凛子はそこにいたシンに驚き、ついフルネームで言ってしまったがそれ以降は声を詰まらせた。
普段は芸人として活躍している彼が、どうしてここに店員として立っているのか……だが以前にプロフィールに調理師免許があり、桃田からもシンが調理のバイトをしているとは聞いていたがここのことかとは思わないだろう。
聞いていたのもコンカフェのバイトだと聞いてはいた。やはり芸人だけでは食っていけないと合点がいく凛子だが、まさかここでこのお気に入りの喫茶店で働いているなんて。偶然である。
「サンドウィッチボックス、お待たせしました」
シンは涼しげな笑顔で凛子にサンドイッチの箱を差し出す。コーヒーは紙コップでに入っていた。持ち帰れるように工夫されているのだ。だがすぐシンは凛子を見て気づいた。
「てか、お客さん……あの時の、ずぶ濡れの……」
シンの言葉に、凛子は思わず顔を赤らめる。助けてもらったお礼も言いたいし、彼が風邪をひいて仕事を休む羽目になったことも申し訳なく思っていたが、いざ目の前にすると、どう切り出していいのか分からない。
「その、先日は本当に……しかも風邪……」
凛子が口を開きかけたところで、別のテーブルから客に呼ばれ、シンはそちらに向かってしまう。
凛子は休憩時間も限られているので、とりあえず目の前のサンドイッチを食べることにした。
サンドイッチは食べやすくカットされており、ふんわりしたパンと具材のバランスがちょうど良く、口に運ぶたびに優しい味が広がった。
食べ終わって凛子はカウンターに向かう。サンドイッチの代金を払いながら、勇気を出してシンに一言を添えた。
「あの、今度お礼に奢らせてください」
シンは軽く眉を上げて
「なら、明日の夜は? 今回のライブで久しぶりに復帰するー」
「あ。そういえば……」
すっかり凛子はライブのチェックを忘れていた。通知も気づかなかったようだ。
「じゃ、じゃあ明日に……! てかもう時間がっ……仕事の時間っ!」
と答え、急いで職場へと戻っていった。
「またちゃんとお礼できてないー」
ギリギリに職場へ着くと、他のパート職員たちの視線が突き刺さる。
「ギリギリねー。わざわざ遠くまで行かなくてもいいのに」
「運動にもなるんで、はい……」
すると上司が、
「ってことは、それが準備運動ってことになるね」
と笑いながら、何か荷物を抱えてやってきた。
「来月のイベントの資材移動、やるぞ!」
「今ですか?」
凛子の記憶では、まだ先の予定だったはずだ。だが、他のパート職員たちの顔は一様にうんざりしている。――やはり、上司の気分次第か。
「じゃあ、凛子さんからよろしくー」
「はいー……」
喫茶モリスのサンドイッチの余韻にひたる間もなく、定時まで資材運びに明け暮れることとなった。
「はーい、おつかれー。残業ないように早くカード切ってねー」
へとへとになった凛子だったが、明日のライブでシンの姿を見られるという目標が、彼女の気力を支えてくれていた。
それに、この理不尽な上司(と心の中で凛子は呼んでいる)の“ノー残業精神”は、こういう時にはありがたい。
「さて……行くか」
小さくため息をついて、裏口から職場を出る。他の職員たちもぞろぞろと続き、すれ違いで今から勤務の従業員たちが入っていく。
そのとき、ふと凛子の視線が門の前で止まった。
――なんと、葛城シンが立っていたのだ。
「えっ……なんでいるの?」
動揺を隠しきれないまま、凛子が目をやると、シンは軽く手を挙げて「ヨッ」と笑う。周囲に、あの口うるさいパートのおばさんたちがいないかをサッと確認してから、凛子は早足で彼のもとへ向かう。シンもその後を自然に追ってくる。
「……ど、どうしてここを?」
赤面しつつ、小声で尋ねると、
「いや、モールの従業員でしょ?」
「なんで分かったの?」
「胸元にモールのバッジついてたよ」
――しまった。ランチを猛ダッシュしてた時、取るのを忘れていた。
「……かなり待ってたんじゃない?」
「いや、僕もちょうどディナーの仕込みが終わって上がったところ。30分くらいかな」
「三十分も……」
「大丈夫。ネタ考えてたし……ほら、チラ見せ」
スマホの画面を見せられるが、文字がびっしりで、凛子には一瞬で理解できるものではなかった。
周囲に人がいないのを確認して、凛子はようやく立ち止まり、シンの顔を見上げる。少し自分より背が高く、優しげな目元が近い。
