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第30話 幕が上がる

 観客のざわめきの中、凛子も胸の高鳴りを抑えきれず、息を呑んでチョウシモンの登場を待っていた。


 前説は、女芸人コンビ「こんこん」だった。

 以前、終わりのトークショーに登場していた愛嬌たっぷりの二人で、凛子も記憶に残っていた。まだどこかあどけなさが残るが、明るさと勢いがあり、中年男性のファンもすでに付いているようで、客席からは彼女たちの下の名前を呼ぶ声も飛んでいた。


「よー来てくれたなぁー!」


「なー、聞いた話やと、久しぶりに80%埋まったらしいでー!」


 地元の方言を交えた軽快なトークに、客席からは自然と笑いが起きる。

 会場の空気が少しずつほぐれていく中、凛子はふと、彼女たちが自分と同じ高校出身では? とも思ったら具体的に名前が出てきて親近感が湧いてきた。


「そーそー、うちら前説やけど、終わりのトークショーにも出なあかんねん」


「ええー、じゃあ最後までこの会場におらなあかんやん」


「なんでや、出番増えたらお給料もはずむで?」


 お金の話になると、観客はドッと笑う。

 この事務所は、かつて売れなかった芸人たちの寄せ集めから始まった背景がある。だからこそ、こうした現実的な話題が、妙にリアルで笑いを誘う。


「えー、前説終わったらバイト入った方が時給ええやん? 二、三時間空くならその分バイトした方が稼げるで、この舞台よりも!」


「それ言うたらあかんやろー!」


 さらに大きな笑いが起きた。

 凛子も思わず吹き出す。今は自分もパート勤務だ。時間と時給の計算は、身にしみてわかる。


「せやから、そこのうちらの親衛隊! 最後までおれよー!」


 そう言って、彼女たちのファンに向かってタメ口で投げかけると、ファンたちも「はーい!」と太い声で応える。客席はさらに沸き立った。


 凛子はふとハッとする。


(……これって、もしかして、シンのファンたちへの当てつけ?)


 前説だけを見て帰ってしまうシン目当ての女性ファンたちが、こんこんの言葉に笑っている。

 まるで、自分たちが皮肉られていることに気づいていないかのように――あるいは、気づいた上で笑い飛ばしているのか。


(……ま、気にしても仕方ないか)


 凛子は再び舞台に目を向け、軽やかな漫才に耳を傾けた。

 今はただ、楽しもう。



 一組目はチョウシモンか? と思ったら高学歴コンビ「九段下」であった。凛子はシンたちチョウシモンが前説からのしばらく休んでいきなり一番手ではないのか、とびっくりした。

 先ほどのこんこんのトークからもわかるようにチョウシモンを見て帰るファンたちの対策であろうか。またチラッと彼女たちの方をやはり見てしまうのだが大人しく彼女たちは見ているのだ。


 それはさておきステージを見ることにした。

 クレイバーなトークになかなかついていけないらしいがだんだんとクセがいい味になるこのコンビはベーパイに続き人気はある。


 実のところ名古屋の出身ではないのだが一時期東京にいた頃は秀才芸人として名のあるクイズ番組にも出ていた。

 しかし他のインテリ芸人たちの威力と当時のマネージャーの推しが弱くうまく波に乗れなかった。

 そんな彼らをピンピンズが名古屋進出へ声をかけてマネージャーも変え、早速名古屋放送の情報バラエティのコーナーMCを勝ち取ったらしい。

 凛子は数回であるが九段下もなかなか面白い、と思ってその辺りの情報は知った。


 九段下の漫才のあとも、四組ほどが次々とコントや漫才を披露していった。だが――肝心のチョウシモンはまだ登場しない。


 会場の熱気は続いているものの、シンのファンたちの一部には、そわそわと退屈そうな様子が見て取れた。けれど、誰一人として席を立つ者はいない。


(なんで……そんなに気にしてしまうんだろう)


 凛子もまた、早くチョウシモンが見たいという気持ちを抑えきれずにいた。ふと頭に浮かんだのは、あの喫茶店で働くシンの姿だった。思い出すだけで、胸が少しだけ熱を帯びる。なぜだろう、この気持ちは……と。


