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第22話 ようこそ喫茶モリスへ

「悪いことしちゃったな」


 お笑いライブが終わるなり、凛子はすぐさま会場を後にした。彼女の心には、シンが風邪を引いたことと、その影響でコンビの仕事が減ってしまったことが重くのしかかっていた。

 自分が風邪をひいていればよかったと、どうしてもその思いが頭から離れない。


 ふと、コンビニの前を通ると、大手のコンビニのポスターにピンピンズの姿が大きく載っており、彼らの人気ぶりを感じさせる。

 凛子は無意識に足を止め、コンビニの中に入っていった。夕飯を買おうとするが、どこかで「これって高いな」と感じる。心の中で無駄にお金を使う気はしなかったが、なんとなく店の中を歩き回る。


 そして、ふと雅司の言葉を思い出した。

「コンビニを使うやつは情弱だ」


 その言葉が、何故か今も凛子の頭に残っている。雅司はいつも「情弱」だとか「無駄使い」とかをよく口にしていた。

 その度に凛子は打ち消そうとしていたが、あの頃の記憶がまた蘇る。苦笑しながら、凛子は頭を振ってその考えを追い払おうとする。


「もう、忘れたはずなのに……」


 彼の言葉が、どうしても心に引っかかって離れなかった。自分が気にしてはいけないものなのに、それがどうしても絡みついてくる。


 コンビニで何も買わずに出るのも気まずかったため、凛子は無意識に無料のバイト求人雑誌を手に取っていた。

 目に入った「正社員募集」の文字を追っていたが、店員に軽く咳払いをされて我に返る。慌てて雑誌を戻し、慌ただしく店を後にした。



 外に出てしばらく歩きながら、再び晩ご飯のことを考える。しかし、見知らぬ街で晩御飯を選ぶというのはこんなにも難しいことなのかと感じる。地元にもあるチェーン店があるが、人の多さに気が乗らない。


「このまま帰って冷凍食品を食べるか……それでもいいんだよな」


 本当に、それでいいと思う。冷食を食べること自体に問題があるわけではないけれど、それでもどこかで満たされない自分がいる。それにやはり頭の片隅に雅司や雅司の親たちが頭をよぎる。料理ができない自分を本当に後悔していた。 




 駅に向かって歩いていると、ふとコーヒーの香りが漂ってきた。


 そこには古びた看板に「喫茶店 モリス」と書かれている。


「モーニングからディナーまで」


 手書きでそう書かれた文言に惹かれ、凛子は自然とその喫茶店へと足を運んだ。


「前に来た時にこんな店、あったかしら……」


 扉を開けると、目に飛び込んできたのは落ち着いた内装。アンティーク調の家具が並び、店内はほんのり照明で照らされていて、どこか懐かしさを感じさせる空間だった。コーヒーの香りは、普段インスタントでしか飲まない凛子には新鮮で、思わず深呼吸したくなるような心地よさがあった。


「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」


 初老の男性がカウンターに座っていて、白髪に黒縁メガネ、白シャツにエプロンというシンプルな装いで、まさにこのアンティークな喫茶店にぴったりな佇まいだ。


 マスターと思われる男性は背が高く、どこか昔のイケメンを思わせる雰囲気があり、目尻のシワが物語る優しげな笑顔に、凛子は思わずドキッとした。


 30歳を過ぎ、自分が少し年上でなく、自分は世で言う枯れ専になったのであろうか、いやまだ早いと思いながら窓際のテーブル席に腰を下ろした。


 店内は静かで、お客も少なく、まるで時間がゆっくりと流れているかのように穏やかだった。しばらく荒れた日々を送っていた凛子にとって、この上なく居心地の良い場所だ。


 メニューを手に取ると、予想に反して値段はとても良心的で、凛子は少し驚く。

 こういう喫茶店は高いイメージがあったが、意外にも手軽に立ち寄れる価格だった。そのため、普段はコーヒーチェーン店やコンビニのコーヒーで済ませていたが、ここでは何か特別なものを楽しめそうな気がした。


 店内を見渡しながら、少し癒されるような心地よさを感じていた。

 仕事帰りのサラリーマンがスパゲッティを食べながら新聞を読み、学生らしい男性がノートパソコンを開きつつも、時折カレーを食べている。様々な客がいて、敷居が高いわけではないと感じる。


