凛子は「気分転換になるのなら」と思いながらも、どこか落ち着かないままこの日を迎えた。
約束は仕事終わり。お互いに都合を合わせた結果、夜になってしまった。
今日も昼が不規則でここ数日喫茶モリスに行けていない。
(……てか、なんで“夜”とか言っちゃったんだろ)
少し前にオープンしたラーメン屋で待ち合わせることにした。
着いたときには、あたりはすっかり薄暗くなっていた。
やはり人気店なのかある程度並んでいる。
その店のすぐそばにある喫煙所に、シンの姿を見つける。
赤いスカジャンを羽織り、腕まくりをして、タバコを咥えていた。
煙の向こうに見える彼の横顔に、凛子はふと立ち止まる。
(あ、タバコ吸うんだ……)
身近な男性で吸っている人はいなかったし、元婚約者も非喫煙者だった。
けれど、それが意外とか悪いとかではなく、少しだけ距離のある世界の人間に見えて──妙に、格好良く思えてしまった。
けれど――彼はすぐに凛子に気づいたようだった。
吸っていたタバコの火を丁寧に消し、吸い殻を捨てると、口に何かを含ませてから手を振ってくる。多分ミントだろう。
凛子に気づいた時の笑顔に思わずドキッとした。
喫茶店で会ったときはきちんと結ばれていた長髪も、今日は舞台のときと同じくラフに下ろされている。
少し雰囲気が違って見える。
「ごめんね、待たせちゃったかな」
シンはすぐに首を振った。
「大丈夫です」
と、微笑んだ。
「列、少し詰めてくださーい。あともう少しでご案内できますので、そのままお待ちくださーい」
ラーメン屋の店員らしき若い男性が出てきた。まだ不慣れなのか、声は小さく、言葉もどこか頼りない。
後ろの客からは早速、不満の声が漏れた。
すぐ後ろに並んでいたカップルの男性が、苛立ちを隠そうともせずに呟く。
「ったく、待たせたくせに並び方までいちゃもんかよ。はぁ……早く食いてぇ。こんなとこ選んだの、どこのどいつだよ」
連れの女性は、口をへの字にして何か言いたげだったが、結局なにも返せず、視線を落として黙り込んだ。
その男の、強くて乱暴な物言いが、凛子にはどうしても雅司を思い出させた。末期のあの人の態度に、どこか似ている。
胸の奥に、不快なざらつきが広がる。
「お待たせしました。二名様、どうぞこちらへ」
再び店員が声をかけ、店の中へと案内された。
店の扉が開いて、ブワッと食欲をそそる香りが流れ出す。
「……うわ、美味しそう」
思わず凛子がつぶやくと、隣でシンが笑った。
店内に先に入った客たちがラーメンをすすっているのを見て、無意識に喉が鳴る。
――ぐぅ。
(しまった……!)
凛子が思わず頬を赤らめると、シンが
「お腹空くよねー。僕もです」
と自然に笑ってくれた。
茶化さず、突っ込まず、優しい口調のその一言に、凛子の緊張は少しだけほぐれた。
「ここ、座りましょ」
シンがベンチの端に凛子を促し、彼自身もすぐ隣に腰を下ろす。周囲の客もいっぱいで、自然と肩が触れ合った。
(雅司とも、こんな感じだった……)
思い出したくないはずの記憶が蘇る。
(もぉー!! だめだめだめ!)
