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第42話 幸せな時間

 一瞬、動きが止まった。

 シンは凛子の肩に顔を埋めたまま、小さくうなずいた。


「ある……ちゃんと、あるよ」


 そう言って、ベッド脇の引き出しを慌てて開ける。

 もたつく後ろ姿に、凛子は思わずくすっと笑った。


「あっ、これ……これは……」


「いいよ、大丈夫。前の人との、でしょ?」


「……御名答。でも、これなかったら凛子さん部屋に入れないよ。マジで」


 シンは照れを隠すように準備を整えながらも、どこか不器用で、それがまた凛子には愛おしく映った。


「シンって、こんなに慌てるんだね」


「……そりゃ、緊張するよ。凛子さんが、目の前にいるんだから」


 その言葉があまりにもまっすぐで、胸が熱くなる。

 凛子はシンの手に、そっと自分の手を重ねた。


「私も……緊張してる。でも、こうしてるのがうれしいの。シンと」


 もう一度唇を重ねる。

 触れ合う肌、重なる鼓動。

 名前を呼び合いながら、ゆっくりと心と身体が溶けていく。


 ――急がなくていい。

 焦らなくていい。


 ただ、互いの存在を確かめ合うように、何度も抱きしめ合った。


「……痛くない?」


 シンの優しい囁きが耳元で響く。

 それだけで凛子の身体はまた熱を帯びた。


「うん、大丈夫。……優しいね、シン」


「……凛子さんが、大事だから」


 その言葉に、凛子はそっと目を開けた。

 不思議だった。他の人といる時は、いつも自然と目を閉じていた。

 でも今は、シンのことをちゃんと見ていたいと思った。


 まぶたを閉じるのがもったいない。

 この瞬間を、ちゃんと焼きつけておきたい――そんな気持ち。


「見てると……照れ臭いよ」


「それでも……見てたいの。シンを」


「うん……わかった。見てて……凛子さんっ……」


 シンの苦しげな、でも幸せそうな表情に、凛子の身体も一気に震えた。


「あ……ああっ……!」


 シンにしがみつくようにして、幸福の絶頂に達する。

 頭の奥でなにかが弾けるような、多幸感。


(やばい……)


 言葉なんて出てこない。

 ただ、溶けてしまいそうなほど、満たされていた。





 肌と肌が触れ合ったまま、しばらく2人は動けなかった。


 汗ばんだ体を預け合うようにして、静かな呼吸を重ねる。

 やがて、凛子がそっと身じろぎし、シンもそれに応じるように体をずらした。


 ふたりは、並んで仰向けになった。

 シーツの上に肩を並べて、天井を見つめる。


 凛子はゆっくりと目を閉じ、心の中でそっと思った。


(久しぶりに……激しかったな)



 思い出されるのは、かつての婚約者・雅司との夜。

 あの人は年齢も近くて、行為もどこか予定調和で、穏やかで……。

 けれど今のシンは違った。

 まだ20代前半。まっすぐで、遠慮がなくて、若さ特有の熱があって――

 そのすべてが、今の凛子には新鮮で、正直に言えば、心地よかった。


 2人とも、汗をかいたままぐったりと天井を仰いでいる。


「……ねえ、シャワー……浴びる?」


 横にいるシンが、少し息を整えながら声をかけてきた。

 けれど凛子は答えず、ふわりと笑っただけ。

 多幸感の余韻に包まれて、体を起こす気にはまだなれなかった。


 そんな彼女の表情を見て、シンもくすっと笑う。

 そして、静かに手を伸ばし、凛子の頭をやさしく撫でた。


「……先、行ってくるね」


 そう言って、名残惜しそうにシーツをめくり、シンは立ち上がった。


 ベッドには凛子が一人取り残される。

 まだ火照りの残る肌に、少しずつ冷たい空気が触れていく。


(9歳も年下の彼と、こんなことをするなんて……)


 ふと、そんな思いが胸の奥をかすめた。

 でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 むしろ、恥ずかしくて、うれしくて――

 ベッドに沈んだまま、凛子はシーツを軽く引き寄せた。


 一人になった空間で、彼の声や肌の熱がじわりとよみがえる。


(夢みたい……)


 そう呟いた凛子の頬が、またほんのりと赤く染まっていった。





 凛子もシャワーから上がり、バスタオルを首にかけたまま凛子が部屋に戻ると、シンが「おかえり」と笑いながら振り返った。ボクサーパンツ一枚という無防備さに、凛子は思わず吹き出してしまう。


「この格好おかしい? 凛子さんにしか見せないんだもん」


 そんなことを平然と言うシンに、胸の奥がまたふわりと熱くなる。


 凛子は、何も言わずにキャミソールの肩紐を指先で下ろし、すっと脱いでシンの胸に顔をうずめた。自然にそうしたのに、自分でも少し驚いた。


「凛子さんー……もう……またしたくなっちゃうよ。明日、早いんだから」



 シンの腕の中で、凛子は小さく笑った。止まらない。微笑みが、自分でもどうにもならないくらいこぼれてくる。


 けれど、ふと胸の奥に、冷たい何かがよぎる。


(また……こうして浮かれて……)


