最悪のタイミングだった。
凛子はうつむき、思わず目を逸らす。今日は裏方作業だけだと聞いていた。シャツの上に作業ジャンパー、ロングの髪はひとつに束ね、軍手のまま工具を持っている。化粧直しもしていない。
まさか、こんな姿で――。
雅司と、その両親。さらに彼の隣に立つ、見知らぬ女性。
臨時で什器の組み立て作業中だった凛子は、思わぬ再会に言葉を失った。
「雅司の元部下の方で、先日退職されたのよ」
光江が言った。その通りだ。だが――退職の理由は、結婚の準備のためだった。
「あら、凛子さん。就職されたって聞いたけど、このモールだったのね。まあ、派遣かしら? それとも日雇い?」
目を細める光江の視線が、あからさまに凛子を値踏みする。
「什器の……組み立て?」
彼女の声には、驚きではなく、嘲笑がにじんでいた。
「まあ、前の会社でもただの事務要員だったって聞いてたし。ちゃんとしたお仕事なんて、無理よねぇ」
なに……?
凛子は思わず、雅司の顔を見た。
――雑用要員?
確かに事務もやった。けれど、教育係も、プロジェクトの企画も引き受けた。彼の下で、必死に働いた。それなのに、彼は――。
手が震える。
「まあまあ、老舗の娘さんだからね。べっぴんさんだし、どうせすぐ結婚すると思ってたよ、俺は」
徹がそう言ったが、それは“フォロー”どころか、凛子の価値を決めつける言葉だった。
「よしなさい」
雅司が口を挟んだ。きっと、それが彼なりの“配慮”なのだろう。
だが、何も変わっていなかった。
彼の隣の女性が、居心地悪そうに眉を下げていた。
「あの……雅司さん、その……」
せめて、以前家賃を立て替えてくれたことに礼を言おうか――そう思ったとき、その女性の薬指に光る指輪が目に入る。
「凛子さん、ご紹介するわ。雅司の婚約者の淵上友里恵さん。マリアレム大学院をご卒業で、ご近所なのよ」
光江が、聞いてもいない学歴を自慢げに語る。
「お花もお茶もできて、家事も完璧。雅司を支える準備は万端なの。やっぱり、教養って大事よねぇ」
「……ああ、そうだな」
雅司の口調までも、光江たちとそっくりだった。
――もういい。感謝の言葉なんて、消えた。
凛子の手は震えていた。言葉が、どうしても出てこない。
そのとき――。
「だから、なんなんですか」
低く、静かな声が響いた。藤本だった。
作業エリアにいた数人の事務員が立ち上がり、空気が変わる。
「日雇い? 派遣? それがなんだって言うんですか」
藤本は真っ直ぐに、雅司たちを見据えた。
「私たちは今、お客様に素敵な売場を届けるために、準備をしています。社外業者に任せず、自分たちの手で。これは雑用なんかじゃありません。誇りある仕事です」
にっこりと、藤本が笑う。その笑顔は凛子が見たことのないものだった。他のスタッフたちも、微笑んでいた。
凛子は、息をのんだ。
「な、なんなんだ君たちは……まあいい。とにかく、ある分だけでも引き出物を……」
徹が言いかけたその時、友里恵が無言で立ち去った。
「友里恵さん!」
雅司が追う。光江たちも後を追い、結局何も買わずにその場を離れていった。
周囲の客たちも、じっとこちらを見ていた。
凛子は立ち尽くしていた。恥ずかしさと、過去の記憶がぐるぐると胸を渦巻いていた。
「凛子さん……私たちは、お客様の邪魔にならないように動かなきゃ」
藤本が声をかけたが、凛子は返事ができなかった。
「よし。私と凛子さんは裏で作業してきます。他の皆さん、ここはお願いします!」
「はい! もちろんです!」
スタッフたちは元気に応じ、空気を立て直してくれた。
バックヤードに入ると、藤本が椅子まで凛子を連れていき、そっと座らせた。
「落ち着くまで、ここにいましょ。私もネットスーパーの折込チラシ、ここで折るから」
そう言って、藤本は凛子の横で、いつも通りの手つきで作業を始める。
「にしてもさ……引き出物、セールで買おうとしてたんだって。さっき、他のパートさんたちもヒソヒソ笑ってたわよ。あ、知り合いだったらごめんね?」
凛子は首を横に振った。そして、ふっと笑った。
「……たしかに、ケチくさいよね」
ぽつりと漏れたその言葉は、かつて結婚式の準備をしていた頃、心の中でずっと思っていたことだった。でも、当時は言えなかった。しかも引き出物をセール品で揃えたのは2回目もかと。どこだけガメツイのだろうか。
詳細は流石に今は隠したが、本音は今言えた。ようやく。
そんな凛子を見て藤本がふいに目を丸くする。
「笑った……あれ? 私、凛子さんとちゃんと話したの、もしかして初めてかも」
「……たしかに」
すると藤本。
「もーさ、独身なのあその子部署で私だけなんだよねぇ。あ、でも……あなたも訳ありでしょ?」
藤本の言葉に、凛子は思わず目を逸らした。図星だった。
「その年で仕事辞めて、何も知らずにここで働いてるってことは……まぁ、大丈夫よ。私なんて、婚約破棄二回してるから」
「えっ、に、二回も?!」
思わず素っ頓狂な声を上げると、藤本はケラケラと笑った。
その後は終業時間までのあいだ、二人で作業をしながら、お互いの話をぽつぽつと続けた。これまで無口で、たまに助け舟を出してくれるくらいだった藤本。でも話してみると、年も近くて(藤本の方が少し年上)気取らない性格で――なんだかんだと、気が合った。
こうして凛子は、思いがけないかたちで新たな味方を見つけたのだった。凛子の勤務終了の頃、藤本はネットスーパーの急な対応に追われ、一緒に帰ることはできなかったが、連絡先は交換した。
裏口へ向かおうと歩いていると、ふと視線の先に立っている人物に気づく。
シンだった。彼は凛子に気づくと、歩み寄ってきて笑った。
「来ちゃった」
その無邪気な笑みに、凛子は思わず肩の力が抜けた。と同時に他に誰かいないか確認した。知ってる人はもう先に帰っていたようでホッとする。
藤本と別々に職場を出て良かったと、少しだけ思う。彼女とせっかく意気投合したのに、今の自分に彼氏がいると知られるのも、なんとなく言いづらかったからである。
「……今日、約束してたっけ?」
「ううん。喫茶店の仕事が早めに片付いたから、散歩がてら寄ってみただけ。夜は仕事休みでさ。こないだパートさんの代わりに朝も入ったから、その分の代休、もらえたんだ」
と言った後シンは凛子を覗き込んだ。そして首を傾げて言う。
「ダメだった?」
「……そんなこと言ってないよ」
凛子が焦っていうものだからシンは笑った。
「へへへ」
そう笑うシンの顔が凛子にはたまらなかった。