一瞬、動きが止まった。
シンは凛子の肩に顔を埋めたまま、小さくうなずいた。
「ある……ちゃんと、あるよ」
そう言って、ベッド脇の引き出しを慌てて開ける。
もたつく後ろ姿に、凛子は思わずくすっと笑った。
「あっ、これ……これは……」
「いいよ、大丈夫。前の人との、でしょ?」
「……御名答。でも、これなかったら凛子さん部屋に入れないよ。マジで」
シンは照れを隠すように準備を整えながらも、どこか不器用で、それがまた凛子には愛おしく映った。
「シンって、こんなに慌てるんだね」
「……そりゃ、緊張するよ。凛子さんが、目の前にいるんだから」
その言葉があまりにもまっすぐで、胸が熱くなる。
凛子はシンの手に、そっと自分の手を重ねた。
「私も……緊張してる。でも、こうしてるのがうれしいの。シンと」
もう一度唇を重ねる。
触れ合う肌、重なる鼓動。
名前を呼び合いながら、ゆっくりと心と身体が溶けていく。
――急がなくていい。
焦らなくていい。
ただ、互いの存在を確かめ合うように、何度も抱きしめ合った。
「……痛くない?」
シンの優しい囁きが耳元で響く。
それだけで凛子の身体はまた熱を帯びた。
「うん、大丈夫。……優しいね、シン」
「……凛子さんが、大事だから」
その言葉に、凛子はそっと目を開けた。
不思議だった。他の人といる時は、いつも自然と目を閉じていた。
でも今は、シンのことをちゃんと見ていたいと思った。
まぶたを閉じるのがもったいない。
この瞬間を、ちゃんと焼きつけておきたい――そんな気持ち。
「見てると……照れ臭いよ」
「それでも……見てたいの。シンを」
「うん……わかった。見てて……凛子さんっ……」
シンの苦しげな、でも幸せそうな表情に、凛子の身体も一気に震えた。
「あ……ああっ……!」
シンにしがみつくようにして、幸福の絶頂に達する。
頭の奥でなにかが弾けるような、多幸感。
(やばい……)
言葉なんて出てこない。
ただ、溶けてしまいそうなほど、満たされていた。
肌と肌が触れ合ったまま、しばらく2人は動けなかった。
汗ばんだ体を預け合うようにして、静かな呼吸を重ねる。
やがて、凛子がそっと身じろぎし、シンもそれに応じるように体をずらした。
ふたりは、並んで仰向けになった。
シーツの上に肩を並べて、天井を見つめる。
凛子はゆっくりと目を閉じ、心の中でそっと思った。
(久しぶりに……激しかったな)
思い出されるのは、かつての婚約者・雅司との夜。
あの人は年齢も近くて、行為もどこか予定調和で、穏やかで……。
けれど今のシンは違った。
まだ20代前半。まっすぐで、遠慮がなくて、若さ特有の熱があって――
そのすべてが、今の凛子には新鮮で、正直に言えば、心地よかった。
2人とも、汗をかいたままぐったりと天井を仰いでいる。
「……ねえ、シャワー……浴びる?」
横にいるシンが、少し息を整えながら声をかけてきた。
けれど凛子は答えず、ふわりと笑っただけ。
多幸感の余韻に包まれて、体を起こす気にはまだなれなかった。
そんな彼女の表情を見て、シンもくすっと笑う。
そして、静かに手を伸ばし、凛子の頭をやさしく撫でた。
「……先、行ってくるね」
そう言って、名残惜しそうにシーツをめくり、シンは立ち上がった。
ベッドには凛子が一人取り残される。
まだ火照りの残る肌に、少しずつ冷たい空気が触れていく。
(9歳も年下の彼と、こんなことをするなんて……)
ふと、そんな思いが胸の奥をかすめた。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、恥ずかしくて、うれしくて――
ベッドに沈んだまま、凛子はシーツを軽く引き寄せた。
一人になった空間で、彼の声や肌の熱がじわりとよみがえる。
(夢みたい……)
そう呟いた凛子の頬が、またほんのりと赤く染まっていった。
凛子もシャワーから上がり、バスタオルを首にかけたまま凛子が部屋に戻ると、シンが「おかえり」と笑いながら振り返った。ボクサーパンツ一枚という無防備さに、凛子は思わず吹き出してしまう。
「この格好おかしい? 凛子さんにしか見せないんだもん」
そんなことを平然と言うシンに、胸の奥がまたふわりと熱くなる。
凛子は、何も言わずにキャミソールの肩紐を指先で下ろし、すっと脱いでシンの胸に顔をうずめた。自然にそうしたのに、自分でも少し驚いた。
「凛子さんー……もう……またしたくなっちゃうよ。明日、早いんだから」
シンの腕の中で、凛子は小さく笑った。止まらない。微笑みが、自分でもどうにもならないくらいこぼれてくる。
けれど、ふと胸の奥に、冷たい何かがよぎる。
(また……こうして浮かれて……)