 前の恋でもそうだった。うまくいっていると思い込んで、先走って、結局突き落とされた。花畑状態で舞い上がっている自分を、あとから何度も恥じた。気づけばいつも、置いていかれる側だった。


 そんな思考が顔を出しかけた瞬間――


「凛子さん……」


 不意にシンが抱きしめてくれた。そっと、けれど確かに。額に唇が触れ、やさしく、そして長くキスをする。


 その温もりが、ぐらつきかけた心をしっかりと支えてくれる。


(……だいじょうぶ)


 まだ確信はない。未来の保証も、ない。


 でも、この瞬間にだけは、嘘がなかった。



 布団に入り、並んで横になると、シンが自然に腕を伸ばした。


「こっち、おいで」


 その言葉に少し戸惑いながらも、凛子は目を見て確かめるように問いかける。


「……腕、痺れない? いいの?」


 シンは照れくさそうに笑いながら、小さく頷いた。


「うん。むしろしてたい。凛子さんの重さなら、ちょうどいいから」


 その言葉に甘えて、凛子はそっとシンの腕に頭を乗せた。胸の鼓動がすぐそばで聞こえる。


 こんなふうに寄り添うのは、何年ぶりだろう。


「……落ち着く」


 凛子がつぶやくと、シンの手がそっと肩に回される。優しく撫でられ、心まで包まれるようだった。


「俺も。こうしてると、すごく安心するんだ」


 微かな吐息が耳元にかかり、凛子の頬がほんのり赤く染まる。


 やがて、2人は何も言わずに、静かに目を閉じた。












 ハッと目を覚ますと、スマホの時計は6時半を示していた。


「寝過ぎた……!」


 反射的に体を起こしかけたが、すぐに思い出す。今日は仕事がない。焦る必要もない。


 ……それにしても、腕枕をしてくれていたはずのシンの姿がない。

 布団の温もりだけが、昨夜の現実を物語っていた。


 スマホに新着メッセージが届いていた。


 おはよ、起きたかな?

 朝ごはん用意してあるからおいで。

 服は僕のがあるから、クローゼットから選んで着ていいよ。


 その文面に、凛子は自然と頬が緩んだ。

 彼の部屋を見渡すと、思いのほかきちんと整えられている。

 クローゼットの扉を開くと、様々な色の服が丁寧に掛けられていた。中性的なデザイン、明るい色味。ピンクのボーダーのスウェットに目が留まる。自分のジーンズと合わせても違和感がなさそうだった。


 ――あれは夢じゃない。

 昨日の夜のことを思い出すたびに、胸の奥がくすぐったくなる。

 少し疲れが残る身体にその実感が残っていた。


 身支度を終え、香るスウェットに包まれながら階下の喫茶モリスへ降りると、カウンターにはマスターの姿があった。

 コーヒーの香りが迎えてくれる。


「おはようございます……」


「おはようございます。昨晩は、いきなりすいませんでした」


「いえ……ゆっくり、休みました」


(実際は、休んでないけど……)


 心の中でそっと突っ込みながらも、声が聞こえてなかったかと気まずくなる。


 すると厨房からシンが顔を出す。


「おはよう、凛子さん」


「……おはよう、シン」


 目が合った瞬間、昨夜の情景が一気にフラッシュバックして、互いに視線を逸らしそうになる。


「もう少ししたらパートさん来るけど、早めに来たって言えば平気。お腹、空いてるよね?」


「はい……厚かましくも、いただきます。モーニング食べたかったので。もちろん、お支払いします」


 凛子が言うと、マスターがゆっくり首を振った。


「今日は新しいモーニングの試作品だから、食べてもらえると助かるんですよ」


「いえいえ、そんな……」


 恐縮する凛子だったが、シンが「いいの、いいの」と背中を押すように言ってくれたので、凛子は遠慮がちに「では、お言葉に甘えて……」と返した。


 しばらくして、シンが運んできたプレートには、ホットドッグとサラダ、スープ、それに小さなフルーツが添えられていた。


「わ、美味しそう……」


 ひと口かじった凛子は、思わず笑みをこぼす。


「うん、おいしい……」


 するとシンが嬉しそうに身を乗り出す。


「よかった。今日の試作なんだ。マスターと相談しながら改良してる」


「へぇ……なんか、喫茶店の仕事、すごく楽しそうだね」


「楽しいよ。料理って、すぐ反応が返ってくるから達成感あるし。でも……」


 シンは少し視線を落として、続けた。


「やっぱ本業、芸人としてもっと頑張らなきゃなって思うよ。バイトの比重はまだまだ大きい」


 凛子はコーヒーに口をつけながら、黙ってシンの言葉に耳を傾ける。


「でも今日、昼からラジオでしょ? 楽しみにしてる」


 シンは一瞬驚いたような顔をして、照れくさそうに笑った。


「……ありがと。凛子さんがそう言ってくれると、ちょっと自信出る」


「聴くからね。ばっちり」


「うん、頑張る」


 そこにひょっこりマスターが加わり


「私も楽しみです」


 と微笑んでその場は和んだ。









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