駅までの帰り道。
時間はすっかり夜。人通りのある道を選んではいるが、ふたりで横に並んで歩くことに、凛子は少しだけ緊張していた。
会計でもらった小さなキャンディを口の中で転がす。それもあって、気持ちも口の中もなんだか落ち着かない。
「落ち着いたら、またモリス行きたいなぁ」
ふとシンがつぶやくように言った。
「お忙しいですからねぇ。あのモールも。なんだったら、僕が弁当届けに行きましょうか……って、ダメか。作る人がいなくなる」
「そうよ。たったひとりのために、あそこまで行くのはどうかと思う」
「いやいや、凛子さんのためなら全然行きますよぅ」
おどけたような口調に、凛子はどう返せばいいのかわからず、苦笑いするしかなかった。
「そういえば、モリスで二回ディナー食べたけど。たしか一回目はたらこスパだったかな」
「……あー、それ多分僕、風邪で休んでた時です。たらこスパはマスターの十八番なんで」
「あ……!」
風邪の原因に心当たりのある凛子は、思わずぺこりと頭を下げた。シンは「いえいえ」と手を振る。
「僕や裏に誰もいないときは、簡単なメニューになっちゃうんですよ。マスターも『中途半端なもん出すのは良くない』って。あ、でも、ちゃんと腕前はあるんで!」
「その節は……ほんとに、ごめんなさい」
凛子はもう一度、頭を下げた。
「あと、グラタン……めっちゃくちゃチーズ濃厚で」
あれは本当に美味しかった、と凛子が思い出して言うと、シンは素直に喜びながらも、何かを思い出したように声を上げた。
「あー! もしかして……」
「え、なに?」
「あの時、マスターが言ってたグラタン食べて涙してたOLさんって、凛子さんだったのか」
「……っ!?」
思わぬ一言に凛子は動揺した。たしかに、あのとき泣いた。
でもそれは、精神的に不安定だったせいで、温かくて優しい味に触れて思わず涙がこぼれてしまっただけ。
マスターに気づかれないように、そっと袖で拭いたつもりだったのに。
顔を合わせると、シンはニコッと笑っていた。その無邪気な笑顔に、なぜだか凛子の胸がキュッとなる。
それからあれこれと会話は途切れることはなかった。
やがて駅前に着く。どうやら、帰る方向は別らしい。
「じゃあ、また会おうよ」
そう言うシンに、凛子は自然と頷いた。
「今度は私が奢るからね」
「あ、明日と明後日の夜は、コンカフェの方で働いてるけどね」
さらっと言うその言葉に、凛子は一瞬、足を止めた。
以前、桃田マネージャーから「シンがコンカフェでも働いている」と聞いたことはあったが、本人からあっさり言われるとは思っていなかった。
そもそも、コンカフェがどんな場所かすら、よく知らない。
「不思議なアリスがモチーフでさ……百聞は一見にしかずかな」
そう言って、シンはスマホを取り出し、SNSに載せている写真を見せてきた。
そこに映っていたのは、シルクハットをかぶり、キラキラとした衣装を着たシン。まるで不思議の国のアリスに出てくるキャラクターのようで、今目の前にいる素朴で親しみやすい彼とはまるで別人だった。
「……えっ、これがシン?」
凛子が思わず声を上げると、彼は苦笑した。
「事務所にも一応、認められてるけどね。あくまでプライベート扱い。芸人の名前と紐付けしないようにって言われてるんだ」
凛子はもしかして自分、コンカフェに勧誘されてる? と不安になるが……。
「コンカフェもいいけどさ、芸人の仕事をもっと増やしたいんだよね」
ラーメンを食べていたときも、「頂点目指したい」なんて、夢を真っ直ぐ語っていた。
それを思い出しながら、凛子はふと自分に問いかける。
――自分が彼の年齢だったころ、こんなふうに何かを本気で目指していただろうか。
生活のために働いて、夢なんて特になかった。ただ、誰かと恋をして、結婚して、子どもを産んで……そんなロールモデルをなぞるように生きていくんだと思っていた。
「増えるよ、まだまだこれから……若いんだから」
なんて軽く言ってしまった凛子だがそれは彼がまだ自分よりも若いから、というのもある。自分なんて……希望も夢もない、そんな自分よりもシンの方がしっかりしている。だからそう言ってしまった。
「凛子さんにそう言ってもらったらがんばんなきゃねー」
と言いながら両腕を挙げて伸びーっとした。
「じゃあ近いうちにモリスにも行くわ。昼は落ち着かないけど明々後日の夜」
と凛子。
「是非お待ちしてます」
とシンは返した。
凛子はうん、となかなかその場から離れられないが彼女から手を振って帰ることにした。
だがメールは「美味しかったね」「また行こうね」くらいしかできなかった。
家につき服に結構ラーメン屋の匂いがついてるため消臭スプレーをかける。
「これ、戦闘服だからねぇ」
と退職時にほぼスーツなどは処分した。もう仕事はすることはなさそうだからと。
これがあるからこそ気合が入る。でもこれを着ての仕事ではない現状。
そこにすみ子からの着信が。
(お母さん? あ、そいや美琴はメール返ってこないし……)
「お母さん、こないだはどうも……」
『まぁ……払ってもらったもんだから住むしかなくなったわねそのマンション』
「お礼って言うべき? なんかその……」
凛子は雅司が凛子が経済能力がないからと家賃を振り込まれてしまったことの件は正直住む場所が確保されたというよりもなぜに……という気持ちが強かった。
『一応哲也さんの方から連絡通じて凛子からありがとうございますと返事してくれたわ。そっからは知らないけど』
それはそれで……と凛子は困るが。
「でも私もちゃんと部屋見つけて早く出ていくよ」
『その方がいいわ。なんだか気持ち悪いもの。なんかまだあっちの家の支配下にあるようで』
すみ子がそういうと確かに、と。
雅司名義で払っていたらいつ戻ってきてもおかしくはないだろう。
「そいや美琴は?」
もう同居はしてるようだが。
『正社員になってからかなりきつそうよ。わたしが孫二人の子守してるわー』
凛子の件の裏で一人離婚準備して無事に成立し正社員になったというトントン拍子だったものの今まで短時間のパートのみ、しかも働き出したのもしたの子供がようやく落ち着いてからで社会人経験の少ない美琴にはハードすぎただろうと凛子も不安だったが予想通りだった。
『あんたたち姉妹をまた育ててる感じよ。笑えるくらいあなたたちにそっくりなんだから』
すみ子は笑ってる。凛子は母がここまでポジティブでいられるなんて……と。
そう凛子が思っていると母が少し間を開けた。
『今少し凛子と話したいわ』
「うん、いいよ……聞いてあげる」
『正直あなたがうらやましいというか、すごいと思っているわ……』
と母の話を凛子は聞くことにした。