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第31話 忘れた頃に

 こんな時に限って、嫌なメールだったらどうしよう――そう思いながらスマートフォンを開いた。


 けれど、画面に浮かんだのは、絵文字多めの、明るいメールだった。


『来てくれてありがとう! 凛子さんめっちゃ笑ってた』


 ……見られてた?

 笑っていたところなんて、一番無防備な瞬間じゃないか。

 目が合った記憶もないのに。


(あんなに客席から見えるものなんだ……)


 気恥ずかしさを噛みしめつつ、短く返す。


『お疲れ様、久しぶりに笑いました。ありがとう』


 送ったあとで、少し冷静になる。

 これって、営業メール……なのかもしれない。

 コンカフェに勤めている彼なら、誰にでもこうして連絡をしているのかもしれない。


 けれど――。


 すぐにまた、メッセージが届いた。


『明日は夕方以降空いてる?』


「……え、明日?」


 思わず声が漏れる。

 いきなりすぎる。けれど、その勢いに戸惑いながらも、心が少し浮き立ってしまっている自分がいた。


 こんなふうに、ぐいぐい来る人。

 初めてかもしれない。


 どうしても比べてしまうのは、雅司だった。


 雅司は、いつも決断が遅かった。

 上司と部下という関係を抜けて、正式に交際を始めるまでに、半年もかかった。

 デートの約束も、たいてい彼が遅刻してきて、凛子がプランを提案しても「その日はちょっと」とはぐらかす。

 結婚の話も、決めきれずにいた。


 ……そういう人だった。


「……あー、もう!」


 無意識に声が出ていた。

 忘れたいと思っているのに、こんなふうに思い出してしまう。

 でも、今は――シンのことを考えたって、いいんじゃないか。


 少し深呼吸して、スマホを握り直した。


「よく考えたら雅司さんはルーズだったし、文句ばかりで決断もできなかった…。なんで気づかなかったんだろう?」


 心の中で少しずつイライラが募り、どうしようもない気持ちになる。

 もう忘れられないのは仕方ない、と諦めて、シンに「空いてますー」と返信するにとどめた。


 もう雅司を忘れて、次の恋愛が始まるまでは――

 自由でいても、いいはずだ。


 でも、そう思った瞬間に、自分で自分を縛っていることにも気づく。


 彼が9歳も年下だということはわかっている。

 そんな年齢差のある相手と、そういう関係になるとは思えない。

 ましてや、人生のパートナーとして選ばれることなんて――現実的じゃない。


 けれど、このまま一生一人で生きていくのだろうか。

 今はパートタイムの収入だけで、なんとかやりくりしているけれど、

 この先も、誰にも頼らずに暮らしていけるのだろうか。


 ……わからない。

 どうしたらいいのか、まったくわからない。


 ライブで笑ったあの瞬間は、ほんの一時の魔法のようだった。

 けれど、帰り道を一人で歩くうちに、胸の中には少しずつ重たいものが積もっていく。


 楽しかったはずなのに。

 心から笑ったはずなのに。


 それでも、現実は変わらずそこにある。

 自由でいたいという願いと、安心を求める気持ちの間で、凛子の足取りは少しだけ遅くなっていた。




 さっきまで楽しかった気持ちもマンションに到着した頃には無くなっていてため息をついたが、ふと見覚えのある車が入口近くに停まっていることに気付いた。


「うちの車……?!」


 それを見た途端、凛子は早足でエントランスへ向かう。置いてあったのは凛子の両親の車である。


「凛子!」


 エントランスには凛子の両親が立っていた。横にはマンションの管理人である哲也の姿もある。


「……遅かったな……仕事だったか?」


 と晃が言いながら、凛子の手元を見た。凛子は思わずお笑いライブのショップバッグを後ろに隠す。


「それ、東海ベイシーズの……」


 やはり晃はわかったようである。


「こんな大変な時に、どこ遊び歩いてたの?」


 すみ子が呆れたように問いかける。凛子は咄嗟に返事ができず、


「……これは、その……」


 と口ごもった。


 とにかく、両親と哲也を自分の部屋に招き入れることにした。





 部屋に三人を入れたものの、凛子はすっかり部屋の状態を忘れていた。散らかり放題の部屋。

 すみ子は慌てて走り夜だが窓を開けた。


「ちょ、ちょっと待ってよ! 今は片付けてなくて」


「空気がこもってる……忙しいからってもぉ……男性陣は玄関で待ってて!」


 すみ子にそう言われた晃と哲也は玄関前で待っていた。


 リビングの様子も見て洗濯物がそのまま放置されたソファ、開いたままの雑誌や散らばる紙類。凛子も一緒に片付ける。確かにいつもへとへとでもともと家事や掃除が苦手だったのが露呈した形になってしまった。