「だって、チケット渡す前に帰っちゃったし」
「チケットは……もちろん買うわよ。てか、今ここにいて大丈夫なの?」
財布からお金を出してチケット代を払い、シンから手渡されたチケットを受け取る。そのとき、シンはぺこりと小さく頭を下げた。
その仕草が、なんだかかわいくて――凛子は思わず見とれてしまう。
「もうチケットの売り子やらなくていいって言われたし、休んでる間に前説卒業して、ステージ昇格したからさ」
――あっ。
凛子はようやく思い出した。
「あのときはすみませんでした。傘……それに風邪まで……本当に、ごめんなさい!」
ようやく言えたお礼。ホッとしたのも束の間。
「大丈夫。僕も、お姉さんが風邪ひいてないか心配だったし。サンドイッチ、ちゃんと完食してたし、美味しかった?」
「……美味しかったです。ありがとう」
慌てて詰め込んだような食べ方だったが、それでも心に残る味だった。
――お姉さん。やっぱり、年上って見えてるんだな。
「あ、あとチラシ」
手渡された事務所ライブのチラシには、見覚えのある名前が見当たらない。
「そうそう、僕ら名前変えたんだよ」
「えっ?」
指差された先には『チョウシモン』の文字。凛子はハッと思い出す。あの日、ベーパイの前説に出ていたあのコンビだ。
「先輩に“名前長すぎ”って言われてね。前のもロックバンドっぽくて気に入ってたんだけどなぁ」
「……ズットチョウシニノッテルズ……」
シンが手を叩いて笑う。
「覚えてたんだ、お姉さん……いや、名前聞いてなかったね」
「……凛子、
「凛子さん、ね。よろしく!」
差し出された手に、凛子はそっと自分の手を重ねる。あの雨の日以来だ。その時は冷たかった。
今は――温かい。
「あ、そうだ。もし昼休憩でうちの店来るなら、メールしてよ。午前中にくれたら、渡すだけにしておくから」
「えっ、そんな……」
「他にも常連いるから。ね、凛子さん、メールアドレス教えて?」
トントンと進むやり取りに少し戸惑いながらも、凛子はアドレスのQRコードを彼のスマホに読み取らせる。
「僕、明日はネタ合わせで事務所行くから、一旦ここで」
「……はい。じゃあ、また」
「あー、ライブの後はバイトあるけど、近いうちにご飯行こ。ね、じゃあね!」
とシンは手を振って、足早に去っていく。
「えっ、えっ……ご飯も誘われちゃった?」
凛子の心は軽く浮かび上がる。
メールも交換して、ご飯のお誘いまで。
「……若い子って、勢いある……!」
家に帰ると、やはり資材運搬の疲れがじわじわと襲ってくる。
喫茶モリスまでパンプスで走ったせいもあり、脚には鈍い痛みが残っていた。
「簡単に“ご飯”なんて言うけど……レンチンのピラフだし」
そうぼやきながら夕食を済ませ、風呂に入り、マッサージでなんとか体をほぐす。
こんな時こそモリスでゆっくり……と思うが、昼も夜も通うなんて、いくらなんでも贅沢すぎる。
「ってか、行けないし。さすがに」
そんなことをぶつぶつ言っていると――
ピロン。
通知音に、凛子の心臓が跳ねた。
「もしかして……」
頭をよぎるのはシンの顔。でも、もしかすると……雅司からかもしれない。いや、もうあの人からは自分宛には連絡が来ないはず。今はすべて父・晃のところに回っている。
そうわかっていても、体がすくむ。けれど、それ以上に期待してしまっている自分がいる。
スマホを手に取り、表示された名前を見る。
――上司だった。
「……あー! 期待してる私がバカ!!」
思わず叫んだ。メールの内容はこうだった。
『今日、昼に外出てたみたいだけど、明日はモール内で食べてね。週末の準備で大変になるから』
つまり、モリスには行けないということか。
凛子は肩を落とす。
「……まぁ、事前に言ってくれるだけマシ、か」
上司に「承知しました」とだけ返信し、スマホを伏せた。
チケットは、自分で買ったものだ。シンにしてみれば、一枚でも多く売れた方がいい。芸人としての活動の一環にすぎない。
それに――あの日、風邪をひかせたお詫びも伝えられた。それで、十分。
これ以上を望むのは、欲張りすぎだ。
「……私は、ただの“モリスのお客さん”。それだけ」
凛子は、ため息をついて目を閉じる。
「いつまでもモリスに行けるわけじゃないし……明日はモールで、食べるしかないよね」
そう自分に言い聞かせるように、眠りについた。