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第32話 シン、22歳

 その頃のシン。


 彼はマスターと喫茶モリスにいた。

 マスターは今日の営業をランチタイムで切り上げ、夜はシンのライブを見に行ってくれていた。

 シンが出演する日は、ディナーの営業を休みにするのがいつもの決まりごとだ。

 それは単なる贔屓ではない。マスターは、シンの夢をずっと見守ってきた一人なのだ。


 高校生の頃から、シンはこの喫茶モリスでアルバイトをしていた。

 最初は皿洗いや掃除ばかりだったが、調理師免許を取ってからは厨房も任されるようになり、店に欠かせない存在になっていた。


 バイトに入って2年目に芸人になると決めたときも、マスターは止めなかった。

 むしろ「お前の舞台は、俺の楽しみなんだ」と言って、舞台の日は必ず応援に来てくれる。


「お疲れだったね。しかも前説卒業して結構受けてたじゃないか」


 閉店後の静かな店内で二人で明日のモーニングの仕込みをしていた。


「ありがとうございます。久しぶりだったけどなんとか」


 シンはいつもの調子で返した。

「今夜は不思議の国には行かなくていいのですか」


「……別にいいかな……佐藤さんは金がないからって行ってるようだけど」



 ⸻


 相方の佐藤は、ひと足先にコンカフェの黒服のバイトに出て行った。

 シンは入れていなかった。――あそこに行けば、今日来てくれたファンたちがいるはずだ。でも。


「あら、先日まで舞台の脚本に演出、今日のネタも書いて……働き詰めじゃないですか」


「……あの人は体力オバケだから。今度はまた脚本を公募に出すって言ってましたし」


「シンも最近、喫茶店の仕事ばかり入れてるけど……それでいいのかい? あっちの店より時給安いのに」


「……僕は、ここの方が好きなんです」


 舞台のざわめきから離れ、厨房に戻ると、どこかホッとする。

 派手なスポットライトの下も悪くない。でも、自分にとって落ち着ける場所は、やっぱりここだった。


「そう言ってくれると、嬉しいよ」


 マスターはふと、カウンター奥に飾られた写真に視線をやる。

 喫茶モリスの前で撮られた一枚。そこには、病で亡くなった妻と、事故で亡くなった息子の姿が写っていた。


 マスターがどこか物憂げに見つめていると――


「マスター、水、溢れてます!」


「ああ……すまん」


「だから僕、ここにいなきゃなあって思うんですよ」


「なに言ってる。全然大丈夫さ。まだまだ現役だぞ。……でも、ここもいいけどさ。早く夢、掴むんだぞ」


「……はい」


 するとカウンターに置かれていたスマホから、着信音が鳴った。

 シンは慌てて手を拭き、スマホを見る。

 そして、画面を見てため息をついた。


「……佐藤さんかよ。はぁ……」


「佐藤くんじゃ、だめなのかい? その様子だと、女の子からのメール待ってたんだろう?」


 図星を突かれ、シンは言葉を濁す。


「……いや、別に。ただ……コンカフェの方にファンの子たち来てるのに、僕がいないから、がっかりして大半帰っちゃったってさ」


「そりゃそうだよ。せっかく舞台見に来てくれたのに、いないのはちょっと寂しいもんだよ。……フォローしておいた方がいいよ」


「……そうですね。一応体調不良って佐藤さんが振舞ってくれたみたいだけど」


 けれどシンは、それどころではなさそうだった。


 確かにコンカフェの営業用のメールアプリには客の女の子たちからのがっかりメッセージたくさん。


「これ返さないとなぁ……」


「前から言ってるけどこっちで働いてるって言えばいいのに、うちも繁盛する……なんてな」


「まぁそうですけど」


「それだと疲れちゃうもんな……」


 ふと、シンはコンカフェで働いている自分を思い出す。


 調理や演技の経験も活かせるし、金のためにと知り合いに勧められて始めた仕事だった。

 化粧も派手な衣装も、慣れればどうにかなる。お酒の知識も自然と身についていった。


 シンの母は自宅で料理教室を開き、主婦たちに囲まれていた。幼い頃からその中で育ったせいか、年上の女性に可愛がられることが多く、女性と接することにはあまり抵抗がなかった。