 10分してようやく外の二人を中に入れた。そしてリビング。よく考えたらこうしてすみ子と晃を入れた頃はまだ雅司と物件を見に来た時だった。


「まぁ落ち着こう。今日ここに来た理由を話すよ」


 哲也はすみ子、晃、そして凛子を見て冷静に取り仕切る。


「凛子さん……あなたの元婚約者の波川雅司さんから半年分の家賃などもろもろ本日入金が有りました」


「えっ……」


 凛子は突然のことに驚いた。雅司がそんなことを? 聞いてはいないと凛子は両親を見た。


「突然連絡あってお会いしたいとのことでな。一応晃には第三者として同席してもらって。いきなり半年分支払いました、とな」


 晃はすみ子を見る。すみ子は苦い顔をする。


「彼は涙しながら本当に申し訳ありませんでしたってな……僕がしっかりしてればって」


「なによっ、だったら凛子にそれを言いなさいって思ったけど……まだ、合わせる顔がないって」


 すみ子の方は不満たらたらのようだ。


「涙を流すって。凛子の方だよ、傷ついたのは。あっちのご両親のいいなりぽかったけど雅司さんだってなにかしゃべりゃーよかったのにいきなり破棄してから涙ポロポロ流して凛子がいない中ごめんなさいとか意味不明よ!」


「落ち着いてください、すみ子さん」

 哲也はすみ子を宥める。


「落ちつきゃーしないわよっ、父さんもグーで殴ってもよかったのよ! 娘が傷ついたんだよ!」


 母がここまでも凛子を思っていたとは思わず俯く凛子。


「美琴のときだってそう! 妊娠したけど相手がなかなか認知してくれなくて大変だったのにあなたは何も言わず……」


 そうだった、凛子は思い出した。

 今では子供も生まれ普通に過ごしてる美琴家族だから彼女が妊娠した時は互いに大学生で相手の親が美琴がそそのかしたとか一方的に言われ美琴は傷つき子供を堕ろすことも我が家で考えていた。


 凛子は姉としてずっとそばにいてやることしかできなかったが、後になってそれだけでもありがたかったといわれたことを思い出した。まぁ今では離婚成立したのだが。


「……美琴にはこのことは」


「まだ言ってない。言ったらまた怒るだろうなぁ」


「私も怒ってるわよ、父さんが一家の主人としてもっともっと強く言わないから! うちの娘たち2人とも辛い思いしてるのよ!」


 晃は昔からこんな感じである。頑固だが言い返さない。

 雅司の涙にも感情を揺るがされてしまったわけで。


「これ言うの迷ったけど言ったほうがいいと思うから言うけど、雅司さんがあなたを心配してるって」


「……」


「もし許されるのであればまた僕と一緒になってほしい。反省してるって……今回の件は僕の責任、半年分お支払いします……って」


 凛子は絶句した。

 何を持って自分とまたやり直したいのだろうか、雅司はと。


「……まぁこれ以上はな親が入っていいかどうかわからんくってな」


 凛子はただその場に立ち尽くしていた。雅司からの突然の申し出に驚きながらも、心のどこかで納得がいかない思いが渦巻いていた。過去の傷を掘り返されるような気持ちで、思わず心が揺れる。


 すみ子が憤慨する一方で、晃はただ静かに見守り続ける。

 その様子を見ていると、凛子は両親の想いの深さに胸が締めつけられた。美琴のこと、そして今の自分の状況。

 家族がどれほど自分のために怒り、悩んでくれているのか、今改めて実感する。


「でも…」


 凛子が口を開くと、声が震えた。


「今さら戻るとか、そういう気持ちにはなれないの」


 その言葉にすみ子が一瞬息を呑む。晃も静かに頷き、ようやく凛子の気持ちを理解した様子だ。


「そうか、それが今の凛子の気持ちなんだな」


 と晃が優しく言った。


「お父さんお母さんごめんね、心配かけてばかりで」


 哲也も穏やかに頷きながら、


「凛子さん。あなたの気持ちが一番大事だから」


 と彼女を励ます。


 すみ子も少しずつ怒りを静め、ため息をついた。

 晃は


「ただ、凛子が幸せであってほしいだけだ」


 と言った。

 凛子はその言葉に、家族が自分を支えてくれていることを改めて感じ、ほんの少し心が軽くなるのを感じた。


 でももちろん戻りたくはない。のになぜ雅司は……。







 三人が帰った後、スマホを見ると美琴からメールが来てた。


「雅司さんのこと聞いたけど……」


 やはりこのことか。電話したかったが時間帯的に子供たちの寝かしつけとかしているのだろう。


「連絡した方がいいかな、雅司さんに」


 と凛子は返すと


「難しいところだよね。でも、二人きりで会うとか辞めなよ」


 それは両親たちにも言われたことだった。


「……お姉ちゃん、何も私できなくてごめん」


 ……妹にも心配かけてしまってる。凛子はこれ以上返事ができなかった。



 凛子はふと思い出した。シンのこと。


 あれこれ考えてしまうが……とりあえず前奢る、と言った手前年上としてはやはり有言実行しなくては、とメールをすることにした。


『明後日の夜、空いてます。ご飯でもいかがですか?』





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