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第40話 可能性

 凛子は最近、何度もシンとキスをしたり、抱き合う幻に惑わされ続けていた。


 夜は会えない日が続いていたが、もっぱら喫茶モリスで顔を合わせ、会えない時も電話やメールで繋がっていた。


 その記憶が妄想も混じって、昼も夜もふとした拍子に甦る。思い出すたび、心がふわりと浮いて、骨抜きになってしまうのだった。


 先日の夜、シンはコンカフェを卒業した。花束やギフトに囲まれて、同時に卒業した黒服の佐藤とメイクばっちりの姿で写る写真が送られてきた。凛子はそれを「これはこれ」と冷静に見送り、少しだけ安堵した。


『僕は凛子さんだけのものだから、安心してください』


 というメッセージも添えられていた。思わず胸がそわそわする。


『お笑いに専念して、凛子さんを幸せにしますから』


 とも。


 シンからは、何度かコンカフェでの仕事にまつわる説明があった。


『ここ数年は、お客さんと身体の関係なんてないよ』


『生活のために必要な仕事だった』


 凛子は、過去の恋愛のトラウマもあって完全には信じきれなかった。あまりに繰り返される弁明に「もういいよ」と断ったこともあるが、それでもシンは誠意を見せたいと言ってくれた。


(若いのに、しっかりしてる……でも、なんかまだ信じきれない)


 そう思いながらも、ところどころに見える優しさや気遣いに、今まで知らなかった幸福感がじんわりと芽生えていた。


「凛子さん。なんか落ち着かないね」


 イベント用のポスターを貼っていた凛子に声をかけたのは、ネットショッピング部の藤本だった。


「さっさと貼らないと、また上司に怒られるわよ。……っていうか、こんな仕事、事務員の範疇超えてるし」


「……はい。あと半分、残ってて」


 凛子の手には、芸人イベントのポスター。ピンピンズが一番大きく扱われ、その下にベーパイ、さらに若手枠には――チョウシモンの写真。


 結成当初の宣材写真で、二人ともまだ少し幼い。でも、それでもシンの顔を見るだけで、凛子の心はそわそわするのだった。


「凛子さん、ごめんだけど……絶対この仕事、似合ってないわよ」


 藤本の口調はストレートだけれど、どこか気遣うような響きもあった。


「……『嫌です』とか『代わりにこれします』とか言えない子って、上から見抜かれてるのよ。そういう子に限って、こういう面倒ごと押しつけられるんだから。ほんと、やってらんないわよね」


 そう言って、藤本はカートを引きながら注文回収へと向かう。


「じゃあ私は行ってくるね。早く終わらせて、お昼は外に出なよ。気分変わるからさ」


 彼女の颯爽とした後ろ姿を見送りながら、凛子は心の中でつぶやいた。


(……たしかに。ちょっとでも気が合う人がいるだけで、仕事って全然違うんだな)


 そして――


(私も思うよ。あなたも……その仕事じゃなくても、もっと輝けるのに)


