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第21話 再会のはずが……

 凛子は最低限の荷物を持ち、新居として決めていた部屋に住むことになった。


 鏡台は置いてきたが、2ヶ月間だけそこに住むことで、次の住まいと仕事を早く決めなければならないという気持ちを切り替えようとしていた。

 雅司側にはこのことを伏せておいたが、2ヶ月分の家賃が返却できないことについては了承してもらったようだ。


 もし何かあっても、同じマンションには哲也やその部下、警察OBの夫婦も住んでおり、凛子の突然の決断でも受け入れてくれるとのことで安心できた。


 しかし、2ヶ月という期間はあくまで一時的なものである。哲也からは、3ヶ月後には新しい入居者が決まっていると聞かされていた。タイムリミットは意外と短い。





 お笑いライブ当日。前日までに書き終えた結婚式中止の詫び状を手に、各種手続きの資料を抱え、久しぶりにバッチリとメイクを決めた凛子。


「……っし、このまま腐ってちゃダメよね」


 久しぶりにメイクを整え、気持ちを新たにした凛子は、書き終えた詫び状と手続きの資料をそれぞれの場所に届け、ライブ会場に向かうことにした。


 婚約破棄の話し合いが行われたホテルからライブ会場までは、意外にも近い距離だったが、どのようにしてあの雨の中ここまでたどり着いたのか、凛子はほとんど覚えていなかった。


 そもそもこの街自体、彼女はあまり来たことがなく、土地柄もよくわからなかった。もし少しでも違う路地に迷い込んでいたら……本当に風邪をひいていたかもしれないと、今さらながら思った。


 地図アプリを頼りにライブ会場に到着すると、偶然にもチーフマネージャーの百田が観客を誘導している姿を見かけた。



 すると、そのうちの観客数人が凛子に気づき、


「あの時、ずぶ濡れだった人!」


 と指さして言われた。流石に凛子は苦笑いを浮かべたが、それは事実である。


「あら、本当だわ」


 凛子は彼女たちの前に歩み寄り、軽く頭を下げた。桃田には近くの菓子店のお菓子を手渡し、さらに、ピンピンズのグッズであるスウェットの値段を調べ、お金を上乗せして渡した。


