家賃……先に払ってたような……住まないままで無駄にするくらいなら――」