 コンカフェでは、それとはまた違う年代層の女性たちと接する中で、距離感や“求められる空気”の読み方も学んだ。


 それでも、どこか息苦しかった。

 客に興味を持ってもらうために、あざとい言葉や態度を選び、求められる“キャラ”を演じる。取り繕う日々に、少しずつ疲れがたまっていった。


 確かに、そこで知り合ったファンたちが舞台にも来てくれるようになったのは大きかった。グッズの売上にもつながっている。


 でも、正直不安だった。


 もしコンカフェをやめたら、その人たちはもう来てくれないかもしれない。応援は“店の延長線”であって、“芸人として”の自分を見ているわけではないんじゃないか。


 そう思うのは、自分自身がまだ芸人として十分な力を持っていないことを、自覚しているからだ。レギュラーもなし。バイトに明け暮れる毎日。


 ルックスで注目されるのも悪くはない。


 でも――僕は芸人だ。笑わせたい。中身を見てほしい。

 ずっと応援してくれるマスターのためにも早く芸人として売れたい、そしてコンカフェの仕事は、そろそろ卒業したい。



 そんなことを考えていた頃――シンは、久しぶりに恋をした。


 それはあの時雨に濡れて立ち尽くしていた女性、凛子である。


 正直、最初は顔がタイプだった。喫茶店に入ってきた彼女をみて厨房から覗いていたのだが、何かを考えているような物憂げな姿、食べている姿、それが良かったのだ。


 別に、これまで恋をしてこなかったわけじゃない。

 だけど、ちゃんと「続いた」恋愛は少なかった。

 十九のときの初恋は、あっけなく終わった。

 それからも付き合うことはあったけど、どれも長続きしなかった。


 昔からの好みもあって、自然と相手は年上の女性ばかりだった。

 「癒されたい」と近づいてくれる人もいたし、可愛がられるのも悪くなかった。


 でもその多くは、シンを「夢見がちな年下の男の子」として見ていた。

 現実的な将来や安定を望む彼女たちにとって、芸人を目指す自分は対象外だったのだ。


 今は二十二歳。

 コンカフェではまだ「若くて可愛い」とチヤホヤされているけれど、そんなのも、あと数年もすれば飽きられるだろう。

 ルックスに頼った人気なんて、刹那的なものだ。この歳で悟ってしまっている。


 正直、このまま喫茶モリスを引き継ぐのも悪くない――そんな考えが、ふと頭をよぎる。

 マスターは妻と息子を亡くし、後継ぎはいない。いずれ彼が引退する日が来たなら、自分がこの店を守っていけたら。

 そうシンは思っている。


 けれど、ここは喫茶店だ。町外れの……。客はたくさんいるが。

 これまで彼が付き合ってきた女性たちは、喫茶店の仕事なんて「たかがバイト」だと思っていた。


 もし本当に自分がこの店のマスターになるとしても、生活の安定や収入面で、結局振り落とされてしまうのだろう。


 ――凛子は、どうだろうか。


 老舗百貨店のモールで働いているという話だった。きっとバリバリのキャリアウーマンに違いない。

 そんな彼女と、自分は釣り合うのか? ふと、胸の奥に不安が滲むシン。


「あー! 売れたいー!」


 突然のシンの叫びに、マスターが手を止めて振り返る。


「おお、どうしたどうした。びっくりするじゃないか」


「……いや、すみません。ちょっと取り乱しました」


「焦るなって。前説だったのが一気にジャンプアップしたじゃないか」


「……それは、僕のファンが早く帰らないように、順番を変えたからですよ」


「それでも、ちゃんとウケてたぞ。前よりもずっとな」


「マスターにそう言ってもらえるのが、何より励みになります」


 そう言いながら、シンはスマホに目を落とす。

 凛子からの返信が気になって仕方がない。


「……やっぱ、ダメなのかなぁ」


 小さく漏れた呟き。ネガティブな思考が頭をもたげそうになる――が、首を横に振る。


 そんなときは、手を動かすに限る。

 料理でもなんでもいい。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。


 いつものように黙々と仕込みを始めたシンを、マスターはふっと目を細めて見守っていた。


そんな時だった。

メールの着信音にまたシンは作業を止めて開く。


凛子からであった。シンはドキドキしながら見る。



『明後日の夜、空いてます。ご飯でもいかがですか?』


その文字にシンはホッとするのであった。



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