前の恋でもそうだった。うまくいっていると思い込んで、先走って、結局突き落とされた。花畑状態で舞い上がっている自分を、あとから何度も恥じた。気づけばいつも、置いていかれる側だった。
そんな思考が顔を出しかけた瞬間――
「凛子さん……」
不意にシンが抱きしめてくれた。そっと、けれど確かに。額に唇が触れ、やさしく、そして長くキスをする。
その温もりが、ぐらつきかけた心をしっかりと支えてくれる。
(……だいじょうぶ)
まだ確信はない。未来の保証も、ない。
でも、この瞬間にだけは、嘘がなかった。
布団に入り、並んで横になると、シンが自然に腕を伸ばした。
「こっち、おいで」
その言葉に少し戸惑いながらも、凛子は目を見て確かめるように問いかける。
「……腕、痺れない? いいの?」
シンは照れくさそうに笑いながら、小さく頷いた。
「うん。むしろしてたい。凛子さんの重さなら、ちょうどいいから」
その言葉に甘えて、凛子はそっとシンの腕に頭を乗せた。胸の鼓動がすぐそばで聞こえる。
こんなふうに寄り添うのは、何年ぶりだろう。
「……落ち着く」
凛子がつぶやくと、シンの手がそっと肩に回される。優しく撫でられ、心まで包まれるようだった。
「俺も。こうしてると、すごく安心するんだ」
微かな吐息が耳元にかかり、凛子の頬がほんのり赤く染まる。
やがて、2人は何も言わずに、静かに目を閉じた。
ハッと目を覚ますと、スマホの時計は6時半を示していた。
「寝過ぎた……!」
反射的に体を起こしかけたが、すぐに思い出す。今日は仕事がない。焦る必要もない。
……それにしても、腕枕をしてくれていたはずのシンの姿がない。
布団の温もりだけが、昨夜の現実を物語っていた。
スマホに新着メッセージが届いていた。
おはよ、起きたかな?
朝ごはん用意してあるからおいで。
服は僕のがあるから、クローゼットから選んで着ていいよ。
その文面に、凛子は自然と頬が緩んだ。
彼の部屋を見渡すと、思いのほかきちんと整えられている。
クローゼットの扉を開くと、様々な色の服が丁寧に掛けられていた。中性的なデザイン、明るい色味。ピンクのボーダーのスウェットに目が留まる。自分のジーンズと合わせても違和感がなさそうだった。
――あれは夢じゃない。
昨日の夜のことを思い出すたびに、胸の奥がくすぐったくなる。
少し疲れが残る身体にその実感が残っていた。
身支度を終え、香るスウェットに包まれながら階下の喫茶モリスへ降りると、カウンターにはマスターの姿があった。
コーヒーの香りが迎えてくれる。
「おはようございます……」
「おはようございます。昨晩は、いきなりすいませんでした」
「いえ……ゆっくり、休みました」
(実際は、休んでないけど……)
心の中でそっと突っ込みながらも、声が聞こえてなかったかと気まずくなる。
すると厨房からシンが顔を出す。
「おはよう、凛子さん」
「……おはよう、シン」
目が合った瞬間、昨夜の情景が一気にフラッシュバックして、互いに視線を逸らしそうになる。
「もう少ししたらパートさん来るけど、早めに来たって言えば平気。お腹、空いてるよね?」
「はい……厚かましくも、いただきます。モーニング食べたかったので。もちろん、お支払いします」
凛子が言うと、マスターがゆっくり首を振った。
「今日は新しいモーニングの試作品だから、食べてもらえると助かるんですよ」
「いえいえ、そんな……」
恐縮する凛子だったが、シンが「いいの、いいの」と背中を押すように言ってくれたので、凛子は遠慮がちに「では、お言葉に甘えて……」と返した。
しばらくして、シンが運んできたプレートには、ホットドッグとサラダ、スープ、それに小さなフルーツが添えられていた。
「わ、美味しそう……」
ひと口かじった凛子は、思わず笑みをこぼす。
「うん、おいしい……」
するとシンが嬉しそうに身を乗り出す。
「よかった。今日の試作なんだ。マスターと相談しながら改良してる」
「へぇ……なんか、喫茶店の仕事、すごく楽しそうだね」
「楽しいよ。料理って、すぐ反応が返ってくるから達成感あるし。でも……」
シンは少し視線を落として、続けた。
「やっぱ本業、芸人としてもっと頑張らなきゃなって思うよ。バイトの比重はまだまだ大きい」
凛子はコーヒーに口をつけながら、黙ってシンの言葉に耳を傾ける。
「でも今日、昼からラジオでしょ? 楽しみにしてる」
シンは一瞬驚いたような顔をして、照れくさそうに笑った。
「……ありがと。凛子さんがそう言ってくれると、ちょっと自信出る」
「聴くからね。ばっちり」
「うん、頑張る」
そこにひょっこりマスターが加わり
「私も楽しみです」
と微笑んでその場は和んだ。