店員が先に注文を取りに来たので、ふたりはそれぞれメニューを伝えた。
凛子はあっさりめ、シンはあっさりめの大盛り。大盛りを頼む男性はこれまでもいたので、それ自体は特に気になることではない。
席を案内される前にシンがふと切り出す。
「そういえば……呼び方なんですけど、『凛子さん』って、今のままでいいですか?」
いきなりの提案に、凛子は「えっ」と小さく声を漏らしながら少し戸惑う。
「あー……うん、そのままでも別にいいし。『ちゃん』付けとかはちょっと違うと思うけど……お好きにどうぞ」
「じゃあ、僕のことは『シン』って呼んでください。なんか、友達っぽいし。その方が気楽かなって」
年下の男性を呼び捨てにした経験は、せいぜい元部下くらい。けれど、ほんの少しだけ勇気を出して、口にする。
「……わかった。シン、で」
慣れない言い方に自分でもぎこちなくなってしまったが、シンは嬉しそうに笑った。
「お、いいですね。『凛子さん』」
たったそれだけのやりとりなのに、呼び方が変わっただけで少し距離が縮まったように感じる。
凛子も思わず笑みを浮かべていた。
他にも会話が進むと、ジェネレーションギャップは多少あるけれど、シンは昔の音楽やカルチャーにも意外と詳しかった。
年齢も伝えるのは少し抵抗があったが伝えたらそれに合わせて話しているようでもあった。
「兄がいるんですよ。凛子さんと同じ歳。小さいころから兄の部屋で流れてた曲とか番組とか、なんとなく覚えちゃってて」
そう言って笑うシンの表情が自然で、凛子も肩の力が抜けていくのを感じた。
(なんかこんなにも話しやすい子なんだ。年下よりも年上の人ばかりと喋ってたから不安だったんだよなぁ)
ほどなくして席に案内され、注文したラーメンが目の前に置かれる。
「いただきます」
ふたりで手を合わせて、まずはスープを一口。
「……美味しい……このラーメン」
自然にこぼれた凛子の感想に、シンが頷きながら箸を進める。
「スープ、しっかりコクがあるのに重たくなくて食べやすいですね。麺の茹で加減もいい。これは茹で時間かなり研究してますね」
さすが厨房に立つ男だ。凛子にはわからない専門的な視点が、なんだか新鮮だった。
「私、味のことはうまく言えないけど……また来たいって思う味」
「それ、料理人にとって一番嬉しい言葉かもしれないです」
そう言ってまたスープを啜るシン。
ふたりはしばし、言葉少なに夢中でラーメンを味わった。
「普段、ラーメン屋って一人で行くんだけど、誰かと味を共有したくなることもあってさ。うちの佐藤さんもたまに行くけど……ずっとあの人喋り倒してて疲れる」
「疲れるって……でも確かにずっと喋ってそう」
と言うとシンがしーっと口に指を当てる。
「まぁ、みんなそう言ってるからいいけど。あっちが年上なんだけど面倒見はいい人なんで……うん」
と笑った。
凛子は喫茶モリスの話も振ってみた。
「あそこはいつから働いてたの?」
「高校生の時かな。今は解散したけど劇団やっててそこに近いところにあったのがモリス。あそこで料理とか教わって調理師免許も取って」
「すごーい。バイトやってるうちに覚えられるなんて。わたしも大学生の時に飲食のバイトすればよかったかなぁ」
と凛子は学生時代のバイトを思い出すと週末にティッシュ配り、イベントでチラシを配ったり……レジでさえも触ったことがなかった。
さらに凛子は話を掘り下げることにした。
「あ、なんかカウンターの奥に写真とかたくさん飾ってあったよね。あとカップは奥さんの趣味って言ってたけど……」
うんうん、とシンは頷いた。そして少し間をあけて話した。
「奥さんは5年前に病気で亡くなったんだ。僕が入って半年くらいで」
と言う事実を聞かされあの時マスターが即答しなかったのはそう言うことだったのかと凛子。いけないことを聞いてしまったのだろうか。
「息子さんもその直後に大きな交通事故に巻き込まれてね……相当の落ち込みようで。芸人の仕事の傍ら……というかほとんどバイトの時間費やしてたかなーこことかで」
「息子さんまで……」
「白髪、その頃に一気にね。息子さんの奥さんや今の調理長やパートさんたちに支えられてここ2年くらいようやく落ち着いたところだよ」
本人がいないのにマスターの情報がこんなにも入ってきていいものだろうか。
「また来店してマスターと仲良くなったら聞いてみてもいいと思うよ。愛妻家で子煩悩だったから思い出話たくさん話してくれるよ」
「うん……奥様の選んだカップのこととか」
「あ、それ話が長くなるやつだから」
と笑い、お会計することに。
凛子が財布を出すとシンが手で押さえて首を横に振る。
「だって……今日私奢るって」
「じゃあ次奢ってください」
……次?! と凛子は思った。
「でもその前にモリスにも来るよね?」
というその無邪気な笑顔に凛子は頷くしかなかった。