 その思いは、まるで自分自身にも向けられているようだった。


「あー……さっさと貼るぞー!」






 ※※※


「お疲れ様です。ポスター、うちにももらっていいんですか?」


 なんとか昼の時間が充分に取れたので凛子はモリスに行けたのだ。ランチタイムのピークも過ぎた頃で客も少なかった。


 モールの近くの商店街の店ということで昼からは店に一軒一軒回ってポスターを配りにいくついでである。


 ポスターを広げるマスター。もちろん貼ってくれるらしいがシンがやってきて自分の宣材写真を見て伏せ目がちになっている。


「やっぱりピンピンズの兄貴たちは新撮りだし、ベーパイだって。僕らは2年前のだし。佐藤さんこれ見たらブチ切れそう」


「たしかにね、最近イメチェンしちゃって」


「凛子さんの力で写真入れ替えできない?」


「ごめん、権力なくて。イベント課か広報課か……どちらなんだろう。でもこのときのシンも可愛いけど」


「確かに2歳若いから得してるか……」


 と妙に納得してシンは調理場に戻った。それを見てマスターは笑った。


「ほんと変わってるでしょ、シン」


「そうですけど、妙に落ち着き過ぎて……ほんと9歳下なのかなって」


 とカウンター席から見える厨房でせっせと料理をするシンの姿が頼もしく見える。凛子たちの視線を感じてシンがチラッと見てきてニコッと笑う。


「どうです? シンのことは色々知りましたか?」


「ぼちぼち……電話とかメールとかで」


「いいですねぇ、付き合いたてって新鮮で羨ましい……この感覚のままずっと一緒にいたいものですね……」


 と言いながらコーヒーを注ぐマスターの微笑み。そしてその背後にある写真立てに映るマスターの亡くなった奥さんの写真を見るとグッとくるものがある。


 確かに今までの恋も付き合いたてのあのときめき、ものすごく幸せに満ち溢れていたことを思い出す。

 だがそれらは長く続かなかった。そう思うと気持ちも沈んでいく凛子。


「いつまでも続かない、それは仕方がないのですよ、人生いろいろですからね」


「確かにそうかもですけど……ね。シンの方が若いし……これからどうなるのだろう。前の時も結婚の現実が近づいてから色々嫌なところが見えたんです」


「一番は偽らないこと。偽ると人生の節目で化けの皮が剥がれる……でも一緒になりたいがために虚勢を張り嘘をつく。難しいものですねぇ」


 マスターの言葉にコーヒーとまた試作品のロイヤルティーケーキの味がかなり濃厚になってきた。


 マスターは、コーヒーを注ぎ終えると、少し照れたように笑った。


「……偉そうなことを言ってしまったかもしれませんね。でも、あの人がいなくなってから、やっと気づいたことなんです。素直でいるって、勇気が要る。でも、それが一番後悔のない生き方かもしれませんよ」


 カウンターの奥に飾られた一枚の写真。笑顔の女性が写っている。そこにそっと視線を送るマスターの眼差しに、凛子は自然と胸が詰まった。


「……はい。ありがとうございます」


 と、そのとき――


「……僕も、聞いてました」


 ふいに背後から声がして振り返ると、シンが厨房の入り口に立っていた。


「え、いつの間に……」


「ちょっと前から。声だけ……聞こえてて」


 手に持った皿から湯気が立っている。その向こうに見えるシンの横顔は、どこか静かで、少し寂しげだった。


「……マスターの奥さんの話、僕も何度か聞いてるけど……大事な人と、嘘なしでいたいって気持ち……すごく、わかる気がします」


「シン……」

 彼の瞳はじっと凛子を見ていたわ


「僕も、嘘つかないようにします。凛子さんにも、マスターにも。……それから、自分にも」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと口にしたあと、シンは少しだけ微笑んだ。でも、その笑みはいつもの調子とは違って、どこか大人びて見えた。



 ⸻


 マスターは、そんな二人を見守るように目を細めた。


「……さ、ロイヤルティーケーキ、召し上がってください」


 ほんのりと紅茶が香る優しい甘さと、心の奥にじんわりと広がる温もりが、静かな昼下がりにそっと重なった。



 口の中にはロイヤルミルクティーのような、少しほろ苦い味が広がる。


「多分このケーキ、カフェラテかアメリカーノと合うと思います」


「ほら、やっぱり」


 マスターが嬉しそうにシンを見る。シンもうんうんと深くうなずいた。


「佐藤さんのイメチェンだって、凛子さんの案なんだし……そういう企画部とかそういう部署とかないの? 凛子さん、ぴったりだと思うけどなー」


「そうかなぁ……」


(……でも、転職でもしない限り無理だってば)


 凛子は内心、期待に応えられそうにない自分が少しもどかしく思えた。


 けれど、マスターとシンのまっすぐな言葉は、今の自分にほんの少しだけ勇気をくれる気がした。


「……ありがとう。そう言ってもらえると、なんか嬉しいです」


 これから先どうなるのかは、まだわからない。でも、二人が見てくれている可能性に、そっと手を伸ばしてみたくなった――そんな午後だった。


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