 そしてそのとき、ふと気づいた。シンのファンたちの列の少し後方――さっきまで気づかなかったが、見覚えのある男性の姿が目に入った。


「……マスター?」


 小さく声に出してしまう。

 間違いない。喫茶モリスのマスターだった。

 若い女性客に混じって、スーツ姿のサラリーマンや中年の男性客も数人いる。その中に、静かに座って舞台を見つめるマスターの姿があった。


(……お父さんも、いつか連れて来たいな。落ち着いたら、だけど)


 父の顔を思い浮かべた瞬間、それとセットで雅司の存在も浮かび上がってしまう。できれば、もう思い出したくない人。

 客席には、若い女性だけでなく、カップルや夫婦の姿もちらほら見える。それが目に入るたび、胸のどこかがざわつく。


 ステージ上では芸人たちの声に笑いが巻き起こっている。客席にも笑顔があふれている。

 けれど、凛子は……笑えていなかった。


(なんで……こんな余計なことばかり、考えてしまうんだろ)


 ただ、チョウシモンが出てきたら、きっと気持ちは切り替わる。

 そう信じて、凛子は正面の舞台に視線を戻した。



 そして後半戦1発目である。

 特に誰が出るとはMCが告げずに始まった。

 出番の前に音楽が流れる中だがお囃子というものだが芸人ごとに違うのだが、軽いポップな音楽が流れるとシンのファンたちが反応した。


 まさか、と凛子は気づいた。チョウシモンの二人だ。


「こんにちは! 久しぶりですー!」


 マイクに近づく前にシンの相方が叫ぶ。やはり舞台役者でもあった彼の声はマイクなくてもすごく通る。


「はいはい佐藤さん、また喉潰しますよ」


 それを宥めるシン。落ち着いた口調である。凛子はそれを見て心がどきっとする感覚があった。

 シンのファンたちも騒ぎ立てるが他の客たちも事情を知ってるのか笑っている。

 シンの若いのに妙に落ち着いた口調と一人騒ぎ立てる佐藤のツッコミ、前は楽屋の画面越しであったが初めてしっかりと見た凛子。


「お前が風邪うつしただろうがよぉ!」


「でしたね、はい……で、ズットチョウシニノッテルズ改めまして……チョウシモンです、よろしくお願いします」


「さらっと改名報告するな! ……あ、まぁよろしくお願いします!」


 そこからはトークでなく漫才に持っていく二人。掛け合いはテンポ良く、時折シンが同じ調子でボケが飛び出し、それをはちゃめちゃに突っ込む佐藤。会場のあちこちでクスクス笑いが聞こえる。シンのファンたちも笑ってる。


(どうして……こんなふうに、引きこまれてしまうんだろう)


 きっとただ面白いから。それだけじゃない。

 舞台の上のシンは、喫茶店で見るあの彼とは違っていて、でもどこか同じで。

 何かを一生懸命やっている人の姿は、こんなにも人の心を動かすのだろうか。


 だけど、それ以上のことは、自分でもまだわからなかった。




 そしてそのあとはチョウシモンの同期の「ベーパイ」。

 彼らの登場で観客はさらに盛り上がり、勢いよく笑い声が飛び交った。さすが次のピンピンズと言われてるほどである。

 凛子もお腹を抱えて笑ってしまい、自然と心が解けていくのを感じた。


 そしていよいよ、最後のピンピンズの出番。彼らが登場すると、客席は一気に爆発的な笑いの渦に巻き込まれた。絶妙な間合いのボケとツッコミ、場内を包む笑い声の連鎖。

 凛子も頬が痛くなるほど笑った。


 ふと、自分がこんなにも心から笑っていることに驚く。雅司との婚約破棄や理不尽な職場の扱いで、最近は笑顔を忘れていた気がする。ずっと抱えていた重いものが、笑いと一緒に少しずつ外れていくような感覚がした。


「久しぶりに、こんなに笑ったな……」


 と頬の辺りが痛いのは表情が固まっていたのだろう、と両手でほぐす凛子であった。


 とピンピンズのファンたちの多さに圧倒されて独り言を言いながら帰るが、その時にメールの着信が……。


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