 しばらくすると、マスターが凛子の元にやってきた。



「いらっしゃいませ。この店のマスターでモリスと申します。本日は勝手ながらメニューのご提供にお時間かかりますがスパゲッティ、ピザやトーストなどこの辺りのメニューでしたら早くお出しできます」


 マスターの落ち着いた声に凛子は自然と笑みが出てしまった。

 あと喫茶の名前がマスターの名前からか、と。苗字だろうか下の名前ではないだろうなと思いながらメニューを見て


「じゃあ、これをお願いします」


 とたらこスパゲティを頼んだ。ミートスパゲッティやイタリアンスパゲッティでもよかったがたらこスパはしばらく食べていなかった。


「かしこまりました。それまでコーヒーはいかがですか」


「コーヒー……」


「お時間いただきますので……サービスです」


「は、はい。じゃあ」


 ふとカウンターの上にある昔ながらの、実験室のような装置、あそこの機械をみてあれでコーヒーを作るのかとなんかワクワクしてきた凛子。


 マスターの動作は無駄がなく自然であった。

 彼が去った後にカバンから求人雑誌を取り出して探してみるが新しい物件探しとキャンセル代の返済もあるとなると選り好みをしてる場合ではないと思うとかなり自分の条件を当てはまるのはダメであろう、と絶望的になる。


 ハローワークも行きたいところだがどこも同じだ。しかも会員登録などをするとかなりの時間を要いる。

 そんなわがままを言ってる場合ではないが……凛子はため息をついた。


「寿退社したばかりの出戻り訳あり30超えの女、どこが採用してくれるんだか……」




 数分後。


「おまたせしました」


 凛子は求人雑誌をカバンにしまった。

 運ばれてきたブレンドコーヒー。とても良い香り。コーヒーを淹れる機械の動作音が聞こえてきて美味しそうなのはもうわかっている。


「もうしばらくお待ちください」


 確かに少しお腹が空いてきた。さっきまではあまりお腹空いていなかったのに。器もアンティーク調。

 コーヒーを一口含むと、その優しい香りと豊かな味わいに少しだけ気持ちが和らぐのを感じた。


「……おいしい」


 凛子はカップを置き、窓の外に目をやる。中庭が美しく整っていてライトアップされている。

 ミルクと砂糖もあったのでそれを足す。美味しいのだがやはり自分にはまだブラックで飲むのはまだ早い舌だったようだ。


 そして5分ほど過ぎて

「お待たせしました、たらこスパゲティです」

 と出てきたのは明らかに冷凍なものよりも綺麗でおしゃれなたらこスパゲティ。いい匂いが鼻にすっとくる。


「ごゆっくりお召し上がりください」


 凛子は会釈した。


 スパゲッティの麺の硬さもよく、味もくどくない。


 あまりのおいしさにあっという間に完食してしまった。


「ここ、いい場所だな……値段も良心的だし、この辺りで働けるところないかしら」


 と再び求人雑誌を開いて探し始めた。が、やはりそう簡単に見つかることはなく、長居するのもアレだと帰ってから探すことにした。



 会計を済ませようとカウンターに向かうと、マスターが再び優しく微笑んでくれた。


「ありがとうございました。モーニングやランチもやってますから、またぜひいらしてくださいね」


 あまりにもさりげない一言だったが、どこか温かさが感じられ、胸が少しだけ高鳴る。


 しかし、すぐに心の中で傷が癒えない今、焦るのはよそう、と。


「こちらこそ、ありがとうございました。また寄らせていただきます」


 そう言って帰った。




 家に帰り、求人サイトを開いて物件探しと併せて仕事を検索をする。


「あんな居心地のいい場所の近くで働けたら、少しは日常が変わるのかも」


 などと考えてしまう。


「あの店で働くとか? いやいや飲食の仕事したことないしそもそも料理できないじゃーん」


 と1人で突っ込む。料理できなかったのも今回の婚約破棄の一つの原因でもある。


 するとふと画面に


「事務員の正社員募集!!」


 の文字が目に飛び込んできた。それは、偶然にも今日訪れた喫茶モリスの近くのモール内にある職場だった。


「こんな偶然もあるのか……?!」


 いまはまだ自信が持てないし、すぐに新しい環境に飛び込む勇気は湧かないが、何か新しい生活のきっかけになるかもしれないと、凛子の中で少しだけ前向きな気持ちが芽生えはじめていた。



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