「先日はありがとうございました」


「いいのよ、いいのよ。てか、お金……これは受け取れないわ。今日はライブ見に来たの?」


 凛子はシンたちにお礼を言うために来たのだが、実際はライブを最後まで見るつもりではなかった。

 だが、外にいる売り子の芸人が立っていて、どうやら席に空きがあるようだった。今日はシンでなく、知らない若手の芸人が出ていた。


「このお金でぜひチケットを買ってライブを見てください。良かったらグッズも買って!」


 百田はニコニコしながら、凛子をライブ会場へと誘導した。周りの視線が集まり、凛子はそれを感じたが、あまり気にしないようにした。





 会場に入ると、周りを見渡す限り、ほとんどがピンピンズのファンで、彼らのグッズを身につけている人が多いことが一目でわかった。


「ねぇ、お姉さん、こないだ雨の中にいた人でしょ? あなたは誰のファン?」


 横に座ってきた女性に声をかけられた。自分よりも若いのは明らかだが、その女性はピンピンズのグッズを身に着けていない。

 しかも「凛子=雨の中にいた人」と覚えている目撃者が多いことに、凛子はなんだか恥ずかしさを感じた。


「えっと……その、ズットチョウシ……なんだっけ」


 名前が長すぎて思い出せない凛子。


「あ、ズットチョウシニノッテルズでしょ? よく前説をしてる子たち」


「は、はい……そうです。あなたは?」


 すると、その女性が着ているTシャツを指さすと、ジャガイモと豚の絵が描かれていた。


「ベーコンクラッカーパイ! 略してベーパイ! ピンピンズの次は、この2人が来ると思うの。ズットと同期だけどさー。よろしくね」


 と首を傾げるその姿に、凛子はまた名前が覚えられないことに苦笑いを浮かべた。だが以前百田からベーパイという固有名詞が出てたのでこのことか、と。

 サイトでもチラッと見たが見た目はごっつくて怖そうな雰囲気で意外とテレビやラジオのレギュラーが多かったという印象であった。


 その時、会場にブザーが鳴り響き、ピンマイクが置かれた。

 ……凛子は緊張していた。あの時は画面越しに見たシンを、今度は席から間近で見ることができる。


 だが……。




「こんにちはー!」


「今日は俺らが前説だーい!」


 なんだこの巨漢たちは……と凛子は唖然とした。その姿に思わず目を見張ったが、すぐに隣のベーパイファンの女性が嬉しそうに顔を輝かせているのに気づいた。


「まさか……ベーパイが前説って……うれしっ……うれしすぎるぅー!」


 それがベーパイか、と凛子は先日のシンたちの前説とはまた違ったエネルギーを感じ、場が一気に盛り上がっているのがわかった。

 観客も笑顔を浮かべ、期待に満ちた顔が並ぶ。


「もう俺ら前説やらねーって思ってたけどさ」


「おいそれ言うなよ、出番ある分ギャラ高いんだぜ」


「るせーな」


 毒舌混じりのやり取りに、会場はどっと笑いが起きる。観客の笑い声に合わせて、場が温まっていくのが感じられた。


「だってよ、いつも前説やってるチョウシモンたちがよ」


「省略するなよ、ズットチョウシノッテルズ……長いわ、改めて言うとさ」


「おう、だからチョウシモンなんだよ」


「そうそう、一応同期なんだけどな。あっちはコンビ組んで2年だけど、二人とも入所は俺らと同じ5年前でなぁ」


 ほぉー、と凛子は思わず耳を傾ける。プロフィールからもわかっていたがシンは高校生からお笑いをしているという計算になる。少し前のめりになる彼女の視線が、ステージに集中する。


 トークが軽快に続き、観客の笑い声も途切れることなく続いたが、次に語られた言葉に凛子はハッとする。


「チョウシモンの一人がこないだの雨のときに女の人助けて雨に濡れて」


「シンな。あいついいことするんだな、まぁいいやつだけど」


 観客から笑いが起きる中、凛子は自分のことだと気づき、胸がギュッと締め付けられる。


「それで風邪引いちゃって」


「まじか、神様ひどいな。人助けしたのに」


「風邪こじらせて一週間、相方にもうつしちゃってコンビでしばらく休んでるんだよ」


 凛子はその言葉を聞いて、血の気が引いた。さっき百田に会ったときには何も言われなかったが、この瞬間、自分がシンを風邪にさせてしまったことに気づく。


 隣のベーパイのファンが自分を見ているのに気づき、他にも数人がじっとこちらを見ている。目線が痛いが、凛子はその視線を避けることができなかった。


「……私のせいで……」


 その後、お笑いライブは2時間ほど続いた。ピンピンズや他の芸人たちのコントに、観客は大きな声で笑い、拍手を送り、和やかな雰囲気が広がっていた。

 しかし、凛子はそのすべてを受け入れることができず、心の中で自分を責め続けた。笑うどころか、あの一言が頭から離れず、終始申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 会場の熱気が感じられる中、彼女はどこか自分だけが浮いているような気分になっていた。周りは楽しそうに笑い声を上げ、次々と繰り広げられる芸人たちのパフォーマンスを堪能している。

 その中で凛子は、ただ静かに席に座り、目の前のステージがどれだけ楽しいものであったとしても、心から楽しむことができなかった。


 隣の女性が


「ベーパイも最高だったけど、他のコンビも面白かった!」


 と興奮気味に話している。凛子は今までこういうライブに入ったことがなく、それでも少し心が熱くなった気持ちは感じ取れたが少し複雑な気持ちで見ていた。




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